日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

大光山本圀寺(京都市山科区御陵大岩町)

2018-03-18 17:34:59 | 旅行
春寒がようやく緩んできた3月、2泊3日の日程で京都を旅してきました!
桜もいろんな種類があり、完全に蕾状態の木もあれば、満開の木もあります。京都は本当に桜が多いですね~!


初めて訪問しました、山科。
山科は、京都と大津のちょうど中間点にあります。


山科駅から京阪電車で一つ目の「御陵」で下車。
「ごりょう」と読んでしまいがちですが、「みささぎ」です。
大化の改新で有名な天智天皇のお墓が近くにあります。


スマホのグーグルマップを使いながら住宅街を抜けて行きます。


大きな用水路に出ました。琵琶湖疎水です。
琵琶湖の水を京都に引くために、明治時代に造られた水路です。
水道の目的よりもむしろ発電や水運で重宝されたようです。
100年以上の時間を経て、現在は観光名所にもなりつつあるようですよ。


高貴な方の御車でも通りそうな赤い橋を渡ります。


新しい題目法塔

大本山・本圀寺です。
日蓮宗ポータルサイトによると、本圀寺の他に、宗門に大本山は6ケ寺(誕生寺、清澄寺、中山法華経寺、北山本門寺、池上本門寺、妙顕寺)あるそうです。


総門です。
手前には「日蓮宗教院」の石柱。お坊さんの学校としての役割もある場所なのでしょうか。


開運門というそうです。
法華の篤信者だった加藤清正の寄進によるそうで、約20年前に修復・復元したそうです。
お題目を唱えながらくぐると運が開けると言われるそうで、もちろん実践!!


山号は「大光山」です。


大きなお祖師様のご尊像に合掌。


大光山本圀寺はもともと鎌倉・松葉ケ谷にありました。
日蓮聖人は伊豆法難がご赦免になったあと、鎌倉武士・石井長勝公の邸内に草庵(法華堂)を結び、しばらく過ごされたといいます。
この法華堂が大光山本圀寺のルーツです。


(↑ 画像は鎌倉松葉ケ谷・長勝寺の法塔)
京都本圀寺の成り立ちは、歴史に疎い僕にはちょっと理解が難しいんですが、いろんな資料を読んだ上での僕なりの解釈を書いてみます。


日蓮聖人がご入滅されてしばらく後に鎌倉幕府が滅亡し、足利尊氏が室町幕府を作り、政治の中心は京都に移りました。
当時の京都では法華信者が増えて一大勢力になっていました。
京都には法華の勅願寺として、既に妙顕寺がありましたが、妙顕寺は南北朝で対立した後醍醐天皇が綸旨を下してできたお寺であり、法華勢力の支持を得るには尊氏自身がもう一つ、核となる法華の勅願寺を作る必要があったと思われます。


そこで尊氏は、日蓮聖人が鎌倉で住まわれた庵である法華堂を京都に移し、当時の光厳天皇が勅命を出す形で、本圀寺は鎌倉から京都に移ってきた・・・そんな感じの理解で良いでしょうか。


↑ 話は逸れますが、昨年訪問した松葉ケ谷の妙法寺には、後醍醐天皇の息子さんの護良親王のお墓がありました。
ともに倒幕に努めたのに、のちにソリが合わず尊氏政権に殺されてしまった護良親王のお墓が松葉ケ谷にあるのも、何か因縁めいているなと、つい思い出してしまいました。


お寺は最初、日朗上人の孫弟子にあたる日静上人が六条堀川に土地を賜り、建てられたことから、本圀寺の流れを汲む宗派を六条門流というそうです。
対して妙顕寺の流れを汲む宗派は四条門流といい、それぞれが京都での宗門の中心的役割を果たしてきたようです。
旧末寺の一覧が庫裏に掲示されていました。
こ、こんなにたくさん・・・!!
江戸時代には黄門様・徳川光圀公の外護などもあり、相当隆盛していたんでしょうね。

そうそう、本圀寺の「圀」の字は、光圀公から戴いているそうですよ!(もともとは本國寺だったとか。)


仁王門です。
阿行、吽行が睨みを利かせてます。


扁額には「正嫡付法」の文字。
今まで聞いたことのなかった言葉ですが、直系とか、正統とか、そんな意味でしょうか。


お祖師様が日朗上人に宛てた「正嫡付法の譲状」の内容が掲示されていました。
「立像釈迦仏一体」「立正安国論一巻」「御免状」を、布教の為に大国阿闍梨(日朗上人)に与える、という内容です。
いずれも信徒にしてみれば一度は拝見してみたい貴重な宗宝です。


本堂です。
メリハリのきいた色彩の、存在感あるお堂です。


瓦の一枚一枚に・・・ん?何の紋だろう?
楓紋なのかな?


歴代お上人の御廟を参拝。
開山は松葉ケ谷時代まで遡るので日蓮聖人、譲状とともに霊宝を授けられた日朗上人が二祖、日朗上人のお弟子さんの日印上人が三祖です。

日印上人は高齢の日朗上人のピンチヒッターで鎌倉殿中問答に臨み、他宗を論破したことで有名です。
この問答での完全勝利を境に、法華経を鎌倉で布教することが公認されたといわれています。


経蔵です。
中を拝見できませんでしたが、池上本門寺にあったような八角形の回転式の輪蔵に、高麗版の一切経が収められているそうです。


庫裏にご挨拶すると、ご住職が各堂宇を案内して下さいました。


そして・・・!
拝ませて頂きましたよ!立像釈迦仏!!


海上山佛光寺のところでも紹介させて頂きましたが、このブログの資料として活用させて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも描かれています。

お祖師様は伊豆法難の際に授けられたこの立像釈迦仏を、生涯肌身離さず持ち続けたそうです。
小松原で殺されかけた時も、雪深い佐渡で寒さに凍える時も、幕府に諫暁する時も、お祖師様を守り続けた立像なんだな~、と思うと、胸が熱くなりました。


本圀寺は火事や天台信徒による焼き討ちなど多くの苦難を経て、今から47年前に現在の山科の地に移転したそうです。
古くから護ってきた宗宝に比べ、堂宇や石塔などが新しく、アンバランスさは否めませんが、僕のような信徒が参拝しやすいように努めているのがわかりました。
貫首様はじめご住職方や檀家さんが奮闘されているのでしょうね。


京都、というと「お寺」を連想しますし、京都のお寺は多くの檀那に外護されて安泰なんじゃないか?という先入観を持っていました。

今回、京都に着いて最初に訪問した日蓮宗寺院が大本山の本圀寺でしたが、見事にその先入観が打ち砕かれました。

観光気分、て感じじゃなさそうだな。さて、次はどちらのお寺を参拝しようか。