中河内地域の東の山麓の地で、丁度枚岡神社と恩智神社(隣には天照大神高座神社)の中間に鎮座します。これらの神社は何れも高台の地に南北方向に並んでいるのですが、とくにこの玉祖神社は大阪平野の絶景が一番眺めやすいところだと思いました。一の鳥居付近には、山口県防府市の元社に伝わる黒柏鶏(国指定天然記念物)の子孫という黒い鶏が、悠々と歩きまわっていました。言うまでもなく、当社ご祭神が活躍された、天岩戸神話に登場する長鳴鶏にちなんだものです。さらに、一の鳥居前には鶏の木の彫刻が、そして二の鳥両脇にも鶏の石像が置かれています。
・突如現れた黒柏鶏。世話をされる人はいませんでしたが、大丈夫なのでしょうかね
・参道中段にあるご神木の大楠の根元
【ご祭神・ご由緒】
ご祭神は、櫛明玉命、別称が玉祖命です。別名、玉祖明神や高安明神とも呼ばれます。これは、高安山麓の山手に位置しているためです。
高安の十一の村々の氏神で、公式のご由緒では、710年周防国から分霊を勧請したもののようで、これは「河内国高安郡玉祖大明神之縁起」や「恩智大明神縁起」に書かれているのです。周防国一之宮の玉祖神社にいた神が住吉浦へ上陸し、住吉明神から、広大な地を恩智の神が持っているので、分けてもらうように勧められ、高安郡7郷のうちの6郷まで分けてもらい、鎮座したといいます。祭神は櫛明玉命の事であり、この地に玉造部の人々が住んでいたので、その祖神を祀ったものだろう、と八尾市教育委員会は説明しています。
・左に曲がって、二の鳥居。両脇に鶏の石像があります
【祭祀氏族・神階・幣帛等】
「日本の神々 河内」で大和岩雄氏によれば、「新撰姓氏録」河内国神別に玉祖宿禰が載っており、この玉祖氏が祀っていた神社です。ご祭神は、天孫降臨に同行した五部の神の一柱であり、「古事記」では玉祖連らの祖先だとされます。一方の「日本書紀」では、一書の第一に玉作の遠祖として玉屋(タマノヤ)命を、また一書の第二には玉造りの役目とされたのは櫛明玉神だと記されています。大和氏は、さらに「新撰姓氏録」右京神別の゛玉作連。高魂命の孫。天明玉命の後なり゛という記述も併記されて、玉作連は玉祖連のことであり、玉祖命は玉屋、櫛明玉、天明玉の別称だと説明されています。
玉祖氏は、初めは連で、天武天皇十三年(648年)に宿禰になっています。玉祖宿禰は高御牟須比乃命の十三世の孫大荒木命(建荒木命)の後裔であり、「和州五郡神社神名帳大略注解」玉造神社条に、荒木命(大荒木命)が神功皇后の時期に珠を献じて玉祖の氏名を賜り、玉祖連の遠祖となったとみえています。
・境内の楠の根元にあるパワースポット。山に一礼して乗り、両手を拡げます
【ご由緒への疑問と玉生産遺跡】
大和氏は「日本の神々」の文章の中で、「式内社調査報告」の棚橋利光氏の説を引用されます。「和名抄」では、高安郡は四郷なのに、縁起の七郷はおかしいこと。もし7郷のうち6郷も氏地にするのなら、「延喜式」でも恩智神社と同じく名神大社であってもよいのに、小社であるのは不自然なこと。さらに、鎮座地地域が古代の玉作遺跡であるのは確実なこと、等を挙げられ、和銅三年に周防国から遷座とはおかしい、と考えられるのです。
つまり、縁起の説は古代の伝承ではなく、むしろ、玉祖神社が高安地区の総氏神的な存在になった発展期に、神社の権威を高める為に、周防国の玉祖神社、住吉大社、恩智神社との関係を結び、かつ神社の創建を当時としては一番古い和銅三年にもっていったのではないか、とまとめられていて、大和氏もこれに賛成されていました。
・拝殿
神社西方の平地には、五世紀の玉生産遺跡である八尾市池島・福万寺遺跡や、縄文時代晩期・弥生時代後期~古墳時代初頭・古墳時代後期(この時期の滑石製有孔石製品の未成品が出土)・奈良時代に亘る遺構・遺物が検出された太田川遺跡などが発掘調査されています。
