山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

釣瓶に粟をあらふ日のくれ

2008-10-10 23:58:36 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―世間虚仮― Soulful Days-14- ヒロイズムと‥

事故の起きた9月9日の夜から、ひと月と1日が経った。
明日はもう四七日。

RYOUKOの母親、つまり嘗ての細君という人は、激しいほどにheroismの人、女性だからheroine主義というべきか、であった。そうさせたのは、私の知るかぎりにおいて、彼女の数奇な生い立ちゆえとしか考えられないのだが、いまはそのことに触れない。

ヒロイズムとは、裏返せば、おのが逆境を生きるバネとする、あるいは供犠の精神に富む、受苦-passion-の人であるが、往々にしてそのpassionは他者-概ね周囲の者-への刃となって奔出する。

突然の、RYOUKOの事故死、その逆縁に、家族のそれぞれが言い表しようもない痛みと哀しみを抱え込んでいるが、同じ家族だからといって、その痛みや哀しみは三者三様のものであって、そう容易くは共有できるものではない。そんなことは家族といえども別人格なのだから自明のことだ。

ましてや母親である彼女と父である私とは、もう20年も前に他人となるべく道を違えてしまったのだから、何を況んやであろう。その後も家族としての幻想のうちに生きてきた母と弟は、たがいの心の支え合いのなかで、いくらかの共有感をもちうるだろうが、それもたがいに相手をいたわり慮ってのことだ。

そう、慮ってやることができるだけだ、他者に対しては。

いまにして思えば、RYOUKOは、とても健気な娘だったのだ。
父と母の、まるで陰と陽の激しい相剋の影にありながら、あかるく素直に、心やさしく育っていった女の子は、どんなに躓いても、善なる心で人を愛し、だからこそ父も母も、だれよりも愛おしむことができ、ほんとうはいっぱい淋しかったのに、健気に、健気に、生きてきたのだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-26

  賤の家に賢なる女見てかへる  

   釣瓶に粟をあらふ日のくれ  荷兮

次男曰く、前句を日暮帰家と見込んだ、同一人物-「見てかへる」人-の付。

「釣瓶に粟をあらふ」とは、賤家で賢女を見かけたうれしさの移りである。家に戻ってきたが最前の興はいまだ消えず、何かをしないではいられない。その何かを、米ならぬ粟を、桶ならぬ釣瓶に入れて洗う興で現している。洗う人は男だろうと覚らせるところにも、思いがけぬ興の誘いが仕組まれている。

見て戻るまでの時間の経過があり、その間の心の弾みをどういう形で表現しようかと考えている人のさまも見え、洗う物を「粟」、容れ物を井戸から水を汲んだままの「釣瓶」と定めるまでには、けっこうあれこれ趣向のたのしみがある。これは侘茶の心の遣い様に通う。尾張衆らしい句作りでもある。

「釣瓶に粟」は即興に違いないが、この即興は単なる思付ではないらしい、と仕度の裏の工夫を読み取らせるところがこういう句の面白みだ。

前句に「賤の家」とあるから「粟」を付けた、というような読み方をすると全く味気ないものになってしまう。況や、貧しくて洗桶もない、などというのは話のほかだろう。故事の一つも探らせるように仕向ける句-前句-に付けて、そのてに乗らずはこびを日常平凡な場に取戻したところもよい。佳句である、と。


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賤の家に賢なる女見てかへる

2008-10-09 23:58:23 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―世間虚仮― 近しさという保障

昨日の昼、ちょうど12時頃だったろう、ベランダの外から不意に「お父さぁーん」と声がした。

KAORUKOの声に似ているが、学校に居るのだから違うんじゃないかとは思いつつベランダに出てみると、校舎の4階の窓から顔を出し、此方に向かって嬉しそうに手を振っている彼女の姿が眼に飛びこんできて、ちょっと面喰らってしまった。彼女の傍には同じ組の男児が居て、ホラ、お父さん出てきたよ、てな調子で得意気にしているのが、声は聞こえずとも此方に伝わってくる。

