願成寺・赤崎三十三観音・示現寺・慶徳寺・新宮熊野神社と長床
25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習第4回目は喜多方・熱塩加納方面。後半をアップします・・・
後半は、岩尾館の五輪塔、半在家の宝篋印塔、慶徳寺・新宮熊野神社と長床・・・
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佐原義連の墓とされる岩尾館の五輪塔(佐原さんのお庭)・・・

喜多方市熱塩加納町には義連の墓と伝えられる応永2年に建てられた供養塔があります。
北側には義連が築いたとされる岩尾館があり、現在も31代目にの佐原さんが住んでいます。
31代目、92才の佐原さんにお話していただきました。
鎌倉幕府が成立し、東北における平氏の残党や、平泉政権の打破に功績のあった将士に対し、
恩地恩賞を与えられ、会津四郡を領した地頭佐原義連は正治6年(一説には建久2年)
始めて会津郡幕の内村に住み、次いで耶麻郡半在家村旧国府の地に館を築いたという。
(平安時代。概に半在家には国府が置かれ、藤原友則の行政下にあり、
半在家と言う地名は寺領と官領が折半されていた所から生れた名であるという。
寺領とは恵日寺をさし、官領は公地を意味するもので、寺領が拡張していく過程で生れたという。
そして何故佐原姓なのに、芦名時代と言われるのかは、三代光盛の代に、
相模国三浦郡芦名を領していた事から、
佐原の姓を改め芦名としたという。また、この時期に若松の門田黒川に移住している。)
佐原義連の墓とされる半在家の宝篋印塔

伝・佐原義連の墓 県指定重要文化財
義連は天福元年(1233年)鎌倉で没し、佐原所領の地「満願寺」に葬られ、
会津にも分骨され、半在家に宝篋印塔、岩尾館に五輪の塔が残る。
高さ230cmの宝きょう印塔を囲む10基の五輪の塔は家臣の墓と言われている。
銘文から永仁(1298年)8月4日に造立と考えられるという。
慶徳寺

応安元年(1368年)源翁禅師がこの地に庵を結ぶ。
葦名8代、詮盛公が源翁に帰依し、一宇を建立「紫雲山慶徳寺」と称し、釈迦如来像を安置。
巻尾山、曹洞宗。本尊は、釈迦如来。 山門には、「禅房」と記載されている。
源翁禅師は全国を行脚するも、荒廃した慈眼寺を示現寺として中興し、曹洞宗に改宗開山し
示現寺に移るまでは、ここを本拠としたという。
禅宗の開祖、達磨大師が祀られ、紅梅図や格天井の日本画がみごとでした。
新宮熊野神社と長床

新宮熊野神社は、前九年の役(1051~62)のさいに源頼義が戦勝祈願のため勧請とされる古社。
その後、後三年の役(1083~87)の時に頼朝の子・義家がこの地に遷座した。
本宮、新宮、那智の三社が祀られている。
拝殿「長床」は平安時代の貴族邸宅神殿造りの形式をふまえたもので、
寄棟造り茅葺屋根、間口9間、奥行4間、欅材の径45.4cmの円柱が5列、3.03m間隔で44本並ぶ
長床(拝殿)、宝物殿の銅鉢は国指定重要文化財で、銅鐘は国認定重要美術品。
併設されている熊野神社宝物殿には銅鉢をはじめ、多くの国、県指定文化財が保存されている。
中でも、願い事を唱えながら木造文殊菩薩騎獅像の獅子の下をくぐると願いがかなうということで
堂守様のお許しで順番にくぐってきました。
境内にある大銀杏は、高さ30ートル、根本周り8メートルあり、樹齢600年といわれて、
黄葉はすばらしく、人気ある晩秋の撮影スポットのようです。
史跡めぐり第四回の2は、岩尾館の五輪塔、半在家の宝篋印塔、慶徳寺・新宮熊野神社と長床でした・・・