摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

河内国二之宮 恩智神社2(八尾市恩智中町)~天川山や倭恩智神社から偲ばれる、「天王の森」にいた人達

2021年02月13日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

(恩智中町3丁目出土の銅鐸の写真を追加しました)

 

前編1の記事からの続きです。前回は、弥生中期を中心とした重要な恩智遺跡「天王の森」や、中臣氏との関係の実際などについて触れました。今回は祭祀氏族について、゛伝承゛の語る氏族系譜からいろいろ連想してみたいと思います・・・なお、見出し写真は記事でも写真を載せた131段の石段を、境内から見下ろした絶です。

 

・拝殿。平成の時代に改築した新しいもの。前に神龍(しんりゅう:左)と神兎(なでうさぎ)が居ます

 

【天川神社と住吉大社】

二柱の本殿の間には、天川神社が祀られています。ご祭神は天照大神高座神と同じ「春日辺(部)大明神」です。恩智神社の背後には天川山があり、頂上には神社の奥宮を証する石碑があるそうです。アマ川と読みます。天照大神高座神と同じご祭神が祀られている事は、恩智神社の本来的性格と関わるだろうと、谷川健一編「日本の神々 河内」で大和岩雄氏は言われます。また吉大とも、江戸時代まで関係があり、御祓御幸のとき、恩智の神輿住吉大社まで行って一泊していました。

 

・大御食津姫命を祀る左の本殿。こちらも平成の改築

・一間の切妻造。

 

【大和の倭恩智神社】

奈良県の天理市"海知"町に倭恩智神社があります。江戸時代の「大和志」にも、この神社が海智村に在ると書かれています。「日本の神々 大和」で小田基彦氏が、「大和国神社名帳」にある、倭恩智神社と当社が類社ある記述を紹介されています。゛海゛の読みはカイですが、これがウンチ、オンチ、アンチに通じるようです。ただ、両社のご祭神の違いや、こちら八尾の恩智社に中臣氏が関与する事から、これは違うと言われる事もあるようです。

 

・彦神・姫神の「神兎」が執り持つ良縁(縁結び)と天地を守護する「神龍」。間に天川神社の小さな流れ造の祠が鎮座します

・大御食津彦命を祀る右の本殿

 

【倭恩智神社と大和神社と海部】

しかし、八尾の恩智社が古代の時点で中臣は関係ないとするとどうなのでしょうか。倭恩智神社の鎮座地は変遷がありますが、旧鎮座ともに、近接する大和神社が祀られた事に起因する大倭に属ていたようだと、「磯城郡誌」にあります。大和神社祀氏は、大倭直氏。椎根津彦を祖とした氏族で、この御方は名、彦とも呼ばれます。倭恩智社の旧地の西南に初瀬川が流それは大和川となって、八尾の恩智神社の南側へ至ります。さらに、椎根津彦については、神戸市東灘区にある保久良神社の本来のご祭神と考えられていて、吉井良隆氏の゛椎根津彦は西宮附近を中心とし大阪湾北岸を支配する海部の首長゛だとする考えを、松本翠耕氏が紹介されていました。

 

・橿原神宮遥拝所

 

【伝承の語るアマ氏】

東出雲王国伝承は、天火明命の御子、天香語山の後に続く海部氏、尾張氏とは別の分家として、紀伊国造の祖となった高倉下の系譜も天香語山の後であり、その高倉下の子孫に珍彦がいる説を「出雲と大和のあけぼの」で紹介しています。天香語山と倉下子で別人だとの主張です。アマの香語山の後が、出雲伝承のいアマ氏系譜です(゛海部゛の名前は4世紀頃生まれたらしいです)。このアマ氏族全体の始祖は、中国ら穀物の神である宇賀魂の信仰を持ち込んだそうです。つまりハタ氏稲荷神と同じで、その別名がミケツ神ですね。そして言うまでもなく、住吉大社の祭祀氏族、津守氏は尾張氏から出た氏族です。出雲伝承を前提とすると、一応アマ氏つながりがあるように見えてきます。

 

・天児屋根命をお祀りする春日神社

 

倭恩智神社のご祭神の建凝命が天津彦根命の十四世であり、その後が倭俺知(アンチ)氏とされます。その天津彦根命は天照大神と素戔嗚命の誓約で生まれた神とされていますが、倭俺知氏共々事績がよく分かりまん。ただ、天津彦根命から凡河内国造への系譜の中で天之御影命が天津彦根命の御子だとされます。別名天目一箇神とも呼ばれる天(アマ)御陰命は、「海氏勘注系図」では倭宿祢とされる御方で、舞鶴市の弥加宣神社に祀られています。天村雲命の御子で、海部氏の最初の御方だと「系図」や出雲伝承は説明します。となると、どなたかよく分からない津彦根命は天村雲命がモデルでしょうか?また、天御陰命は椎根津彦(珍彦)と同じ御方という事にもなりそうですが、どうなのでしょうか。ただ、とにかく恩智神社もア氏に関わるようには見えます。

 

・境内と駐車場の間にある閼伽井戸(アカイド)。雨の降る前には赤茶の濁水が出て天気を予知するそう

 

【弥生時代の葛城のアマ氏】

天照大神高座神社の記事でも書きました通り、東出雲王国の分家登美氏(後、三輪氏や鴨氏)が、摂津三島を経由して葛城に移住した頃、柏原市の雁多尾畑にも住んだと云います(「事代主の伊豆建国」)。葛城には、丹後地方からアマ氏族も移住しており、連携して活動したらしいので、アマ氏系の人達も八尾に入っていた可能性を想像したいです。時期は出雲伝承からすると、中国の秦の時代の後なので、紀元前3~2世紀。登美氏が摂津三島と繋がり、そしてアマ氏が紀伊と繋がるという伝承は、「天王の森」(恩智中町3丁目)の紀伊や摂津淀川水系の発掘遺物内容と不思に合うように、個人的には見えます。

 

東京国立博物館の平成館に展示されている、恩智中町3丁目出土の外縁付紐式銅鐸。前2~前1世紀

 

(参考文献:恩智神社ご由緒、尾市文化財情報システム、中村啓信「古事記」、治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、谷川健一編「日本の神々 大和/河内・摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」、谷日佐彦「事代主の伊豆建国」、富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」その大元出版書籍


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