1年生の教室は1階だから、なぜ5年生や6年生の教室がある4階に上がってきているのか、まるで見当もつかないけれど、対向車線だけのさして広くもない道路を挟んだ5階と4階だから、ほどよく間近に向き合った態になる。彼女にすれば偶々4階に上がってきて、ふとそのことに気づいて、なんとなく愉しくなって喚んでみたのかな、と。

だが、通常の親子なら、父親がのほほんと家に居ることはまずない。隠居同然の身なればこそ、こんな芸当も成り立つのである。

考えてみれば、これほどの近しさにある環境というものはそうあるものではなく、ずいぶんと特殊なものである。昼日中ほとんど家に居る父親の存在を、この出来事のように文字どおり近しく感じながら、彼女は6年間の学校生活を送っていくわけである。このことには思いがけぬほどの大きな意味があると云えそうだ、親和力という保障性において。

KAORUKOの生来の気質はと云えば、人一倍臆病であり、人見知りも強く、まさに慎重居士である。だからであろうか、その反面、彼女は他者への関心は非常に高いものがあり、直接の接触はなくともよく観察しているらしく、上級生であろうと顔や名前を驚くほどに覚えていたりする、そんな変わった子である。

この「変わった子」というのは、気をつけてやらないと、とかく周りからは逸れ-ハグレ-者にされやすい。
明るく素直に、一定の節度を保ちつつも自分自身を露わにできなければ、人との交わりはひろがらないし、深まりもしないものである。

どんな時でも、どんな場面でも、彼女自身おおらかに開放的になるには、超えるべき閾値はかなり高いものがあり、人であれ場であれ、馴れ親しむため多くの時間を要する、そんな彼女であってみれば、集団の中で自己形成を遂げていかねばならない学校生活で、まさに眼と鼻の、これほどの近しさのなかにいつも頼りとなる身内-私-が居ること、その安心が、この閾値をぐんと下げさせていく力へと働かせることも可能な筈なのだ。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-25

   蘭のあぶらに〆木うつ音  

  賤の家に賢なる女見てかへる  重五

次男曰く、燃灯油のなかから染み出てくる蘭の芳香のように、賤家に思いがけぬ賢女が見つかった、と云っている。

蘭は四君子の一、油は卑近の用。そこに見込を立て、おのずから現れる美質二つを寄せて付けた。「見てかへる」と、粘らず、そして見届けの態に作ったところに、いささかの工夫がある。

情景は、音が聞こえてくるのは賤の家の中からと考えてよいが、〆木打つ人ただちに其の女と云っている訳ではない。

「見てかへる」という云回しは、都に帰って太守に報告しようとか、いずれあらためて訪ねてこようとか、その程度には物語の含を覗かせているだろうが、具体的に何かの俤と云うわけではない。貞女伝だの烈女伝だのの人物をこの付句から探ることは全く無用である。却って句をつまらなくする。

かといって、蘭の油は賢女に似合とか、油搾りは貧家のわざとか、気分によって読まれてもこれまた困るが、諸注は「蘭のあぶら」を女の髪油と見込んだせいもあって、それやこれや解釈を思い入れでこじつけている。「見てかへる」の働きを見失ったからだろう、と。


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蘭のあぶらに〆木うつ音

2008-10-08 21:42:47 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―四方のたより― ご免なさい、おケイさん

アーア、またも失敗である。
こんどこそ是非この機会にと思っていた、河東けいさんのひとり芝居「母」を、またも見逃してしまった。

ワーキングプアの社会問題化からにわかに注目を集めた戦前のプロレタリア作家小林多喜二の母を描いたもので、原作は三浦綾子、脚色と演出をふじたあさやが担当、もう十数年前から全国を廻って演じられてきたものだ。

たしか10月の公演だったが、はていつだったかと気になりだして、午後になって原稿作りも一段落したところで、ここ3ヶ月ばかりの間に、机の上に溜りに溜った書面や資料などの整理を始めたのだが、件のチラシを見た途端、顔色を失ってしまった。公演は10月4日、先週の土曜だったのだ。これからも近場で観る機会などそう多くはないだろうに、まったくドジな野郎だ、「おケイさん、ご免なさい」と、心のなかで手を合わせる始末である。嗚呼!

