古代ロマンに満ち、風光明媚な山の辺の道の中でも、大神神社と並ぶ中核神社で、創建の古さでも一二を争うと考えられている石上神宮です。”神宮”の社号からは、皇室との関りの深さを伺わせます。新型コロナと梅雨の酷な大雨で大変な時期(※初回投稿時)となっていますが、つかの間の晴れ間の機会に、゛起死回生゛をお祈りしたいと参拝してきました。
・大鳥居
【呼称、神階】
「延喜式」神名帳では「石上坐布都御魂神社」とある他、「石上布都大神」「布都奴斯神社」「石上神社」「布留社」「岩上大明神」など結構いろいろな呼び名があります。850年には正一位の神階を受けています。
【ご祭神】
主祭神は人神でなく、まずは延喜式当時の社名である布都御魂神(韴霊)~国譲りの際に武甕槌命が帯び、神武東征では熊野で毒気に当てられて病んでいた神武天皇に、高倉下が献上し覚醒を促した、まさに起死回生の剣。「先代旧事本記」によると、天皇は即位後、物部氏の遠祖宇摩志麻治命にその神剣を授け宮中に奉祀させました。二柱目は布留御魂神~宇摩志麻遅命が父饒速日命から受け継いだ”十種神宝(とくさのかんたから)”を神武天皇に献り、神盾を立てて斎き祀った神気。三柱目が、布都斯御魂神~素戔嗚命が八岐大蛇を斬った十握剣。以上の三神です。配祀神は、宇摩志麻遅命、五十瓊敷命、白川天皇、市川臣命、です。
・鏡池の横の休憩所。天の岩戸開きの神話にちなんだ鶏が、御神鶏として放し飼いされています
【ご由緒】
神社の起源は、崇神7年に物部連の祖、伊香色雄命が勅を奉じて布都御魂神と布留御魂神を石上の高庭に移し祀った時です。次いで、「日本書紀」によると、垂仁39年には五十瓊敷命が剣一千口を造り石上神宮に納め、後には神宮の神宝の管理を任されます。同87年にはその五十瓊敷命も年老い、物部十千根大連がその任を授かりました。以降、物部連(後の石上朝臣)が石上の神宝を治めていきます。布都斯御魂神の方は、仁徳56年に市川臣が勅を奉じて石上神宮の高庭の地に遷し、布都御魂神の左(東)に埋斎したと、「新撰姓氏録」に記されています。
・重要文化財の楼門は改修中でした
この布都斯御魂神に関して、あの本居宣長は”垂仁26年に物部十千根に出雲の神宝を検校させ掌らせたとあるのは、崇神、垂仁天皇の時期に、出雲神宮にあった御剣を都に召し上げて石上に納められたのだろう”と「古事記伝」で推論しています。この後の時代でも、「日本書紀」で、皇太子時代の履中天皇が、皇位を巡る争いで墨江中王に不意打ちで攻められた時、逃げ込んだ場所として石上神宮が登場します。なぜ石上なのかは分かってないですが、何らかの聖域性をもっていたと考えられているようです。
・国宝の拝殿
【中世以降歴史】
平安遷都に伴い、805年に神宮の器仗を山城国葛野郡に運んだところ、1年で15万7千余人を要したと報告されました。凄い神宝の量だったのですね。当時、鳴鏑の神異がしきりに起こり村の人々が恐れおののいたので、布留宿禰高庭は神宝を遷す事を停止するよう奉聞しましたが聞き入れられず、さらに倉が倒れたりと良くない事が続きます。そこで春日祭使建部千継が女巫に神託を聞かせて奏上し、天皇の御年数に准じて宿徳僧69人に石上神宮で読経させ、神の怒りを鎮めてようやく神宮の器仗を返納させました(「日本後記」)。
・本殿。大正二年造営。拝殿との間が、古くからの禁足地。
社伝によると、1081年に白河天皇により宮中三殿の一つ、神嘉殿の拝殿が寄進され、上皇となられた後の1092年に参詣されます。入母屋造、檜皮葺で現存する拝殿としては全国最古、国宝に指定されています。しかし、鎌倉時代に入ると興福寺が守護権力を行使していく一方、当社は衰退していく事に。氏人は当社を中心に団結し、1483年には4000人が社頭に立てこもって興福寺に反発する布留一揆が頻発しています。
・拝殿は檜皮葺。入母屋造。
1559年には織田信長の応援のもと松永久秀が大和に侵入、河那辺伊豆守率いる尾張勢が当社に乱入、多くのものが散逸しました。さらに1562年、興福寺が春日社造用木にする為に布留山の木を求めたのに対し、松永久秀に訴状を提出して毅然たる態度で拒みました。明治の時代になり、官幣大社の社格を得て皇室からの幣帛がお供えされるようになり、明治16年には神宮号を復称する事を許されるのです。
・奥に見えるのが神庫(ほくら)
【社宝】
