山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

夕暮の秋のこころを心にて‥‥

2006-10-25 16:29:20 | 文化・芸術
433475104001georges_bataille_

-表象の森- 新訳のG.バタイユ 

光文社が今月より文庫版の古典新訳シリーズの出版をはじめた。
そのなかからさしあたりG.バタイユの「マダム・エドワルダ/目玉の話」を読んでみた。
成程、「いま、息をしている言葉で、もう一度古典を」とのキャッチフレーズを裏切らず、咀嚼された平易な翻訳で読みやすいにはちがいない。


「きみがあらゆるものを恐れているのなら、この本を読みたまえ。だが、その前に断わっておきたいことがある。きみが笑うのは、なにかを恐れている証拠だ。一冊の本など、無力なものに見えるだろう。たしかにそうかもしれない。だが、よくあることだが、きみが本の読み方を知らないとしたら? きみはほんとうに恐れる必要があるのか‥‥? きみはひとりぼっちか? 寒気がしているか? きみは知っているか、人間がどこまで「きみ自身」であるか? どこまで愚かであるか? そしてどこまで裸であるか?」 -マダム・エドワルダの冒頭序文より-

バタイユといえば出口裕弘の訳で「内的体験-無神学大全」を読んだのはもう遠い記憶の彼方。近年ではちくま学芸文庫の「エロスの涙」、訳は森本和夫だったが、「私が書いたもののなかで最も良い本であると同時に最も親しみやすい本」とバタイユ自身が語ったという彼の最後の著書。数多くの図版とともに「宗教的恍惚と死とエロチシズム」を人類の通史のなかで彼独特の論理で概括するといった趣だったが、ともかくエロスとグロティシズムにあふれた図版の豊富さには圧倒されるばかりであった。この書が本国のフランスで発禁処分にされたのは、終章の「中国の処刑」項で、20世紀の初頭、実際にあった「百刻みの刑」の模様を伝える数枚の見るもおぞましい写真を掲載し、論を展開している所為だろう。まことエロスとは死とともにきたりなば、サディズムと通底し、グロテスクの極みをもその深淵に宿すものなのだ。

その彼の小説といえば、これまで私自身接するのは願い下げにしてきたのだが、1970年代前後に生田耕作の翻訳で出された諸作品がかなり流布してきたとみえ、生田訳が定番のごときものとなってきたようである。
このたびの新訳出版の翻訳者・中条省平はあとがきのなかで、「もともと西欧語にとって、哲学的な語彙は日常的な言葉づかいから生まれたものである。それを西欧から輸入し、漢語で翻訳するという二重の外国語を経由して消化した日本語の哲学的語彙とは根本的に違っているのだ。」といい、「エロティシズムと哲学、セックスと形而上学とが荒々しく、直接に接合されている」この特異なバタイユ小説を、生田訳の「漢語を多用する哲学的な語彙と文語調の勢いのよさ」につきまとう難解臭から解き放ち、「日常の言葉と哲学的な表現を無理なく溶けあわせる」べく、訳出の狙いを語っている。
次に引く短編「マダム・エドワルド」終章近くの件りと、先に引いた冒頭序文を併せ読んでみれば、新訳者いうところの事情や狙いがある程度立ち現れてこようと思う。


「エドワルドの悦楽――湧きあがる泉は――彼女の胸がはり裂けるほどに――あふれながら、異様に長く続いていた。その淫蕩の波がたえず彼女の存在を輝きで包み、彼女の裸身をさらに裸にし、猥褻さをさらに恥知らずにものにした。女は、恍惚におぼれる肉体と顔を、形容しがたい鳩のような鳴き声にゆだね、おだやかさのなかで疲れた微笑み穂うかべて、乾ききった不毛の底にいる私を見つめた。私は女の喜びの奔流が解き放たれるのを感じた。だが、私の不安が、私の渇望した快楽をさまたげていた。エドワルドの苦しげな快楽は、私にぐったりと消耗を誘う奇跡の感覚をあたえた。私の悲嘆や発熱などなんの価値もないものだが、それらだけが、私が冷たい沈黙機の底で「いとしい女」と呼ぶ者の恍惚に応えうる、唯一の栄光だった。」