もう一つ、高山明美の舞踊公演「水の環流」も同じ日にあった。こちらは夜の6時開演だから、仮におケイさんの芝居を茨木で午後3時から観て、その帰りに立ち寄ることも可能だった訳である。とはいってもこちらのほうはそう食指が動いたものでもなかったから、彼女には悪いが忘れてしまっていても後悔するほどのことはない。

もう一人、気にかかる御仁のことも書いておこう。遠藤久仁子さん、昔、中島陸郎さんとともに月光会に拠った役者の浜崎満氏と二人ではじめた、京都の二人だけの劇場「セザンヌ」の主宰者だが、この劇団の活動も今年でもう26年になるという。映画監督高林陽一のデジタルVシネマ三部作にも主要キャストで出演している彼女だが、いつも案内を戴いては眼を通すばかりで、いまだ見参の機会を得ていない。もういい加減に一度は足を運んでみないといけないな、と思っている今日この頃である。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-24

  西南に桂のはなのつぼむとき  

   蘭のあぶらに〆木うつ音  芭蕉

次男曰く、「蘭のあぶら」とは蘭膏か。蘭-蘭草、フジバカマ-の花を以て香を練り、それを入れた灯油のことだ。

「楚辞」の「招魂」に「蘭膏ノ明濁、華容備ル」とある。それとも、蘭花を添加して搾った髪油のことか。諸注、多くは髪油と解している。

「楚辞」は蘭と桂を好んで対として用いる。蕉句は「楚辞」に想を寄せて付けたのではないかと思う。いずれにしても、蘭から搾油するというようなことは考えられない。一読錯覚を誘う作りだが、「蘭」の香を裁入れて「〆木うつ音」などと云えば、かくありたい夜長の興を一挙に現前させる。うまい。

露伴は、「一句は日の短きに夜をかけて油作りの槌の音をさすところを言ひたるまでにて、蘭桂の対を取りて静かなる夕暮に物の響を聞出したるが前句へのかかりなり」と云う。的確な詩味の読取である。

しかし句作りの実際に即して云えば、搾油の趣向は「つぼむ」に二義-苔む、窄む-を含ませ、奪って応じたからで、「〆木うつ音」が最も効く状況はそこにある。

似た例は、のちの「猿蓑」歌仙-夏の月の巻-に-、
  草村に蛙こはがる夕まぐれ   凡兆
   蕗の芽とりに行燈ゆりけす  芭蕉
  道心のおこりは花のつぼむ時  去来

この「芽」と遣い「ゆりけす」と遣ったところに見込を立て、「花のつぼむ-苔-時」と作ったのはうまい。

句にはもう一つ見どころがある。前句は兼月花の上乗の作とも読める。
芭蕉が、素材のもつれを承知のうえで、「はな」から「蘭を」を取出し、油ならぬ香を搾る体に作ったのは、虎穴に入って虎子を獲る、あるいは毒を以て毒を制するたぐいの手立で、前句が臨かせる。正花の心を絶つ工夫だろう。

手練れ俳諧師の本領を発揮した句と云うべく、ようやく興行も佳境に入る気配がある、と。


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西南に桂のはなのつぼむとき

2008-10-07 23:50:06 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―世間虚仮― 雨に流れた運動会

一昨日の日曜日の、生憎の雨で流れた運動会が、代休の昨日を挟んで、今日行われた。

平日開催にもかかわらず、客席に父母たちが多いのは意外だったし、7時半の開門前、場所取りにもかなりの人数が詰めかけていたのにも驚かされた。

保育園時代の狭い園庭で行われてきたものとは、スケールもなにもかも大違いで、小一のKAORUKOにとって初めての本格的な運動会に、連合い殿も気合いが入っていて、日曜の朝、中止となった途端、仕事先の上司にこの日の休暇を申し出ていた。
なにしろ居住マンションのベランダと学校の正門が道路を挟んで対面しているという至近距離なのだから、私も出向かないわけにはいかないので、重い腰を上げてはみる。