この神社は古来本殿が無く、拝殿後方の瑞垣内の禁足地が崇められていましたが、明治6年、当時の大宮司菅政友が神祇官の許可を得てその禁足地を発掘。一面瓦で覆われた下に東に鉾先を向けた剣一振が、勾玉、管玉などと共に出現したのです。この神剣は菅大宮司により”韴霊”と断定されます。その後も明治9年と大正2年の本殿造営時にも刀剣、玉類が出土しており、この地は祭祀遺跡として認識されます。
・こちらも国宝の摂社 出雲建雄神社の割拝殿。元は内山永久寺(廃絶)の鎮守、住吉社(焼失)の拝殿でした
この石上神宮の社宝としては七支刀(ななさやのたち:国宝)も有名で、「日本書紀」では神功皇后の摂政の時期に百済から献上されたとあります。こちらも明治6年に菅大宮司により銘文が公表され、内容の解読について議論が続いています。こうしてザっとまとめてみても、日本古代史を語る時に避けて通れない、誠に重要な神宝や伝承を数多く持つ重要な神社である事が理解できますね。
・摂末社。出雲武雄神社(左)と猿田彦神社
【伝承の語る石上】
東出雲王国伝承によるとこの地は、第二次九州東征勢力を率いた王が、大和での戦いに勝利した後に拠点とし政務をとった宮だったと説明しています。その後に続く、新たな大和王権の始まりの地だったと云うのです。また、物部十千根はこの東征軍の一派として、いわゆる出雲王国を攻めた司令官だったらしいという伝承を、神魂神社の記事で触れました。
・東回廊。「天理ぐるぐる」の右に七支刀の説明展示が写っています。
【宇佐家古伝による宮中鎮魂祭の起源】
「古伝が語る古代史」で宇佐国造家の子孫である宇佐公康氏によれば、宮中で行われている鎮魂祭の起源は、「先代旧事本記」天神本紀にあるように、饒速日命が天降る時に、天つ神が十種の神宝を与えて゛もし痛むときがあったら、この十種の瑞宝(みずのたから)を取って、一二三四五六七八九十と唱えて振れ、ゆらゆら振れ、かくすれば死人もよみがえるであろう゛との詔勅を下された事に由来します。宇佐氏は、この鎮魂のシャーマニズムは、菟狭氏と関わる応神天皇王朝の成立に伴って、原大和王朝以来、崇神王朝期に最も盛んだった物部氏のシャーマニズムを始め、和邇氏や大神氏のシャーマニズムが、菟狭氏の信仰と混交し、宮中祭祀として統一されたもの、と書かれています。この事が、宮中の鎮魂祭で奏される「阿知女の神楽歌」(゛上ります 豊日孁が御魂ほす 本は金矛 末は木矛゛の「津桙」神社の記事で記載しました)にも現れているそうです。
1766~1796年に宇佐神宮の宮司、宇佐公素の妻在子が、京都上賀茂神社の神家であり、当時上賀茂社は石上神宮とも縁故関係があったのことから、十種の神宝の行事といわれる振魂の清祓行事が宇佐家に口伝されていたとの事です。
・楼門。屋根は葺いてる途中でした
宇佐公康氏は、物部氏と宇佐氏の具体的な交流の事蹟は婚姻関係(それも、物部氏側は傍系の越智氏)くらいしか書かれてませんが、宇佐氏と物部氏の関りが、いわゆる邪馬台国以降の大和王権や応神王朝に繋がっていくザっと大まかな流れは、東出雲伝承と合うようにみえます。ただ、具体的なストーリーはだいぶ違いますけれども・・・
上記の本では、石上神宮での「十種祓詞」も掲載されており、゛・・・饒速日命は天岩船にのりて 河内国の河上の哮峯(いかるが)に天降り坐し給いしを その後大和国山邊郡布留の高庭なる 石上神宮に(十種瑞宝を)遷し鎮め斎き祀り・・・゛とあります。たしかに、物部氏は生駒山からこの石上神宮の地に入ってきたと現在も唱えられており、東出雲伝承と合うように感じられます。
・鶏舎と巫女さん。
(参考文献:石上神宮ご由緒のしおり、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、谷川健一編「日本の神々 大和」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、勝友彦「親魏倭王の都」その他大元出版書籍)
・初回投稿:2020年7月5日
古代出雲の話をいつも読ませて頂いています。
gooブログのメールメッセージ、メールモジュール設定をされていますか?
そちらでやり取りが出来たら有難いです。
有難いコメント頂き有難うございます。
お問合せのメールについては、何年か前に
gooアドレスが無くなり、また今は個人情報も
公開しておりません。まだまだ勉強中の身でし
て、申し訳ございませんが何卒ご理解お願い
致します。