邪馬台国論争では、女王卑弥呼の”径百余歩の大いなる冢”の候補として常に名前が挙がる、有名な陵墓、箸墓。中学生以来、本当に久々に間近で拝見しましたが、やはりその巨大さと堂々たるたたずまいをじっくり堪能させていただきました。写真は後円部頭から反時計回りに移動していきます。
・上ツ道沿い。中を覗くと段丘が見えるような
【炭素14年代測定法】
TVの歴史番組で取り上げられる際には、この墓の築造が、最新の科学的な測定から、卑弥呼が亡くなった3世紀中頃になりそうだとする話で邪馬台国大和説につなげられます。これは、1994年、北側の大池の水を抜いて行った第7次調査の時に発見された外周り幅50mにもおよぶ”落ち込み”の、最下層に有った土器類に付着した試料を炭素14年代測定法で年代分析された結果によります。
この炭素法の結果には異論も有って、けして”邪馬台国は大和で決まり!”ではありません。「天皇陵古墳を歩く」で元橿原考古学研究所の今尾文昭氏は「それを三世紀中葉の240-260年に限定して本当に良いのでしょうか」と、その土器試料の古墳との関係に慎重な意見を述べられています。安本美典氏も雑誌「邪馬台国」で、「土器付着炭化物で測ると、桃の核で測った場合に比べ、大幅に年代が古くでる」と言われています。活性炭のように土壌に含まれている腐植酸を吸着しやすく汚染する疑いがあるそうです。実は箸墓の出土物では、桃の核も炭素14年代測定法で分析されていて、そこでは4世紀の可能性が高いという結果が出ています。正確には、300年より前に15%の山があり、300年より後に85%の大きな山が有る、というデータになっています。こういう結果の出方をするものなのです。
【築造時期推定の経緯と議論】
昔は、平野部に有ることなどから、箸墓は決して古くなく4世紀の築造だとされていました。それが急に変わったのが、1976年。宮内庁書陵部の定期刊行物「書陵部紀要」に、埴輪のルーツである特殊器台や特殊壺が、後円部墳丘頂上付近で出土していた事が公表されたからです。これで一気に”最古の大型前方後円墳”との共通の理解となったようです。土器編年で見た場合は、布留0式が出土しており、邪馬台国大和説派の石野博信氏は280年前後、同じ考えの、纏向学研究センターの寺沢薫氏は270年以降と見られています。
それでも、元橿原考古学研究所の関川尚巧氏は、特殊埴輪が出たからと言って、急に3世紀まで古くならない、と2017年の全国邪馬台国連絡協議会の全国大会で主張されています。箸墓で出土した大きな二重口縁の壺形土器が、桜井茶臼山古墳や椿井大塚山古墳でも出ており、箸墓が飛びぬけて古いとは思えない事。さらに全長280mは巨大で、百舌鳥・古市古墳群にも匹敵する事や、等高線からの形状も行燈山古墳(崇神陵)や五社神古墳(神功皇后陵)に極めて近い事がその根拠です。同じ日に講演した、かつて共に纏向遺跡を発掘された石野博信氏は、「1日かけて関川さんと議論する必要がある」と話されていました。
墳丘への立ち入り調査・観察は2013年2月に行われています。前方部に段差があり、またくびれ部で丸い石を踏んでいる感覚があり石がごろごろしていた、と今尾文昭氏は「天皇陵古墳を歩く」に記述されています。
(以上、参考文献:今尾文昭氏「天皇陵古墳を歩く」、雑誌邪馬台国No.128、134、135)
素人目に山の辺の道近辺にある数々の古墳を見て、箸墓はやはり巨大で、この墓だけが飛びぬけて最初に突然出現したとは感じにくいとは思いました。。。
・斎槻山や兵主神社と一直線で並ぶ箸墓後円部
【伝承と円墳説】
東出雲王国伝承でも、箸墓の被葬者の話はさまよいます。まず、「古事記の編集室」では、モモソ姫の、元々は円墳だとしています。最新刊の「出雲王国とヤマト政権」でもモモソ姫の円墳だと云います。モモソ姫は九州からの一次東征軍侵入の混乱から、その祭祀の人気で大和の平和を一時取り戻した姫です。円墳の根拠は、1791年の「大和名所図会」の絵図のようで、確かに円墳が描かれてます。
・拝所
ただ、元々の全体図は、右に三輪山、中央付近に大神神社への参道が描かれ、箸墓は左端。限りなく南から見たとすると、前方部がはみ出るので絵師が横着して後円部だけ書いたと云えないか。箸墓はくびれ部が低い特徴があり目立たなかったとか。。。例えば、「河内名所図会」の誉田御廟山古墳は後円部斜め後ろから見た絵ではありますが、周濠が奥に丸く閉じるようで、前方部が有るようには見えません。写実的でなく結構テキトー。まあ、こればかりは確認のしようが有りませんね。一応、橿原考古学研究所が、築造当初から前方後円墳だったとの見解は出しているようです。
桜井市埋蔵文化財センターで記念にと購入した、纏向学研究センターの2016年「東京フォーラムⅣ「卑弥呼」発見!」の冊子には、250年までは帆立貝的な形で、266年頃に全体が完成という、刈谷俊介氏名義の築造経過推定図が載っていました。説明が確認できないので、根拠はわかりません。
・前方部南側
「親魏倭王の都」でのもう1説は、伊勢の姫がこの墓に葬られた、というもの。記紀には、トビ(登美)モモソ姫と接続した名前が使われました。九州からの2次東征後となり、4世紀に入ろうかという時期で、箸墓の巨大さからすると、年代的にはこれがなんとなくもっともらしい感じがしています。伊勢と三輪の神は同体ですし。ただ、そうなると”径百余歩の大いなる冢”はどこなのか、という話に戻ってしまいますね。
★上記に関して、書名変更した再発版「魏志和国の都」の公表されている目次を見ると(買い足してはいません・・・)、゛大和姫の箸墓゛から゛モモソ姫の箸墓゛に変更されていました。念のため、補記しておきます。