いうまでもなく本書所収のもう一篇「目玉の話」は、生田訳では「眼球譚」と題され、バタイユの処女作にしてもっとも人口に膾炙した稀代のグロテスク小説、その新訳版である。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-79>
 夕暮の秋のこころを心にて草葉も袖も分かぬ露かな  飛鳥井雅親

亞槐集、秋、文安五(1448)年九月、内裏月次五十首御続歌に、秋夕。
邦雄曰く、上句に、奇手に近い工夫を凝らし、下句を比較的平明体に仕立てた珍しい文体である。秋の夕暮の侘しさをそのままわが心としてと、深い嘆息をこめて歌い出し、沈思のまま宵闇に紛れる姿、漢詩和訓調をそのまま生かしたかの響きが、この簡潔さを生んだのか。飛鳥井雅経のはるかな裔、二世紀の後にもなお「夕暮の秋の心」に系譜を伝えている、と。


 いかにまた秋は夕べとながめきて花に霜置く野べのあけぼの  藤原家隆

六百番歌合、秋、秋霜。
邦雄曰く、今は荒ぶ花野の眺め、初句はほとんど調子を強めるための囃子に似るが、装飾的な下句に見事に照応している。歌合では左が兼宗の「初霜や秋をこめても置きつらむ今朝色変る野路の篠原」で家隆の勝。この題の傑作の一つに、良経の「霜結ぶ秋の末葉の小篠原風には露のこぼれしものを」あり、第四句を「露は風に」ならばなどと論難が集中、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

うす霧の籬の花の朝じめり‥‥

2006-10-24 18:50:45 | 文化・芸術
Nakahara0509181431

-世間虚仮- 今朝の見出し

◇福島県、佐藤前知事を逮捕-9億7000万円収賄容疑
木戸ダム発注工事の談合事件-福島疑惑-で、知事実弟の企業所有地を時価を大幅に上回る高嶺で建設業者に9億7000万円で買い取らせたその代金を賄賂として認定したもの。


◇京都府長岡京市の3歳児餓死の虐待事件-通報5件にも児相動かず。
巨樹地域の自治会はこの虐待を2月から見守りつづけ、民生委員らと連携し、児童相談所に連絡を3回5件取っていたにもかかわらず。


◇郵政造反組復党へ-安倍首相容認、現職12人を優先
参院選対策に早期一括復党を主張する青木幹雄参院議員会長の意見を受け復党容認へ。
なお落選組議員も12名いるが、青木側はこれら元議員らも一括復党を求めている。


◇ソフトバンク、自社間通話タダ-独り負けの危機意識、価格競争突入か
同社契約同士なら通話料・メール代が一部の時間帯を除いてすべて無料となる新料金プランを26日から導入。


◇教育基本法改正案、首相「成立最優先で」-与党、補選勝利で攻勢
愛国心を掲げ、良識ある公民教育を養うとする改正案の早期成立へ本格化。


◇タリバン政権崩壊から5年、アフガニスタンは今-麻薬、GDPの5割-
国民2500万のうち推計で数百万人が餓死寸前とみられるこの国で、ケシ栽培が激増、麻薬は国内総生産(GDP)の5割を超えるという。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-78>
 誰が袖に秋待つほどは包みけむ今朝はこぼるる露の白玉  後嵯峨院

新後撰集、秋上、題知らず。
邦雄曰く、単に擬人化とは言えない豊かな流れるような自然への愛が、様式化された技法の背後に感じられる。第四句の「今朝は」には、作者の瞠った瞳が、視線が感じられる。新後撰集入集25首、なかにも秋上は最も多く4首。「山深きすまひからにや身にしむと都の秋の風をとはばや」など「露の白玉」とはまた異なった歌風、これも作者の一面であろう、と。


 うす霧の籬(マガキ)の花の朝じめり秋は夕べとたれか言ひけむ  藤原清輔

新古今集、秋上、崇徳院に、百首奉りける時。
邦雄曰く、後鳥羽院の「夕べは秋」は春夕礼讃で、これは秋夕に対しての秋朝讃美。その美の象徴は、朝霧に濡れる垣根の秋草の花、枕草子の「秋はゆふぐれ、夕日のはなやかにさして」を心に置きながらの「たれか言ひけむ」であろう。優雅に異を称えて、新境地を発見するのも、中世の美学の特徴の一つであろうが、この歌など、その典型と言うべきか、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

