山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

八十年を三つ見る童母もちて

2008-10-04 23:39:11 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火


―世間虚仮― Soulful days -13- 

「倶会一処」という言葉がある。

今日はRYOUKOの三七日だったが、七日のお参りにきてくれている麻生さんから先週の二七日の折に紹介されたものである。

真宗では、念仏の信仰に生きる人は、此の世の命が終るとただちに浄土に生まれるとされ、そこで墓碑にこの語を刻むというのである。

庶民にまだ名字を名告る習慣-というより制度というべきか-がなかった頃、いまどきのように「○○家代々の墓」などと刻めぬから、大概の墓はみなひとしく「倶会一処」と刻まれていたらしい。

その出典はといえば、阿弥陀経に「舎利弗、衆生聞者、応当発願、願生彼国、所以者何、得与如是、諸上善人、倶会一処、舎利弗、不可以少善根、福徳因縁、得生彼国」という件りがあり、

これを書き下せば 「舎利弗、衆生聞かん者、まさに発願して彼の国に生ぜんと願ふべし。所以は如何。斯くの如きの諸上善人とともに一処に会することを得ればなり。舎利弗、少善根福徳の因縁を以て彼の国に生ずることを得べからず」となる。

此の世を離れ、彼の世へと生まれ出たならば、浄土の仏や菩薩たちと倶-とも-に一つ処で出会うことができるということだが、それは世間などという狭い世界ではなく、広大無辺の世界にあって自在に飛翔する「いのち」として出会うのだ、というようなことらしい。

私ならばこう言いたい、
此の世も彼の世もない、また有も無も別なく、無辺際の一なる世界があるのみなのだ、と。
それが「いのち」というものの場なのだ、と。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-21

   宣旨かしこく釵を鋳る  

  八十年を三つ見る童母もちて  野水

八十年-やそとせ-、童-わらわ-

次男曰く、「八十年を三つ見る」とは80歳を三倍した長寿だの、80歳の三つ児だの、単なる表現のあやだの、古来いろいろ説があるが、夏目成美の「随斎諧話」に、「東国の語に七十三になれば八十年を三ツ見るとはいふ也」と注している。

「見る」を読むとか経験するの意に遣う語法は、古来珍しいことではない。「八十年を三つ見る」は、夏目成美の言を俟つまでもなく、八十路にかかる歳を三つだけ取ったとごく自然に読める。

句は「かしこく」を見込んで前句の人の孝心厚い人柄を付けているらしく、最前から虚に傾いているはこびを実へ取り戻す付である、と。


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宣旨かしこく釵を鋳る

2008-10-03 21:54:38 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―世間虚仮― Soulful days -12- 

事故当夜からRYOUKOの死に至るまで、そして現在に至るも、我々家族と直々に顔を合わすことのなかった相手方運転手に怒りの書面を送り付けたのは、葬儀も終えて1週間が経った9月23日であった。

この1日、その書面に対する返書が当人及び父母の連署で届いた。日付は9月29日となっている。直ちに応ずるのは難しかったか、書面では父親が出張中だったため遅れた由。伯父甥の会社とみたのは事故当夜の身元引受人が伯父夫婦と聞かされた所為だが、なんと親子の会社であった。

書面から類推すればその父親殿、いかにも俗的な紳士然とした真面目な人であろう。だが生死を分かつ事故という関係者にとってはいわば非常事態のなかで、紳士然と鷹揚に良心ある真面目な姿勢を謳ってくれても、それは偽善に過ぎようもの。真心とか誠意とかは綺麗ごとじゃない、ディレンマに引き裂かれた感情の迸りだ。当事者ともあればなりふり構わぬ自身の曝け出しようが、人の心を撃つのだ、ということがお判りにならぬ。

以下は、私からの返書。

前略
事故当事者である息子K氏に代わり父A氏が書かれていると思われる書面、昨日受領、読ませていただきましたが、その内容は、これが被害者遺族宛の書面かと奇異に感じるばかりで、いかにも面妖なといった思いに包まれております。

私は先の書面において、当夜の事故発生状況についてなんら予断めいたことは申しておりませんが、貴方はこの短い書面でなぜ二度にわたっても、「MKタクシーの運転手が進路上で突然、停車した」と、K氏の主張と推測される一方的な予断的事実に触れておられるのでしょう。これがなにより先ず奇異に感じられてなりません。

事故の発生状況については、数日後、府警科学捜査班の手で詳細に現場検証をしたとも聞き及び、いずれ相応の客観的事実関係が明らかになってまいりましょうから、「甲-MKタクシーの車-が右折途中、突然停車した」のか、また「乙-K氏の車-が急ブレーキをかけたのか、あるいは、かけ得なかったのか」などの事実関係の判断は、あくまでこれを待つのみです。

さらに、私の書面で初めて住所を知り得、この書面を送っていただいたようでありますが、貴方がたはいまだ当該事故の被害者であった娘RYOUKOの現住所について、まったくご存じでなかったらしいという事実、この無関心さはいったいどうしたことでしょうか。