だが、広いグランドに大勢のチビッ子らが群がりあるいは並びしているその中から、我が子を見出すため立ち上がったりやら所を変えたりと、周りの者らが躍起になるほど、此方は興醒めしシラケてしまって動こうともしないものだから、競技や演技のさなかもKAORUKOの姿を見出せぬまま終ってしまう。

たった4人で駆けっこしたのさえ、いつ走ったのか見逃してしまう始末だから、親父失格もいいところである。

流行りの「羞恥心」や「ポニョ」の音にノって踊るのに、毎夜のように興じては、盛り上がりを見せてきたKAORUKO、自分の子ども時代を想い出しつつ、それと重ね合わせるように、わざわざ仕事も休んでほぼ一部始終を観戦なされた連合い殿、そして、娘の出番あたりを見計らっては、そのたびに出向きはしたものの、ついぞその姿を見出し得なかった親父の私と、濃密さのずいぶんとかけ離れた運動会だが、ともかくも終幕を迎えたのだった。

あとで聞いた話だが、この学校の運動会、3年続きの平日開催、雨に流れてばかりだ、と。また別の話では、晴天下の日曜開催などもう何年も前のことで、ずっと雨に祟られ放しだ、とも。
昔から運動会といえばこの時季が定番だけれど、どうしてこんなに雨の多い頃に習慣化したのやら‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-23

   なかだちそむる七夕のつま  

  西南に桂のはなのつぼむとき  羽笠

次男曰く、名残の月の定座-二ノ折表十一句目-には少々早すぎるが、前句が七夕を以て秋を起していれば、ここしか月のつとめ様はない。月の字は出さず、桂の花が「つぼむ」-莟む-と作っている。

前句の「そむる」に匂いで応じた工夫らしい。月花一所と見ても相応しい作りだが、花は、定法どおり名残の裏で別に出している。

七日頃の月は上弦宵の月で、方角も西よりやや南寄りに眺められる。地上にまだ物の影は生まず、新月のそれとわかる太り加減を、「つぼむ」とは云い得て妙だ。

句には「和漢朗詠集」七夕の部、菅原輔昭の詩句が踏まえられているかもしれぬ。「詞ハ微波ニ託シテ且遣ルト雖モ、心ハ片月ヲ期シテ媒ト為サント欲ス」。前句の読取りに相応しいだろう。樋口功の注釈はこれに触れている、と。


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なかだちそむる七夕のつま

2008-10-06 23:58:09 | 文化・芸術
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林田鉄のひとり語り「うしろすがたの山頭火」


―四方のたより― 心機一転

観客といっても30名弱ばかり、そんなささやかな会といえど会は会、
先週のDanceCafeも一つの上演機会とあれば、その経験は人それぞれに見逃せない効をもつ筈である。
ましてや今回はまだ13歳になったばかりのARISAが初めてのことだったから、その効を如何ように引き出すかは、一週間ぶりに集った稽古の要になると思ってはいた。

そこでworkshopはSoloの即興に拘ることにした。4人それぞれに3分から~5分程、3度廻って要した時間が1時間半余り。
無論、その度にちょっとしたcommentやadviceをするのだが、2度目、3度目と、ARISAの気力は見ちがえるばかりに充実し、変身していった。
なにしろ3歳から叩き込まれてきたBallet Technicはすでに一定のレベルに達している身体である。その佳麗な動きに、気を充填させていくこと、自らの表現としての意識を通していくこと、そのとば口に、この日の彼女は完全に立ったと見えた。われわれの即興の世界に、この四方館の方法論に、13歳の少女ARISAは明らかな意志をもって参入してきたのである。
いささか大仰に聞こえようが、私の40年にあまるキャリアは、Classic Balletの世界とはどこまでも無縁であったから、それを思えば、この出来事はとんでもないような記憶に残るべき事件といってもいいだろう。