花の色は隠れぬほどにほのかなる‥‥

2006-10-23 16:29:07 | 文化・芸術
Osakatokinomonooki

-表象の森- セピア色した昭和30年代-「時の物置」

劇団大阪公演、永井愛・作「時の物置」を、土曜日(10/21)のマチネーで観た。
永井愛はこの10年、紀伊国屋演劇賞や岸田戯曲賞、読売文学賞など、各戯曲賞を総なめにするほどに評価も高い、今もっとも脂ののった劇作家だが、今浦島の如き私には寡聞にして初の見参である。
このたびの「時の物置」は昭和生活史三部作の一つとされ、舞台は高度成長期の真っ只中、1961(S36)年の東京のとある下町の「新庄家」なる、当時としてはごくありふれた三世代家族に巻き起こる悲喜こもごもの日常が描かれる。
団塊の世代の、おそらくもう少し後の世代であろう永井愛の、すぐれて批評的なウェルメイド・プレイと評される作劇の核心は、その時代を映す「モノ」との関わりにきわだってあるようだ。この「時の物置」では物置の中のテレビがその「モノ」にあたるわけだが、この時代、家の中にやってきたテレビが、どこの家庭でもその家族のありかたを劇的なほどに変えたことだろう。
当日パンフから紹介されたstoryを拾うと
裕福ではないが誇り高い「新庄家」にはまだテレビがない。ところが、何度に下宿するツル子がテレビを貰ってしまい、近所の主婦仲間たちが入り浸り。新庄家の主婦でもある、祖母・延ぶは気が気ではない。娘の詩子夫婦がツル子にテレビを贈ったのは、何か下心あってのことなのだ。息子の光洋は中学教師の傍ら、たった二人きりになってしまった同人誌仲間と私小説を書いている。孫の秀星は大学の自治会委員長選に恋人に引っ張られるように打って出る。大学受験を控えたもう一人の孫の日美は新劇女優を夢みている。それぞれの想いや志、挫折や衝突を通じて起こるさまざまな出来事が、戦後、劇的に変化する昭和という時代の写し鏡ともなって、それぞれの忘れられない「時」が新庄家の茶の間に刻まれてゆく‥‥、となる。


普段は稽古場ともなるアトリエ、谷町劇場での公演は、いつもながらのことだが、舞台美術、照明、音響効果など、そのアンサンブルは万事抜かりなく文句はない。
スタッフの充実ぶりにひきかえ、これまたいつもながら、芯となるべき演技陣の弱体ぶりは久しく、今回の舞台も劇世界を濃密に映し出すには遠いと言わざるを得ない。とりわけ日常的な行動様式のなかにリアリティを失わない演技とはより困難なものであるとしても、この劇団にとって演技陣の育成と充実は急務だろう。
昭和36年といえば私自身は高2だったが、高校時代の3年間と果敢にただひた走りに走ったその後の3年ほどとは折り重なるようにして私にはある、私にとって特別なその時期はたえず戻りゆく原点のようなものでもあり、決してセピア色したレトロな風景などでなく、今なお色褪せもせず擾々として生々しい形のままにあるのだ。そんな身からすれば、この舞台が、作劇の責めに負うことか演技者たちの未熟に拠ることかの判断を措くとしても、なにやら懐かしくもセピア色した風景と化してくるのには、どうしても消化不良を起こしやるかたのない不満を覚えてしまうのである。
昨秋から今年にかけては映画「Always三丁目の夕日」が大ヒットしていたようだが、それより以前ここ十年ほどは、昭和30年代、40年代のレトロ・ブームが巷に溢れ、この頃の街並を再現したショップ空間などがあちこちに見られるようになっているが、このような風俗化ときわどいところで一線を画しつつ、その時代相を鏡に「いま」という時代をアクチュアルに捉え返すという作業は、なまなかなことではできそうもないことと私などには思われる。


