山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

しよろしよろ水に藺のそよぐらん

2009-05-26 15:41:22 | 文化・芸術
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―四方のたより― 育ちゆくもの、老いゆくもの

インフル休校の、週半ばの2.3日は、喘息症状に悩まされたKAORUKOも、明けて学校が始まるや、此方の心配をよそに本人はいたって元気な様子、学校から戻るや、その表情は見違えるようで、心身ともに溌剌としていつもの明るさを取り戻していた。
この時期の子どもにとって、学校生活というものが精神性-心理面においてどれほど大きい座を占めていることか、つくづく思い至らされた学校再開である。

近頃思うこと-7月が来れば否応もなく満65歳になる私だが、この年にもなってくると、まだまだ緩やかなものとはいえ、やはり老いゆく身というものを感じないわけにはいかない。やがて身体の不自由さをかこつことにもなりゆくのだろうが、そんな日々には、白川静の世界などを友連れ、慰みにするのもいいかもしれないな。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>


「灰汁桶の巻」-34

  昼ねぶる青鷺の身のたふとさよ  

   しよろしよろ水に藺のそよぐらん  凡兆

次男曰く、只管打坐して一景を悟った、読んでもよし、はこびに即して云えば、景に執成して座を安くした、読んでもよい。

因みに「らん」は、先の「うそつきに自慢いはせて遊ぶらんの「らん」と同じ。先の「うそつきに自慢いはせて遊ぶらん」の「らん」と同じ、とぼけの云回しである。凡兆は、自分の句-人もわすれしアカソブの水-を虚に執成した野水の工夫に倣った、と告げているのだろう。明らかに呼応させた作りである。

「しよろしよろ水」か「死よろしよろ、水」判然しない句だが、凡兆の遺墨に「ひめゆりやちよろちよろ川の岸に咲く」というのがある。「しよろしよろ水」だろう。

藺-イ-草は古俳書に花を初乃至仲夏とし藺草を晩夏とする。藺とだけでは雑の詞である、と。


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昼ねぶる青鷺の身のたふとさよ

2009-05-25 17:20:15 | 文化・芸術
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―表象の森― 白川静の遊字論

白川静の「文字逍遥」-平凡社ライブラリ-の冒頭には「遊字論」が置かれ、「神の顕現」と小題された一文にはじまる。松岡正剛によれば、この「遊字論」の初出は、彼が嘗て編集していた雑誌「遊」での連載ということだ。

-神の顕現-
 遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。祝祭においてのみ許される荘厳の虚偽と、秩序をこえた狂気とは、神に近づき、神とともにあることの証しであり、またその限られた場における祭祀者の特権である。

 遊とは動くことである。常には動かざるものが動くときに、はじめて遊は意味的な行為となる。動かざるものは神である。神隠るというように、神は常には隠れたるものである。それは尋ねることによって、はじめて所在の知られるものであった。神を尋ね求めることを、「左右してこれを求む」という。「左」は左手に工の形をした呪具をもち、「右」は右手に祝詞を収める器の形である口-サイ-をもつ。左右とは神に対する行為であり、左右颯々-さつさつ-の舞とは、神のありどを求め、神を楽しませる舞楽である。左右の字をたてに重ねると、尋となる。神を尋ね求める行為として、舞楽が必要であったそれで神事が、舞楽の起源をなしている。祭式の諸形式は、この神を尋ね求める舞楽に発しているのである。

 以下、隠れたる神の「隠」の字、左偏の部首阝は山をたてざまにした形とされ、神が天上に昇り降りする神梯-しんてい-であったこと。神は、その神梯を陟降-ちょくこう-して、地上に降り立っては「み身を隠したまうて」人々の住む近くに住みもするが、その神梯の前に神を祭ることを「際」という、などとつづく。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-33

   雨のやどりの無常迅速  

  昼ねぶる青鷺の身のたふとさよ  芭蕉

次男曰く、其人を佇立瞑目する雨中の青鷺に執成して、手持無沙汰ということはあるまい、と応じている。雨宿りも、只管打坐だと思えば無為の嘆きから解放される、という目付に気転のある付だが、以て茶禅一味の男のプロフィルと座に覚らせるように作ったところが妙である。

 わが庵は鷺にやどかすあたりにて  野水
  髪はやすまをしのぶ身のほど   芭蕉

貞享元年「冬の日」の、初巻7.8句目の付合だ。鷺の宿の亭主-野水-のもてなしに、客-芭蕉-は、尼鷺に身を借りて還俗のよろこびを噛みしめている。記念すべき出会いだった。

あれから6年、野水も既に33歳、芭蕉は47歳である。無常迅速の感はそれぞれにあったろう。尾張の珍客を「青鷺」に擬え、称えたのには、訳がある。眼前其人の頼もしさもさることながら、往時を顧みて、芭蕉は感謝しているのだ。

