―山頭火の一句― 行乞記再び -85
3月26日、晴、いよいよ正真正銘の春だ、宿は同前。
いやいやながら午前中行乞-そのくせ行乞相はよろしいのだが-、そし留置郵便をうけとる、緑平老からのたよりはしんじつ春のおとづれだつた、うれしくてかなしうなつた。
一風呂浴びて、一杯ひつかけて、そして一服やるのは何ともいへない、まさに現世極楽だ、極楽は東西南北、湯坪にあり、酒樽にあり、煙管にありだ!
空に飛行機、海に船、街は旗と人とでいっぱいだ。
午後は風が出てまた孤独の旅人をさびしがらせた。
季節は歩くによろしく乞ふにものうい頃となつた。
行乞流転に始終なく前後なし、ちぢめれば一歩となり、のばせば八万四千歩となる、万里一条鉄。
方々へハガキをとばせる、とんでゆけ、そしてとんでこい、そのカヘシが、なつかしい友の言葉が、温情かよ。
-略- 夕食後、佐世保会館を訊ねて行く、-略-、会館は堂々たる建物だつた、ホールも気持がよかつた、支那事変傷痍軍人後援会主催、全国同盟新聞社、森永製菓株式会社後援、映画と講演の夕といふのである、ざつくばらんにいへば、後援と商売とを一挙両得しようといふ愛国運動である、I大佐の講演では少しばかり教へられた、軍事映画では大に考へさせられた、「日本人が一番日本人を知らない」といふ言葉は穿つていると思つた。
※この日句作なし、表題句は3月24日付記載
佐世保の街は、明治になってからの海軍の軍港として建設が始まった当時は、人口1000人余りの寒村にすぎなかった。明治22-1889-年の鎮守府設置以後、急速に海軍施設と街の整備が進められ、同35-1902-年には村から一足飛びに市制を施行したほどに、九州でも五指に入る大都市に発展し、大正9-1920-年には九州初の百貨店となる「デパート田中丸呉服店-現在の佐世保玉屋-」が栄町に鉄筋4階建で開業するほどに繁栄していった。
この年-昭和7年-の5月25日、日本人初の国際的オペラ歌手として活躍していた三浦環の「蝶々夫人」公演が佐世保会館で昼夜2回行われており、この折の木戸銭は1円50銭という高額なものだったという。
3年後の昭和10-1926-年3月16日、この佐世保会館において火災事件が起こつている。この日映画鑑賞会が開かれていたのだが、フイルム引火による火災発生で、観客だった小学生40名余りが死傷したというもの。
Photo/夜の佐世保川と灯籠流し
Photo/佐世保川と佐世保公園
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