[ ひぬまないじんじゃ ]
参拝した日は天候が不安定で、当社へ向かう道中でも一時土砂降りになったりしてどうなる事やらと案じていましたが、当社に着くころには幸い雨もあがり、しっとりした雰囲気の中で参拝する事が出来ました。集落の細い道を通ってたどり着くような、谷間の奥の小規模な神社ですが、割と最近のものと思われる社殿が異様に大きかったり、砂の小山をまっすぐに掃き集めて参道を整えていたり、社務所のトイレが凄く綺麗だったりで、現在も大事に管理・運営されている事を感じました。
参道では色づいている木々も見られました
【ご祭神・ご由緒】
ご祭神は、豊受大神を主祭神に、瓊瓊杵尊、天児屋根命、太玉命が祀られています。当社付近の、近世前期以前の丹波郡と呼ばれた地域の「延喜式」神名帳の九座のご祭神は、現在いずれも豊受大神だと、「日本の神々 山陰」で山路興造氏が書かれています。「丹後国風土記」逸文の「奈具」の項に記されている、有名な天羽衣伝説と主人公の天女・豊宇賀ノ女ノ命が、つまりは豊受大神と同一神であるというのが地域の信仰となっているということです。
南面する二の鳥居
「丹後国風土記」逸文に載るという天羽衣伝説のあらすじは以下の通りです。つまり、゛昔、丹後国丹波郡比治山(現峰山町樽留の菱山)の山頂に泉があり、八人の天女が舞い降りて水浴をしていました。そこへ和奈佐と名のる老夫婦があらわれて一人の天女の羽衣を隠し、天に帰れなくなったその天女を養女にして十余年の間一緒に暮らしました。その天女は酒をつくって老夫婦を富ませましたが、10年以上経った頃に突如その家を追われてしまいます。荒塩の村などを流浪した末に船木の里奈具の村にたどり着き、「ナグしく成りぬ(心が安らかになりました)」と語ってその地にとどまりました。これが奈具の社の豊宇賀能売(トヨウカノメ)命である゛というもので、この舞い降りた地に関わるのが当社です。
ご祭神には異説もあって、1810年の「丹後旧事記」には、゛比治真奈為神社 祭神真奈為大明神・豊宇賀能売命、相殿 和奈佐翁・和奈佐女゛と記されます。相殿の二柱は、天女の羽衣を隠した老夫婦です。
石段下からの境内
【社名】
当社の名称について、「延喜式」九条家本は゛比沼麻奈為神社゛と記して「ヒヌマナイノ」と読んでいますが、吉田家本・中院家本は゛比治麻奈為゛と記して「ヒヌノ」「ヒチマナ井」の両訓を付けていて、後述する「丹後国風土記」逸文の標記と合わせて、社名については論争が有ります。
拝殿。神明造の舞殿風です
【式内社比定と「元伊勢」】
久次岳は真名井山、真名井ヶ岳とも呼ばれ、「丹後国風土記」逸文にある、゛丹後の国丹波の郡、郡家の西北の隅の方に比治の里あり、此の里の比治山の頂に井あり、其の名を真名井と云ふ゛の比治山にあてる説が有力だと、山路氏は書かれていました。
当社の比定については異論も存在し、大原美能理氏の「丹後国式内神社考」では、「比治(ヒジ)」として「フジ」の同意と考えて、同じく峰山町の鱒留に鎮座する藤社神社を、「延喜式」の比沼(治)麻奈為神社に充てています。しかし、一般的には久次の当社が式内社とされており、江戸時代の「峯山明神記」にも゛真名井明神゛として当社が見えています。
神明造の本殿。ただし、上半分は白壁で、また高欄がありません
また当社には、「元伊勢」の比定論争もあります。つまり、804年の「止由気太神宮儀式帳」に、雄略天皇の時代に天照大神の託宣があって、「丹波国比治乃真奈井座」御饌都神を宇治山田原に勧請して祀ったのが、伊勢神宮外宮である、という記事があり、これを受けて当社を伊勢外宮の旧地に比定する説が有力視されます。一方で、鎌倉時代成立の「神道五部書」以来の伊勢神道は、伊勢外宮の旧地を「丹波与佐宮」としていて、これが宮津市の元伊勢籠神社の奥宮真名井神社の旧称に当たる事から、籠神社の方でも「丹波国比治乃真奈井」はこちらであると説明されているのです。