AYAもまた徐々にだがたしかな成長を見せてきている。
AYAの場合はとにかく感性がいい。柔軟な骨格や体型に恵まれてはいないのだが、俗に健全な肉体に健全な精神が宿るとはいうものの、柔軟な身体と柔軟な心とが必ずしも比例している訳ではないらしく、彼女の心や感性はその身体に比してすこぶる柔軟性に富んでいる一面がある。また他方でAYA独特の拘りようもあるようで、そのBalanceが独自の世界を生み出しうる根拠となるような気がするのである。

この日、ARISAの変身ぶりにもっともvividに反応し、変化をみせたのがJUNKOであった。この現象にも大いに驚かされたものだが、省みれば頷ける一面もありそうだとも思えた。
JUNKOはいささか分裂気質というか、感性と論理のあいだに壁または断絶があるようにもみえ、自身の感覚-意識-論理といった階梯がなかなかうまく繋がらない。いわゆる統覚性というか、そういったものが脆弱と覗えるところがある。いまのところいかにも抽象的にしかいえないが、どうやらこの日のARISAの出現が、彼女の統覚感覚を意識下においてかなり強く刺戟したのではないか、と受けとめている。

その統覚力があり、構成力において一応の達成レベルにあるYUKIにおいて、残された今後の課題を自覚し設定することはなかなか難しいことではあるが、私の作業仮説では呼吸の深化において他にあるまいと思っている。
ただひとくちに呼吸の深化といっても、ことはそれほど単純ではない。彼女の表象を、文芸でいうところの「萎-しおり-」や「細身-ほそみ-」といった世界へと架橋していくには、なまなかのことではないだろうが、強勢ばかりが先立ってくるYUKIの動きと構成に、いかに弱音の世界を共存、対照させていけるかということが、当面の課題なのではないだろうか。

なにはともあれこの日の稽古-workshop-は画期を為すといってもいいものであった。
これを綴りつつ、懐かしくも想い出されたのは、まだ私が四方館と名付けて立つその前夜、十数人の若い人たちとともに稽古をしながら、明らかに即興を方法の核とすることを自覚した、遠い昔の一夜のことだった。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「炭俵の巻」-22

  八十年を三つ見る童母もちて  

   なかだちそむる七夕のつま  杜国

次男曰く、「なかだち」の濁点は原板本に付されたもので、珍しいことである。古註以下、これを敢えて仲絶もしくは仲隔と解しているものがあるが、媒の意味に受け取るしかあるまい。

句の写景的状況は、初秋天の川が立ち初めるころというだけのことだろうが、何が二星の仲立をするのか、それとも二星が結ばれるというそのことを云うつもりか、よくわからない。ひいては「七夕のつま」が男女いずれを指すのかもわからない。
いきおい、こういう句は解もいろいろに乱れ、一濁点さえも咎めることになるが、結局、前句の持つ含を改めて探ってみるしかなくなる。

たとえば「八十年を三つ見る」を73歳と読めば、老莱子の面影が思い合されるだろう。春秋時代の楚の賢人老莱子が、年70にして戯嬰児を装い老父母を楽しませた話は、「蒙求」の「老莱斑衣」に見え、二十四孝の一としてよく知られている。

野水が「八十年を三つ見る」と作ったのは、単なる語調ではなく、連想をそこに誘う工夫ではないかと考えたくなる。とすると、杜国の句も亦二十四孝の一人董永の故事を持ち出して、対付ふうに仕立てたように読めないか。

董永は後漢の人、老父の葬にも事欠くほど貧しかったが、天帝その孝心をあわれみ織女を遣してひと月彼の妻とした、という話は同じく「蒙求」の「董永自売」にのせる。

杜国の句が、二十四孝に思いを寄せ、老莱子と董永の故事をそこから取り出しているらしい、といってこの句が直ちに俤付かといえばそうも云えない。読む者の連想が自然にそこに誘われる、というまでである。

付筋は、一生独身で母に孝養を尽した男にせめて七夕妻を添わせたい、というところにあるのではないか。この哀歓の尽し様に目を留めれば、「三つ見る」と「なかだちそむる」との用辞の匂いにも気がつき、共に老いた母と子が銀河立ち初める空を見遣る情の深切も現れてくる、と。


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