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あいづわくわく学園 猪苗代湖一周【3-2】隠岐津嶋神社・千手院伏竜寺・守屋神社・荒脛巾神社

2013年07月05日 | 郷土史・史跡・施設
あいづわくわく学園
猪苗代湖一周【3-2】隠岐津嶋神社・千手院伏竜寺・守屋神社・荒脛巾神社

25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習第3回目は猪苗代湖一周しての学習・・・
千年前かそれより以前のこの辺りに暮らしに思いを馳せ、歴史にロマンを感じました・・・
見学箇所が多いので2回に分けた後半をアップしようと思います。

猪苗代湖は南北14キロメートル、東西10キロメートル、湖面面積103.9k㎡の日本で4番目
(琵琶湖、霞ヶ浦、サロマ湖の次ぎ)に広い湖で、会津若松市、郡山市、猪苗代町に囲まれています。
猪苗代湖の湖面は標高514m、最大深度93.5mの湖です。時計回りに一周しました。

後半は郡山市湖南町福良の隠岐津嶋神社、福良字寺前の千手院観音堂、
会津若松市湊字経沢の守屋神社、湊字赤井の荒脛巾神社・・・どこまでが歴史か伝承か?
産鉄のことなどさらなる遺跡の発掘で、解明が進むとすごいな~と期待がふくらみます!!
画像クリックでスライドショーへ。BGMの音量にご注意ください。

隠岐津嶋神社 境内の風穴堂は商売繁昌のヘビ神様として信仰されているという・・・
画像クリックでスライドショーへ


隠岐津嶋神社 

郡山市湖南町福良地区。 周辺は福島県で一番の原生林。
馬入新田から、天栄村方向に少し進むと杉林の中に隠岐津島神社がある。
平安時代に筑紫国宇佐郡の宗像大社より勧請し、隠津島神社と号したのが始まりだという。

社叢(境内の森林)は約15ヘクタールの鬱蒼とした原生林に覆われ、幽玄な雰囲気がありました。
伐採は禁じられており、福島県指定天然記念物、福島県緑の百景にも選定されているという。
菅の自生する菅谷地があろことから「お菅様」とも呼ばれ、禊の場の菅滝では雨乞いをしたという。

寛永年間、保科正之中将入部ありて後2万5千平方米余の土地寄付され、
延喜式内社隠津嶋神社の号を復し、正容の時代に神殿を新たに造営されたという。

境内には風穴堂があり商売繁昌のヘビ神様として信仰されておりご祭礼のときは賑わうという。


千手院観音堂


千手院無窮山伏竜寺

真言宗の寺院で、磐梯町の慧日寺の別院として開かれ、修行の寺として
坊の数が四十もあったといわれている。
千手院には大同年間に造られたとされる観音立像が安置されている。
桧材の一木彫、像高1.73m、毛髪に墨、唇に朱を入れただけの素像
手は三十四手ある。鎌倉時代の作といわれている。

また、千手院には樹齢400年の二本のモミの木がある。
北側の木は、目通り6.3メートル、高さ約30メートル、
南側の木は、目通り5.5メートル、高さ25メートル、
通常モミの木は寿命が200年程と言われるが、ここのモミは二倍の年月を生きていることになる。

平成2年9月に北側の木に落雷があり、約10メートルが痛んだので、半年かけて手入れしたという


千手院観世音菩薩立像(郡山市重要文化財)


千手院観世音菩薩立像

千手院の観世音菩薩立像は大同年間に造られたとされ
桧材の一木彫、像高1.73m、毛髪に墨、唇に朱を入れただけの素像。
手は三十四手ある。鎌倉時代の作といわれている。



守屋神社


守屋神社

猪苗代湖の西岸、会津若松市の東端に「経沢(へざわ」)という集落があります。
「守屋家の子孫が幾山河を経てこの地に来たので経沢といったという伝説がある」そう・・・

会津の歴史伝説によれば、
猪苗代湖の西岸、会津若松市の東端の経沢(へざわ)集落に守屋神社がある。
守屋神社の祭神は、守屋大連命(もりやおおむらじのみこと)である。
守屋様は物部尾輿(もののべのおこし)の子で、572年以降大連として朝政に参与、
崇仏派の大臣蘇我馬子(おおおみそがのうまこ)と対立し、
用明天皇の没後、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させようとはかったが、皇子は馬子に殺され、
守屋様は馬子・厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみおうじ:聖徳太子)らの兵に攻められ敗死した。
このとき守屋様の娘と臣下の者が難をのがれ、流浪(るろう)の末にたどりついたところが、
陸奥の山深いこの経沢の里だったのである。

経沢(へざわ)村は県道からも湖からも離れ、米づくりを専業としてひっそりと息づく山里であるが、
昔はこの村の中を鎌倉への道が通っていた。
そして経沢金山の繁昌(はんじょう)してた頃には民家が二〇〇軒もあり、村は活気に満ちていたという。
こんな鄙の地に、貴人の落人伝説が残る経沢集落。ほんとに驚きの現地学習でした。


荒脛巾神社(湊町赤井字赤井)

荒脛巾神社(湊町赤井字赤井)

この神社は、神武帝が大和に王朝を樹立する以前の邪馬台国五畿七道の王が180余族の上に君臨し、
信仰していた荒覇吐神にまで遡る!!?
荒覇吐神の信仰は元をただせば古代中国の西王母信仰から発したという。

邪馬台族は渡来人を祖とする様々な種族、信仰を持つ諸族を統一して荒覇吐国を建国。
信仰も統一して荒覇吐神をもって永代の国神としたという。
アラハバキ族は産鉄族でその神々は同一神で鍛冶神であるという。

このようにして荒覇吐神は、安倍一族が前九年の役で厨川の合戦で源頼義・義家に敗れるまで
東北の全能神として崇められてきたが、安倍一族の滅亡と、

それより前に東北に落ちてきた物部一族の天地八百万神の影響、
さらに荒覇吐神が目ひとつ、ないしは片目の巨人とされ、
石がご神体となっているところから記紀神話にそぐわないということで、摂社・末社に
おとされたり、別格の神へと変えられていった。
それで、社名の表記も変わり、祭神本来の性格も失われた。

そんな歴史があるとはもうびっくりです。神社の精霊がいて話してくれたらな~

湊町赤井は北側に戸ノ口原・赤井谷地があり、白虎士中二番隊の退却経路として有名です。


史跡めぐり第三回は、古代に創建され寺院等は、一時は衰退しても時代が変わり人が変わると復興され、
往時の輝きを取り戻し、篤く信仰され社は護られ、今に繋がっていること、
講師のお話を聞きながら、現地学習でき意義深い一日でした。

コメント
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