拝殿の床など綺麗な感じです
【弥生時代の途中ヶ丘遺跡】
当社は、久次岳の東麓、竹野川にそそぐ鱒留川の支流の小谷川を見下ろす地に鎮座していますが、付近には弥生後期から古墳時代前期にかけての宮谷遺跡があり、さらに古墳時代後期の円墳もあります。また、当社から北東方向に3キロほど離れた場所の、鱒留川に接する段丘上には、弥生時代前期末から後期の環濠集落遺跡である途中ヶ丘遺跡が確認されています。長期間継続し、集落規模も大きい事から、竹野川中流域の拠点集落と評価されています。出土遺物には、土器、石器のほか、鉄製品、ガラス製品、玉生産関連遺物が有り、拠点集落内での手工業生産の実態を示していて、これらを交易品としてこの地方の発展を支えたと考えられます。さらに、土製品の陶塤(とうけん、土笛)が3点出土している事も注目されています。
小さな稲荷社が社殿に向かって鎮座
【伝承】
「お伽話とモデル」で斎木斎木氏は、豊受大神と豊宇賀能売命が同神異名と言われているので、比沼麻奈為神社と籠神社奥宮の真名井神社は関連性があると考えられ、つまりは比治の真名井から宮津市の真名井神社に遷座した可能性があると考えられていました。たしかに重要な弥生遺跡が近接する地から、奈良時代以降に国分寺が出来るなどして発展する宮津市方面に出て来た、というのは自然な流れに見えます。
なかなかの迫力で、「比治乃真奈井」がここである事を主張しているよう
それにしても、天羽衣伝説のような悲しい話がこの地に伝えられたのには、関係するそれなりの出来事があったと思いたくなります。和奈佐翁・和奈佐女は、いったい誰を喩えているのでしょうか。残念ながら、東出雲王国伝承はこの話に対応する説明はされていません。出雲伝承によれば゛天女゛と重なる姫は、大和に攻め上ってきた王とその東征軍の姫巫女だっと説明されています。その軍が大和から後に丹波まで侵攻した際に姫巫女もそれを追うように移動したらしいですが、斎木雲州氏はその時に海部氏に招かれ真名井神社(場所は゛丹後半島゛と記載)で信仰を広めたとします。一方、勝友彦氏は舟木里で奈具社を建てたと書きます。これらの関係の記述はありません。その後、姫巫女の兄がいる東征軍の一部が東海地方や更に東へ移って行ったので、この離別の時に何かもめ事があったのでしょうか。あるいは、海部氏(当時はアマ氏)と何か有ったのでしょうか・・・
天羽衣伝説では゛天女゛は奈具の地にとどまったとなっていますが、出雲伝承によれば姫は後に丹後地方からも出られたらしいです。記紀の説明内容によれば、猿田彦大神と共に伊勢の五十鈴川の川上の地に行ったとなっていますが、出雲伝承では鈴鹿市の椿大神社から誘われ、そこで悲劇に見舞われた、と一貫して説明されています。やはり「日本書紀」にある、天照大神を姫から離した・・・というごく簡潔で冷たさすら感じる記述との関連が気になります。ともかくこれらから想像されるのは、姫の半生は孤独であられただろうことが偲ばれ、高ツキ市民としては深く思いを寄せたいと感じます。
参道から一の鳥居をのぞむ
(参考文献:京丹後ナビHP、今城塚古代歴史館・特別展図録「古代の日本海文化-タニワの古墳時代-」、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 山陰」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)