アクチュアルな現代の演劇とはうって変わって、日曜の昨夕は、「天羽瑞祥リサイタル」と銘打たれた日舞の会を観るため文楽劇場へと出かけた。
琵琶の奥村旭翠さんが委嘱を受け、四国祖谷渓に残る平家落人伝説に材をとった新作舞踊「風そよぐ」の作曲・演奏をしているためだ。
件の新作は13.4分の小品だが、観たところその舞は四段に分かれ、その都度、人物を演じ分けていたようだが、いささか煩瑣に過ぎたように思う。元々運びがゆっくりとした舞のこと、短い時間での演じ分けはドラマの深化の妨げとなろう。そこで得意とする手技=エッセンスの網羅と堕してしまう。
私は日舞の世界に比べればもっとテンポの早い洋舞の世界に属するが、その日も偶々稽古場で、アスリートから芸術分野に至るまでいっさいの身体表現=身体所作における「普遍文法」について少しばかり語ったのだけれど、その観点から照らしてみても、この天羽流家元を名のる舞い手には、静の所作、動の所作のいずれにもなにかしら「硬さ」が感じられたことを付言しておきたい。それは新作発表への必要以上の意気込みからきたものか、本来の彼女自身の所作のありよう-芸風に因るものかは、初見にて判別のしようもないが。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-77>
 分け来てもいかがとはましその名をも忘るる草の露のやどりは  後土御門天皇

紅塵灰集、忘名難尋恋、親長卿張行恋五十首続歌、応仁二(1468)年七月。
邦雄曰く、唖然とするほど複雑な、凝りに凝った恋歌の題、しかも結果的にはほとんどナンセンスに近い趣向だが、初句から第四句半ばまでの、口籠もりつつ述懐するような調べはふと題を忘れさせる。結句には、人の気配今はすでになく、草茂るにまかせた住家の跡に、呆然と佇む公達の孤影が浮かんでくる。「露のやどり」とは、至妙な象徴の言葉であった、と。


 花の色は隠れぬほどにほのかなる霧の夕べの野べの遠方(ヲチカタ)  藤原為子

玉葉集、秋下。
邦雄曰く、秋草の、白・黄・紫の淡々しい色にうっすらと霧がかかり、しかも、夕月の下の衣の襲色目のように、ゆかしく匂い立つ。「隠れぬほどにほのかなる」の第二・三句の微妙な斡旋は、作者の歌才を示す。しかもそれが、万葉集の歌の一句「「かくれぬほどに」を題に取った、殊更な趣向との詞書を見れば、一入に面白い。花野の扇絵を思わせる一首、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

秋を世にわれのみしをる心とや‥‥

2006-10-21 12:30:51 | 文化・芸術
Dsc_00061

-表象の森- フロイト=ラカン:「事後性」⇔「心的外傷」、「象徴界」⇔「偶然はない」、「構造主義」⇔「進化論」
     ――Memo:新宮一成・立木康介編「フロイト=ラカン」講談社より


「事後性」⇔「心的外傷」
・「事後性」-「シニフィアンの遡及作用」
ラカンは、シニフィアンのシニフィエに対する優位を唱え、シニフィエをシニフィアンへの効果へと還元した。
外傷とは何よりも、事後的に、つまり遡及的に、意味(シニフィエ)を与えられるシニフィアンである。


「象徴界」⇔「偶然はない」
歴史は象徴界に属する。つまり、私たちの記憶はシニフィアンの法に支配されるということ。
フロイトは、「私は外的(現実的)な偶然は信じるが、内的(心理的)な偶然は信じない」といった。
内的・心理的事象はすべて無意識の動機による決定を受けているのであり、ラカンはこれを「象徴的決定」と呼ぶ。
「反覆される(符合しあう)偶然」-反覆、すなわちシニフィアンの回帰・符合は、象徴的決定の重要な発現形式の一つである。