句は雑躰。戻って去来の「鮓」の句は夏、雑の句を挟んでふたたび同季というはこびはありえない。青鷺に夏の季感を見出したのは「滑稽雑談」「和漢三才図会」-共に正徳年間-あたりからで、当時、蕃殖期のアオサギの肉をとくべつに賞味する流行が生れたからである。佇立するその姿に涼を覚えて詠んだのは、更に下って蕪村の「夕風や水青鷺の脛-ハギ-をうつ」、これが初見のようだ、と。


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雨のやどりの無常迅速

2009-05-23 23:43:12 | 文化・芸術
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―世間虚仮― 波乱の白熱二番

昨夜来の寝不足が祟っていたのだろう、気怠さに身体中が支配されて、ただ茫としたままに、なんということもなしに結び近くの数番を眺めていたら、波乱の結び二番、白鵬・朝青龍の両横綱を破った琴欧州と日馬富士の、気力満点の白熱相撲に思わず刮目、中継画面に惹き込まれてしまった。

相撲ファンなどである筈もなく、偶さか見る夜遅くのダイジェスト版ならともかく、まず滅多に見ることなどない相撲中継なのだが、千秋楽前のこの日、先場所から33連勝と全勝街道を走る白鴎と大関昇進以来あまりパッとしない大器琴欧州、1敗同士の朝青龍と大関昇進3場所にしてようやく本領発揮の日馬富士、どちらもがっぷり組んだ力相撲で、決まり手はそれぞれ上手投げと外掛けだが、ともに見事に決まった力相撲で、結びの二番続けてこんなに醍醐味あふれた大一番というのは、なかなかお目にかかれないのではないか。

この4者がともに外国人力士などというのはどうでもよいこと。だいたい相撲が国技なんていうのは、相撲協会が勝手に名告っているに過ぎないじゃないかと思っている私であれば、日本人力士の退潮振りも、横綱の品格がどうのといった騒ぎも、問題の本質からは遠いものじゃないかと思われ、空騒ぎばかりが目立つ昨今の相撲界だが、偶さかこういう一番を眼にすると、さすが相撲というのは格闘技としてよくで出来た、かなり秀逸なものだ、とつくづく感じ入る。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-32

  物うりの尻声高く名乗すて  

   雨のやどりの無常迅速  野水

次男曰く、前句の伸しである。場所は賀茂とはかぎらぬ。俄雨に遭って慌てて駆込むのは軒下がふさわしかろうが、茶屋の床几と考えてもよし、木の下でもかまわぬ。「尻声高く名乗すて」の気分から「無常迅速」を取出したように見える作りだが、雨やどりが即無常迅速に結びつくわけではない。

晴れるあてが有るでもなく無いでもないからこそ、いつの間にか無為の時を過してしまうのが、雨やどりである。あたら光陰を無にする。雨やどりを口惜しいと思うのは野水ばかりではない。

句は、「尻声高く名乗すて」て駆込んだだけに、いっそう、雨やどりの儚さが身に沁みる、と言っている。笑があるだろう。諸注は相宿りと決込んでいるが、そうでなくてもかまわぬ句だ、と。


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物うりの尻声高く名乗すて

2009-05-22 23:39:16 | 文化・芸術
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―表象の森―「群島-世界論」-05-

シマ、という、深い意味の消息を抱え込んだ日本語の音について考えはじめると、私の思考は底なしの淵に導かれるようにして、豊饒な意味連関の濁り水のなかを嬉々として泳ぎ巡る。シマ、と発声すれば、何よりもまず「島」が現れる。群島をめざす、私たちの意識の最深部にある、炸裂と沈潜の、生者と死者の繋がりの、それは豊かな源泉である。だが同時に、奄美・沖縄の島々では、シマは集落のことでもある。シマン人-チュ、シマ口-グチ-、シマ唄-ウタ-、といった用法はみな、本来は浦々に拓かれたそれぞれの村に住む人、そこで話されている土地ことば、そして村々が伝承するうた-民謡-の固有性を意味する表現であった。そしてそれは「ある囲われた地域」「区切られた場」を意味する音として、なわばりを意味する「シマ」という音へと転じてゆく。流刑地に流されることを「シマ流し」といったが、これも、かならずしも島である必要はなく、区切られ、孤絶した場所=シマ、という意味における用法であったろう。とすればシマは-隅-と語根を同じくする。半島や岬という地形もまた、そうした周囲を海で区切られた孤絶した場所の一つであり、シマ-志摩-やスマ-須磨-やスミ-隅-という音が多くの半島域や海岸域にいまで数多く残っていることがその証である。