・本殿
・本殿東側の彩色
【社殿、境内】
本殿は、棟札に「宝永三年(1706年)」と記されている事から、宝永年間に建てられたと考えられています。一間社の切妻造で、奥行き梁間は三間です。参拝を行う部分となる庇の向拝が屋根からつながっていて、このような形態は珍しいと、八尾市教育委員会は掲示で説明しています。隣の恩智神社の新しい本殿も、形式はおおよそ同じ形態です。建物には彩色が施されていて、東側面の竹と虎の絵柄が確認出来ました。
・境内からの大阪平野の絶景
【所蔵神宝】
1185年、当社の宮寺だった薗光寺の門前に掲げられた、北条時政署名の「文治の制礼」が当社に保存されています。そこには、薗光寺が「鎌倉殿」の御祈祷所であると記載されている事が、境内掲示でも紹介されています。現存最古の制礼で重要文化財。その他では、男女神像一対、楠木正成・畠山義就の書状などの神宝が所蔵されています。
・水神社。身代わりに鯉をこの池に入れると長生きするそうで、ご希望の方は社務所に要問合せです
・蛭子神社、吉野権現、住吉神社、恩智神社、八王子神社
【出雲の玉作部】
櫛明玉命をご祭神とする神社に、出雲の玉作湯神社があります。そして、斎部広成の「古語拾遺」に、諸国に設定された部民である忌部として、出雲国玉作の祖が櫛明玉命であり、その子孫は出雲に住んでいる、と書かれている事など忌部氏については、奈良県の天太玉命神社の記事で触れました。「日本の神々 山陰」で原宏氏は、玉作湯神社の祭祀氏族は、斎部氏の配下にあって「忌部の神戸」で玉作に従事した玉作部の首長であろうと説明されています。部姓の玉作氏は、地方の玉作(玉祖)郷の地を本拠としたと考えられるものも少なくない、と「日本古代氏族事典」にも書かれています。
・津山神社。幕末河内の疫病が蔓延したとき、五代前の神官が鎮めて祈願神をお祀りしたそうです
【伝承】
東出雲王国伝承での櫛明玉命は、忌部氏の祖・太玉命と共に東出雲王国王家の分家で、又の名を奇玉彦とも言うよう(「事代主の伊豆建国」)です。そして、その櫛明玉命の子孫が忌部氏になったと説明しています。そもそも忌部氏は出雲で勾玉を作っていて、そこからの太玉命が弥生時代中期に、東出雲王家の分家である登美氏に従って大和に移動してきて、忌部~斎部氏として大和で有力氏族になったらしいです。玉祖氏については出雲伝承で詳しい説明はなかったと記憶していますが、大阪の中河内~南河内に出雲人の痕跡が感じられ(美具久留御魂神社、金山彦・金山姫神社など)、それと一緒に当社付近に移住した忌部系の人達の後裔か、あるいは出雲からさらに移住してきた同系の人々の信仰から始まった神社なのかしら・・・といろいろ想像しています。
・長鳴鶏の彫刻
一の鳥居前の長鳴鶏の説明に、興味深い伝説が書かれています。つまり、垂仁天皇の御世、恩智神社の神様と玉祖神社の神様は氏子争いは止め、朝一番に起きて互いに出会った所で氏子の境界線にしようと話合い、玉祖の命の長鳴鶏が早く鳴き、高安の垣内に鉾を立て今に至る、というものです。これを出雲伝承を参考にして解釈すると、恩智社(アマ~海部氏系、この時代だから中臣氏はいない)と玉祖社(忌部氏系)が3世紀にはこの地に既に祀られていて、九州東征勢力の管理下に入ったか、あるいはその争乱の中で何らか内輪もめをした等を意味するのかしら、などと想像をたくましくしています。
(参考文献:玉祖神社公式HP・境内掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、近つ飛鳥博物館展示ガイドブック、「式内社調査報告」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)