ここで敢えて申し上げておきますが、私と娘は同居いたしておりません。娘は母親と二人で暮らしておりました。さらに付けくわえれば、当夜の事故現場は、その自宅を出て直近の場所であります。

もうひとつ、事実関係の誤認錯綜について、「翌日、容態についてお電話でお聞きし、その際に『明日は3~4時には病院に行く』と」ありますが、「明日」ではなく、その日-9/10-のことです。
また、MKタクシーの運転手には怪我がなかったとのご認識のようですが、これも事実とは異なりますから確認をされたほうがよろしいかと思います。

この日、たしかに私は予定より遅れ、病院に着いたのは午後4時頃でしたが、ずっと先に母親は来ておりました。またMKタクシーの関係者も2名、午後3時頃からずっと居られたようでしたから、未だ面識のない母親はともかく、MKの関係者は前夜の病院でちらりと会っておられる筈、なぜ接触を図られなかったのか、午後4時頃に病院を出られたのなら、接触の機会はいくらもあった筈で、そうすれば母親とも会うことができたやもしれません。

要するに言いたいことは、娘RYOUKOが生死の境にあって集中治療室にある以上、なによりも先ずその家族と接触を図り、それが貴方がたにとってどんなに不条理で耐え難いことであるにせよ、直々に謝意を伝え、相手の心の傷みや苦しみを正面から受け止めようとなさるのが喫緊のことと思われますが、この日その機を逸したまま、以後貴方がたは、私にさえ連絡をしてこようとはなさらなかったのです。この事実は私の思慮を越えたもので、貴方がたの心意は図りがたく、どうしても誠意あるものと思われません。

書面では、貴方がたにおいて、娘RYOUKOの回復祈願あるいは供養をなさってこられた、と縷々書かれておりますが、それらの行為はいったい誰が為の祈願であり供養でありましょうか。なによりも貴方がた自身の為の、貴方がた自身の心の呵責を癒すための行為ではありませんか。そのかぎりにおいて、われわれ家族の、われわれ遺族の、痛みや哀しみとはけっして交じりあえぬ、貴方がたの自慰行為にひとしいものに過ぎないこと、と私に映るのは致し方ありますまい。

事故当夜以来、これらの経緯において、私の脳裏からどうしても消え去らぬ疑念は、和之氏並びにご両親にあっては、事故発生の当事者及びその家族でありながら、自身の呵責からいささかなりと逃れるため、その原因は一方的に相手方にあり、自らはどうしても避けえぬ、過失なき不可抗力であったと信じ、自身らもまた被害者であると思い込もうとするあまり、第三者たる双方の被害者である娘・僚子とその家族の存在を、こうして軽んじてこられたのではないか、ということです。

私が、あえて怒りを込めた激しい調子で先の書面を綴った、その真意の矛先が、いったい貴方がたのなにを衝こうとしていたのか、それがこのままお判りにならないようでは、遺族として仏へのお参りもとても許容できるようにはなりますまい。

この書面に対し、貴方がたが如何様に応じられるのかは慮外のかぎりですが、けっして交じりえぬものならば、それもまた止むを得ず、ひたすら平行線のまま歩むしかないものか、との思いをあらためて強くしております。
  2008.10.02 /林田鉄、記

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-20

  白燕濁らぬ水に羽を洗ひ  

   宣旨かしこく釵を鋳る  重五

釵-かんざし-を鋳-い-る
次男曰く、「本草綱目」の釈名を承け、瑞祥どおりの美姫をどこぞに索-もと-め得た、と作っている。あるいは皇女誕生の、日を経て世にも稀な麗質を現してきたことを喜んでいるとも読める。

句の作りは、玉燕釵の故事なども踏まえているのだろう。「神女、玉釵ヲ留メテ以テ漢ノ武帝ニ贈ル。帝、趙ニ賜フ。昭帝ノ時、匣ヲ発ケバ、白燕有リテ、飛ビテ天ニ昇ル。後宮ノ人、学ンデ釵ヲ作リ、因ツテ玉燕釵ト名ヅク」-洞冥記-。

露伴は、鋳型のまま水に入れ型を破り、水洗いして釵の仕上がりを検視する工人の手つきに目をつけ、「白燕濁らぬ水に羽を洗ひの句を、その景色に取做して、宣旨かしこく釵を鋳るとしたる、重五が此の一転甚だ驚くべく」と賞める。云われてみれば詩もあり、露伴の面目躍如とした一解ではある、と。


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白燕濁らぬ水に羽を洗ひ

2008-10-02 23:48:40 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―世間虚仮― Soulful days -11- 不慮の死と、山頭火

台風一過の所為か、昨日も今日も、どこまでも蒼穹の空、まさに秋天といった趣で、この澄みきった空の如、心も晴れわたれば言うことなしなのだが、身内の不慮の死という出来事に遭ってまだまもないとあれば、未だ憂悶の情に駆られ、由無しごとに囚はれては我に返る、といったありさまなのも致し方ないか。

