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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」
―世間虚仮― Soulful days -13-
「倶会一処」という言葉がある。
今日はRYOUKOの三七日だったが、七日のお参りにきてくれている麻生さんから先週の二七日の折に紹介されたものである。
真宗では、念仏の信仰に生きる人は、此の世の命が終るとただちに浄土に生まれるとされ、そこで墓碑にこの語を刻むというのである。
庶民にまだ名字を名告る習慣-というより制度というべきか-がなかった頃、いまどきのように「○○家代々の墓」などと刻めぬから、大概の墓はみなひとしく「倶会一処」と刻まれていたらしい。
その出典はといえば、阿弥陀経に「舎利弗、衆生聞者、応当発願、願生彼国、所以者何、得与如是、諸上善人、倶会一処、舎利弗、不可以少善根、福徳因縁、得生彼国」という件りがあり、
これを書き下せば 「舎利弗、衆生聞かん者、まさに発願して彼の国に生ぜんと願ふべし。所以は如何。斯くの如きの諸上善人とともに一処に会することを得ればなり。舎利弗、少善根福徳の因縁を以て彼の国に生ずることを得べからず」となる。
此の世を離れ、彼の世へと生まれ出たならば、浄土の仏や菩薩たちと倶-とも-に一つ処で出会うことができるということだが、それは世間などという狭い世界ではなく、広大無辺の世界にあって自在に飛翔する「いのち」として出会うのだ、というようなことらしい。
私ならばこう言いたい、
此の世も彼の世もない、また有も無も別なく、無辺際の一なる世界があるのみなのだ、と。
それが「いのち」というものの場なのだ、と。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「炭俵の巻」-21
宣旨かしこく釵を鋳る
八十年を三つ見る童母もちて 野水
八十年-やそとせ-、童-わらわ-
次男曰く、「八十年を三つ見る」とは80歳を三倍した長寿だの、80歳の三つ児だの、単なる表現のあやだの、古来いろいろ説があるが、夏目成美の「随斎諧話」に、「東国の語に七十三になれば八十年を三ツ見るとはいふ也」と注している。
「見る」を読むとか経験するの意に遣う語法は、古来珍しいことではない。「八十年を三つ見る」は、夏目成美の言を俟つまでもなく、八十路にかかる歳を三つだけ取ったとごく自然に読める。
句は「かしこく」を見込んで前句の人の孝心厚い人柄を付けているらしく、最前から虚に傾いているはこびを実へ取り戻す付である、と。
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