モノと心の独り言

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「我思う前に、我在り」、『文化を生きる身体』を読んで’社会システム’による制御社会へ向かう途上で芸術を考える

2016-06-24 06:46:05 | ブログ「モノと心の独り言」のご案内

近代合理精神での「我思う故に、我在り」=思わない・意識の遡上に乗らないコトは、非合理といわれた教育を、敗戦後全面的に受けてきた世代が多くを占める時代になった。しかし、更に観察・計測・集計・思考するセンサー技術と情報処理技術が発展普及してみると、意識以前の身体と周囲の環境と増殖した神経細胞の活動との関連が明らかになってきています。

そこで、『文化を生きる身体-間文化現象学試論』山口一郎 著では、「現代日本での哲学で理解される身体」、「気と身体」、「武道の修行と身体性」、「我ー汝ー関係」と身体性、「仏教哲学と身体性」、「唯識哲学と身体性」「禅仏教における身体性」、「主観ー客観の分岐以前と以後の心身の統一」と論が進んでいます。

 

一方、意識を拠り所にすれば、『社会システムの生成』大澤真幸 著では、’求心化作用’と’遠心化作用’のフラクタルな重なりの先に「第三者の審級」として、『身体の比較社会学』からの論考を重ねます。

 

近代的理性的個人が、現象学/認知科学/行動科学で分解されてゆくと、人は制御の対象として、センサーネットワークで検知され・蓄積された個別指向性の沿った刺激をフィードバックされ、社会的なシステム/情報装置の中に生かされることになる。

参考:『制御と社会』北野圭介 著

 

複雑系の宇宙で、大脳皮質を肥大化してきた人類は、’芸術’という脱領域活動により、自己組織化と展開をつづけてゆく。

参考:『社会の芸術』ニコラス・ルーマン著

 

芸術とは、状況と情況の中で命を突き動かせる錬金術であり、三重構造の脳と心身/環境の相互作用の結晶として、社会化されたもの。’社会’とは、Social の日本語訳である以前は、社(やしろ)での会(あつまり)だった。祭に捧げられる芸能も、担ぎ上げる神輿も、輪になって踊り巡る盆踊も、日本的な第三者、四季を繰り返し、どうしようもない災いと恵みをもたらす自然と先祖のへの意識集合のため。その繰り返しから一歩を踏み出す結晶的な行為が芸術と呼ばれる。


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