そういえば、井上靖がかの成吉思汗の生涯を描いた「蒼き狼」の「蒼」とは、本来、黄色にちかい色、天の神の色なのだと、近頃読んだ書のなかにあったが、さすれば、古来中国における如、東西南北に青竜・白虎・朱雀・玄武を配し、それぞれ青・白・赤・黒で表し、その中心は黄色とされるということや、東南アジアにみられる南伝の仏教僧の衣が黄色っぽいものであるのも、同根の想かと思われ、天どこまでも高く澄みきった蒼穹の彼方に、人間の眼では到底正視しえぬ色、否、色にはあらず、光の束をこそ感受しなければなるまい、と思われるのだが‥。

身内の不慮の死といえば、山頭火こと種田正一においても、その生涯に大きく影を落としたであろうと思われる二つの死がある。

一つは巷間よく知られるところの、母フサの自宅裏庭の井戸への投身自殺であり、この事件は数え年11歳の時で、12月生まれの彼は今でいうならまだ幼き9歳の春であった。未だ幼い少年時に非業の死でもって生き別れとなった母への追慕の情は、山頭火の遺した日記や散文の随処でさまざま触れられており、人みな彼の果てなき放浪さすらいの生涯に母の面影を慕ってやまぬ傷心を見いだす。

もう一つの死は、弟二郎の自殺、縊死である。
正一には、1歳上に姉フク、3歳下に妹シズ、5歳下に弟二郎、6歳下に弟信一がいたのだが、末弟の信一は5歳になるやならずで病死している。その前年の春、どういう家内事情であったかしれぬが、二郎は他家へと養子にやられている。まだ学校にあがる前の6歳であった。その後、この二郎と正一のあいだに、なんらかの交渉があったか、皆目なかったのかは、山頭火自身の著作はもとより彼に関わる文献からも、ほとんどなにも伝わってこないようである。

二郎もまた、父竹治郎の放蕩を元凶とする大種田破綻によって翻弄されるがまま、悲劇の人生を送った薄幸の人であった。大種田最後の砦であった種田酒造の破産は、養子先を追われるという災厄となって二郎までも見舞ったのである。依るべきものとてなにもなかった孤独な彼は、幼くして別れたままの兄正一を頼って、一時は熊本の山頭火の許に身を寄せていたらしいが、それと知れるのも、以前にも紹介したが、郷里近くの愛宕山中で人知れず縊死した際、山頭火へと宛てた遺書に2首の短歌が付され、詠み人として「肥後国熊本市下通町1丁目117の佳人」と記されていたからである。この住所は妻サキノとともに雅楽多の店を営んでいた山頭火自身のものであったのだ。

悲惨このうえない二郎の自殺は、大正7年の6月半ば、この時、山頭火は数え年の37歳、二郎は32歳という若さであった。弟の自死について山頭火はとくになにも書き残してはいないが、彼を不安のどん底に突き落としたであろうことは想像するに難くない。この頃は、彼もまた死の誘惑に捕われつつ、酒に溺れては泥酔の数々、狂態の日々を重ねるばかりの暮しであったことが随処に覗えるのである。

そして1年後の大正8年秋、山頭火は突然、妻子を置き去りにしたまま、憑かれたように東京行を敢行、以後、あの関東大震災の騒擾のなかで憲兵隊に捕縛、投獄される事件を終尾とする、単身のまま大都会にただ埋没し彷徨しつづける東京漂流の4年間を過ごすのである。

おのが身内の不慮の死に遭って、山頭火自身は言わず語らずの、というより語りえぬというべきであろう弟二郎の縊死が、彼の心にどれほどの衝撃を与え、無意識の闇にさらなる影を落としたのか、などと想いをめぐらせていると、山頭火の破滅的ともいえる単身上京、東京漂流へと駆り立てたものが奈辺にあったのか、仄見えてくるような気がするのである。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-19

   僧ものいはず欵冬を呑  

  白燕濁らぬ水に羽を洗ひ  荷兮

次男曰く、前句に悟道の老僧の面影が現れるのは、荷兮のこの付だ。

見究め肝要。仕立の見所は、霊験ありげな薬餌に瑞祥を以て付けたか、ヤマブキを呑む虚に白燕の虚を合せたか、いずれに解しても道は同じところに出る。

白燕のことは中国の文献にも見えるが、「日本書紀」や「続日本紀」にもしばしば出てくる。ほかに白雉・白鳳・白烏・白雀・白巫鳥・白茅鴟-ふくろう-など、白字を冠した瑞鳥は珍しくない。

荷兮の句の「白燕」はとくに故事を踏えたというのではないかもしれぬ。
また、「濁らぬ水に羽を洗ひ」と作ったあたり、羽衣伝説が念頭にあるのかもしれぬ。李時珍の「本草綱目」の燕の釈名に云う、「人、白燕を見れば主に貴女を生む、故に燕は天女の名あり」。

「欵冬を呑」を、病僧の躰から天運を占う行法に見替えて、瑞祥を付けたと解すれば、これなど恰好の作意になる。因みに、次句-重五-の作りは瞭かに時珍釈名を踏まえているだろう。

いずれにさぐるにせよ、折立にふさわしい起情・転調の見られる句である、と。


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