私の想像力がさらに昂揚するのは、シマという音に「縞」をさぐりあてるときである。人間がなにをもって最初に縞模様を意識したのかは謎というべきだろうが、たとえば、素朴な織物の柄にはかならず微細な縞模様が縦糸と横糸の交差によって織り込まれる。くっきりと画された二種類の色や風合いの差を視覚によって認識することで、人間は無限の空間にむけて原初の「領域」を画すことを学んだ。そのはじめに画された認識の領土が、シマ=縞なのであろう。

折口信夫の雨にけぶる島の井川。異邦人としての違和に立ち尽くす島尾敏雄の暗川。そして干刈あがたの二世の夢が沐浴のまどろみで見せる不可能な帰郷‥。井筒を抜けた対蹠点にそのような群像の声を響かせながら、カリブ海の島々に寄せる浪は、くっきりとした異質性のなかで並びあう感情の群島へと、はるかに私たちを導いてゆく。
 -今福龍太「群島-世界論」/5.二世の井/より-

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>


「灰汁桶の巻」-31


   加茂のやしろは能き社なり  

  物うりの尻声高く名乗すて  去来

次男曰く、愈、名残の裏入である。

後の元禄6年、膳所の酒堂が業俳として立つべく大坂に移り住んだとき、その門出に贈った去来の句がある、「門売も声自由なり夏ざかな」。「物うりの」句は、いかにも去来好みの起情だろう。作りは雑躰だが、夏気分が横溢している。

下賀茂社の祭神は玉依姫命、上社別雷命の母神である。それを踏まえて、賀茂の物売は「尻声高く名乗すて」ると云えば、明けっぴろげのくすぐりも利いて、なかなかの俳言になる。これは京の暮しに通じた識者ならではの気転だ、と。


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加茂のやしろは能き社なり

2009-05-21 16:49:28 | 文化・芸術
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―世間虚仮― 騒ぎの陰で‥

一週間のインフル休校だけでも留守居役にはかなりの心身負担で災厄このうえないが、このたびはどうしたことか、小2になってもなお小児性アレルギーや小児喘息から脱皮-?-できないでいる我が娘KAORUKO、このところたしかに呼吸器に危険な徴候が見えていたので、かかりつけの医院にも通い、もちろん投薬もしていたのだが、とうとう昨日などは深夜におよんでから救急診療所に駆けつける仕儀となってしまった。

ところが診察の順を待つあいだに、出かける少し前に飲んでいた薬が効いてきたか、咳込みも小康状態を示すようになっていたから、吸入だけの軽い処置でよかろうと、わざわざ出かけたものの、泰山鳴動云々の如き、少々拍子抜けのご帰還となった。

これで快復に向かうかと思えばなんのことはない、今朝も起き出してからイヤな咳をしてござるし不調を訴えてやまぬ。昨日も行ったかかりつけ医にまたも推参すれば、こんどは吸入ばかりかとうとう点滴まで施される始末で、帰宅した午後からはようやく落ち着いてきているが、まだ時折は咳をしているといったところ。

一般に、アレルギー性小児喘息などはストレスもまた増悪要因となる、といわれる。もちろん気象の変化や大気汚染も関わろうし、さまざまの複合的要因で発症し、悪化もするのだろう。

このKAORUKOのように、それほど重いとも思えぬ子どもですら、外遊びを禁じられた一週間のインフル休校がもたらすであろうストレスは、大人の私などには計りがたいが、かなりのものなのかもしれぬ。

休校になってからの4日間、我が娘の体調変化を見てきて思うのは、彼女なんかよりずっと重症の同じ病をもつ子どもらとその親たちは、けっしてひとしなみにというのではなくcase-by-caseであろうが、いったいどんな辛い目に遭っていることか。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>


「灰汁桶の巻」-30

  堤より田の青やぎていさぎよき  

   加茂のやしろは能き社なり  芭蕉

次男曰く、堤とくらべて田の青やぎがふさわしく、かつ潔く見えるのは、とりわけ賀茂神社あたりの眺めだと応じている。賀茂神社は上下二つを合せて呼ぶが、上社の祭神賀茂別雷命は水を司る稲の神である。「加茂のやしろ」は上賀茂社と見てよい。

眺めだけではなく句振りもまた潔く、踏込んで付けている。一意、和家風の仕立で、季が前にあればむろんここは雑躰に作る。当時は葵祭-陰暦4月の中の酉-が応仁以来久しく中絶のままだったから-元禄8年再興-、芭蕉には、いっそう賀茂神社の佇まいが気になった、ということがあったかもしれぬ。

「御手洗詣での道を付たり。かもの社はいつ詣つてもよき社なりとは、西加茂上野辺の人の糾詣ですとて、物陰なきかも堤行かむよりもと左へ取つて、上加茂通り下るとて青田に目を養ひ下加茂に詣づればはや深林の涼風にみそぎする心地し、未だ河合の社-下賀茂社-へ至らざるに水無月の暑さを爰に忘るる様也」-婆心録。この曲斎の考は一解である、と。


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