「構造主義」⇔「進化論」
・「自己言及」という構造的規定を引き受け大文字の他者からの問いかけにさらされることを肯定することが、構造主義の要点である。
人間の精神が、発話する主体の座であるとされるなら、どんな確定的な言辞も、欲望からくるある程度の「あやしさ」を有するだろう。
発話するための欲望はどこからくるのか、再び他者からである。。
「人間の欲望は他者の欲望」であって、精神とは一つの欲望の器という「物」なのだ。
私は私の生を歴史のように振り返り、私の生を未来との関係で了解している。私が振り返ることによって発生するこの歴史は、「事後的に」成り立つ歴史である。事後性の仕組みが私の生を無意識から支えているのである。
人間を脱中心化しているのは、生物進化の過程ではなく、シニフィアンたちの作用なのである。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-76>
 いかにせむ真野の入江に潮みちて涙にしづむ篠の小薄  源顕仲

住吉社歌合、薄恋。
邦雄曰く、大治3(1128)年9月、時に神祇伯の顕仲主催による歌合。判者も顕仲。番は藤原顕輔で、「いつとなく忍ぶも苦し篠薄穂に出でて人に逢ふよしもがな」。判者は自作の「涙にしづむ」を「心もゆかねば」と謙遜しているが、誰の目にもこの第四句をこそ一首の命であろう。真野は普通は近江の歌枕だが、「潮みちて」とあるからには、摂津の真野と考えるか、と。


 秋を世にわれのみしをる心とや岩木にはらふ露の朝風  下冷泉政為

碧玉集、秋、初秋朝風
邦雄曰く、助詞の添え方ひとつ、形容詞の配置ひとつにも凡を嫌い、構成に腐心したあとが見られる。初句の「秋を世に」から結句の「露の朝風」まで、あたかも、六百番・千五百番歌合頃の定家・家隆の技法にさらに一捻りした感あり。たとえば「袖露」題の「おかぬ間もほさぬは秋の袖の上をなほいかにとか露かかるらむ」にしても同様、修辞の彩、眼を奪う、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。

暮れはつる尾花がもとの思ひ草‥‥

2006-10-20 14:13:51 | 文化・芸術
0511291971

-世間虚仮- 今朝の見出し

◇北朝鮮核実験、金総書記に中止要請-訪朝の唐国務委員(前外相)が中国胡錦涛国家主席の意向伝達

◇対北朝鮮制裁、日米と韓 溝埋まらず-日米韓外相会談、ライス米国務長官・麻生外相と韓国外交通商相

◇ディープから薬物、凱旋門3着取り消しも
10/1のパリ凱旋門賞レースで3着だったディープインパクトが欧州競馬で禁止されている薬物反応があったとされ、失格・賞金返還となるもよう。


◇ソニー、電池回収に510億円-3月期予想、営業利益800億円減
過熱・発火事故を起こしたリチウムイオン電池の回収が、最終的に約960万個に達する見込み。


-序でにわたくしごと-
昨年10月だったか、Tu-Kaのauへの吸収合併で、今年になってからうるさいほど再々にわたってauへの変更手続を迫る書面や電話攻撃にさらされてきたが、昨日ようやく重い腰をあげて近所のau店で手続完了。新機種に変わってネット接続もOKになったものの、お蔭で1万円ほどの出費だから、日進月歩の多機能などとんと関わりござらぬ身にはとんだ災難。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-75>
 暮れはつる尾花がもとの思ひ草はかなの野べの露のよすがや  俊成女

俊成卿女家集、北山三十首、恋。
邦雄曰く、藻を靡かせて花野を奔るような律調、初句の響の強さはもとより下句の「の」を重ねて、弾み転ぶ調べに、建保期、承久前の、40代半ばと思われる作者の、衰えぬ力量をまざまざと見る。しかもこの歌の真意は、「露のよすが」さながらに頼みにならぬ思い人への、婉曲な託言である。「思ひ草」は寄生植物の南蛮煙管とする説が有力とも聞く、と。


 ふけわたる月もうらがれの草の葉に影よりむすぶ秋の初霜  邦輔親王

邦輔親王集、秋霜。
邦雄曰く、16世紀中葉の、ほとんど爛熟期を過ぎたかと思う和歌の、典型的な一例であろう。第二句から第四句の複雑な、言葉の陰翳の重なり縺れる姿、「月もうらがれの」「影より結ぶ」は、一首に2箇所の秀句表現とも言おうか。殊に第二句一音の余剰のゆらめきは、幽玄のルネサンスかとさえ思う。やや時代のついた水墨の晩秋花園を見る感あり、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。