山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

潮満てば水沫に浮かぶ細砂にも‥‥

2006-09-22 12:22:55 | 文化・芸術
0511270481

Information-Shihohkan Dace-Café-

-世間虚仮- ヒトというもののくだらなさ

 この国の宰相ともなる御仁が、その政策提言に「美しい国へ」などと陳腐この上ない言辞を弄して国民に媚びようとオプティミストぶりを発揮すれば、世間は6割を越えてこれを支持するというご時世である。
国の舵取りを担う政治家たるもの決してペシミズムに陥ってはなるまいが、しっかりと厳しく現実を直視するリアリストでなくてはなるまいに、「美しい-国」などと、百人が百様の、てんでばらばらのイメージしか描けぬ空疎な美辞麗句をふりまくなど、愚民政策の最たるものだろう。
この御仁の政策課題は、憲法改定と教育制度の改革だそうだが、かような二大テーマを掲げるからには、きわめて現実主義的な視点を抜きにしてはあり得ぬと思われるのだが、どうやらこの御仁、国の形や使命感も、民の公共心や倫理観も、その心証のほどはいやらしいほどに情緒的に反応してしまっているアブナイもののようだ。



 身近な者や事で、思わぬくだらなさに巻き込まれると、ほとほと疲れ切ってしまうものである。ここ二日、いつものようにものが書けなかったのはその所為だが、事が身近であれば、避けるわけにも無視するわけにもいかず、その嵐のなかにただ居つづけ、その去るのを待つしかない。
それにしても、ヒトはどうしてこうも余計なモノばかり身につけてしまったものか、と痛感する。こんなことなら、知も情も意も持たぬほうがよほどノーテンキでいいというものだが、一旦持ってしまったものを手放せないのもヒトたるものの宿業、要はその働き、用いられようなのだが、これがまたつまらぬ働きをしてしまいがちなものだから、始末が悪いこと夥しい。


 まだ嵐は止みそうもない、
出口なし、焦れる、気が鬱ぐ、心身困憊‥‥。
こんな時は、金子光晴なんぞ読んで、身を屈ませていようか。


 その息の臭えこと。
 くちからむんと蒸れる、


 そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬらしてること。
 虚無(ニヒル)をおぼえるほどいやらしい、
 おヽ、憂愁よ。


 そのからだの土嚢のやうな
 づづぐろいおもさ。かったるさ。


 いん気な弾力。
 かなしいゴム。


 そのこゝろのおもひあがってること。
 凡庸なこと。


 菊面(あばた)。
 おほきな陰嚢(ふぐり)。


  -略-

 そいつら、俗衆といふやつら。

  -略-

 嚔(くさめ)をするやつ。髯のあひだから歯くそをとばすやつ。かみころすあくび、きどった身振り、しきたりをやぶったものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂人(きちがひ)だとさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。そいつらは互ひに夫婦(めおと)だ。権妻(ごんさい)だ。やつらの根性まで相続(うけつ)ぐ倅どもだ。うすぎたねえ血のひきだ。あるひは朋党だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむすびあひの、からだとからだの障壁が、海流をせきとめるやうにみえた。

 おしながされた海に、霙のやうな陽がふり濺(そそ)いだ。
 やつらのみあげるそらの無限にそうていつも、金網があった。


  -略-

 だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝礼してゐる奴らの群衆のなかで、
 侮蔑しきったそぶりで、
 たヾひとり、
 反対をむいてすましてるやつ。
 おいら。
 おっとせいのきらひなおっとせい。
 だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
 たヾ
 「むこうむきになってる
 おっとせい」
            ――金子光晴詩集より「おっとせい」抜粋――


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋-47>
 水の上に数書く如きわが命妹に逢はむと祈誓(ウケ)ひつるかも
                           柿本人麿


万葉集、巻十一、物に寄せて思ひを陳ぶ。
邦雄曰く、儚さの象徴「水の上に数書く」は涅槃経出展の言葉。寄物陳思の物は山・水・雲・月等と移っていく。「荒磯越し外ゆく波の外ごころわれは思はじ恋ひて死ぬとも」、「淡海の海沖つ白波知らねども妹がりといはば七日越えなむ」等、直情の激しい調べが並ぶ。「祈誓ひ」は神との誓約、由々しい歴史を持つ言葉の一つで、まことに重みのある告白だ、と。


 潮満てば水沫(ミナワ)に浮かぶ細砂(マナゴ)にもわれは生けるか恋は死なずて                         作者未詳

万葉集、巻十一、物に寄せて思ひを陳ぶ。
邦雄曰く、潮に浮くあの砂のようにも、私は存えているのか、恋死にもせずに。最初に響かすべき痛切な感慨を、最後に口籠もりつつ吐き出す。半音ずつ低くなっていく旋律のように、一首は重く、沈鬱に閉じられる。「にも」の特殊によって、単なる寄物陳思に終らず、象徴詩として自立し、現代にそのまま通ずる。万葉名作の随一と言ってよかろう、と。


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