山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

堤より田の青やぎていさぎよき

2009-05-20 22:55:31 | 文化・芸術
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―表象の森―「群島-世界論」-04-

群島は、生者と死者の隠された繋がりをひきだす特権的な場である。そして、群島の特異な時相の翳のなかでひきだされる繋がりの環は、歴史的な想像力が媒介するよりはるかに、地理的なイマジネーションが導く発見としてある。「海は歴史である」というカリブ海の黒人詩人デレク・ウォルコットの詩句が鋭く暗示するように、群島のヴィジョンへと導かれるためには、なによりもまず、私たちの思考を海という流体を媒介にして空間的に拓いてゆく想像力が不可欠となる。近代の知の慣性的な認識作用のなかで、強く時間化されてしまった私たちの歴史意識を、新たに珊瑚の海へと突き落とし、大洋と汀にはたらく水の攪拌と浸透の力によって空間化すること。意味の発生を、過去と現在を結ぶ通時的因果関係と合理的説明体系に求めるのではなく、空間的な可塑性をもった具体的な広がりのなかでのものごとの偶発的な出会いの詩学的な強度に求めること。このようにして私たちの目の前にあらわれる群島地図は、近代の時間性のなかで成形された歴史と記録への抑圧を、豊かな記憶と声がおりたたまれた場所への想像力へと解き放ってゆくだろう。

アナクロニスム-時間錯誤-の自覚的実践は、歴史を空間に向かって拓くときに得られるアナロキスム-空間錯誤-を同時に要請する。近代ナショナリズムの表象としての従来の属領的な「世界地図」は、このあらたな地図的感性によって解体され、失効することになるであろう。群島とはまた、そのような非属領的な地図を発生させる、一つの新しいイマジネーションの膂力に与えられた名前でもあることになる。
 -今福龍太「群島-世界論」/4.南の糸、あるいは歴史の飛翔力/より-


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>


「灰汁桶の巻」-29

   又も大事の鮓を取出す  

  堤より田の青やぎていさぎよき  凡兆

次男曰く、堤の青草よりも、青田の色のほうが目に沁みる季節になった、と云っている。青田は仲乃至晩夏の季、人情に同季で景を添え、併せて目を内から外へ向けた付である。

草萌ゆる-早春-・若草-初乃至仲春-という季語がある。若草の眺めはつい昨日のことだった、と振り返る人の興に気付かぬと、いよいよ夏が来た、というその心の躍動も見過ごしてまう。季語の移りに目をつけ、青堤は回想-虚-、青田は現前-実-と読ませる作意で、人情の虚実を以てした野水・去来のはこびに合せた景の工夫である。鮮やかな手際だ。凡兆という男、やはりなかなかの目利きである。

「いさぎよき」は句の走り、次句への持成と考えてよい、と。


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又も大事の鮓を取出す

2009-05-18 22:56:56 | 文化・芸術
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―世間虚仮― インフル休校

水際作戦も功を奏さず、メキシコ発の新型インフルエンザはとうとう国内での感染が蔓延しはじめたか、大阪府と兵庫県は学校封鎖に踏み切った。
大阪府は府下の中高全校を今週いっぱい休校の措置、大阪市では中高ばかりか小学校も幼稚園も。

降って湧いたような緊急措置で、帰ってきた子を迎える羽目になったこちらは、突然一週間の子守を押し付けられた格好で些か狼狽気味で、はてさて困った、毎日どうやって過ごしたものか思案投げ首である。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」-28

  うそつきに自慢いはせて遊ぶらん  

   又も大事の鮓を取出す  去来

次男曰く、句意ならびに前句とのつながりは説くまでもないが、虚には相応の実が要る、と読ませる合せ技に俳がある。

話を聞く側の伸ばしと見てもよし、ほらふきの向付と読んでもよい人情二句だが、とっておきの嘘を聞かせる-聞いてやる-ためにとっておきの実をふるまう、と笑わせる「又も大事の」のがうまい。「鮓」は熟-なれ-鮓で三夏の季、前句の「自慢」を移して秘蔵としたあしらいである。

芭蕉の「夕月夜岡の萱ねの御廟守る」は、天晴れな恋離れだが、凄々たる趣は蔽うべくもない。続くはこびも詞の縁を持回って、自ずと凝りを生じた。これは、もとをただせば、去来が仕掛けて野水が扶けた思い種の転合が過ぎたからだ。「うそつきに自慢いはせて遊ぶらん」「又も大事の鮓を取出す」は、はこびの凝りをほぐし、流れを変えるための自賠の苦心だ、というところがみそである。

まず野水がほら話にすりかえ気塞ぎを崩せば、去来がくつろぐ体の作りで実情を取り戻している。身から出た、この錆落しも俳になる。ここまで読むと、「うそつき」の取り出しは鉄気水の渋抜きの工夫だった、ということにも気がつく、と。


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うそつきに自慢いはせて遊ぶらん

2009-05-17 23:38:17 | 文化・芸術
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―世間虚仮―「ゆびとま」消滅か

今月の2日、360万余の会員登録からなるという同窓会サイト「ゆびとま」がまったく繋がらなくなって、以後なんの徴候もないいままにすでに半月が過ぎ、いまだ音無し。
無論、私が04年9月から営々と続けてきたブログの「Echoo」も同じ境遇にあり、この日以後断ち切られたままだ。

アクセスすると、「重要なお知らせ」と題した数行の挨拶文が掲載されただけの画面が、却って、今度ばかりは事の深刻さを推し量らせ、虚しさをつのらせる。

その短いお断りの冒頭は「甚大なトラブルが発生したことにより、しばらくサービスを停止させて頂きます。」というのだが、この「甚大なトラブル」とは、どうやら機械的・技術的レベルのトラブル・故障といったものではなく、おそらく経営の根幹に関わるトラブル・事件なのだろう。

創立者の手を離れた’05年から、少なくとも経営者は再度の変転を見ているし、その間、機械的トラブルはたびたびあったから、いずれネットの舞台から消え去りゆくのは必至、とも見えていた。

今後、ここに集まった360万余の個人情報が否応なく地下の闇ネットにあまねく行き渡っていく。いや実際のところは、’07年2月、別件の事件からこの経営がすでに暴力団に渡っていたことが明るみになったりしているのだから、とっくに闇組織に流れていると見るのが、むしろ常識というべきだ。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>


「灰汁桶の巻」-27

   人もわすれしあかそぶの水  

  うそつきに自慢いはせて遊ぶらん  野水

次男曰く、
むかし、をとこ、後涼殿のはさまを渡りければ、あるやむごとなき人の御局より、忘れ草を忍ぶ草とやいふとて、いださせ給へりければ、たまはりて、
 忘れ草生ふる野べとは見るらめどこは忍ぶなり後もたのまむ

「伊勢物語」の、よく知られた話-100段-である。「うそつき」の拠り所はこれだろう。芭蕉の「夕月夜」の句に打ち添うた凡兆の句振りを眺めて、まるで例の話を地でいくような踏替えだと野水ははやしている。尤も、この話は凡兆も知らなかった筈はないから、もともと「人もわすれしあかそぶの水」の下敷きだったと考えれば、野水句は、君の作意は見届けたと凡兆に告げている句になる。どちらでもよい。恋の上ならともかく、忘れ草を忍ぶ-偲ぶ-草と云いくるめる詭弁は、そうたやすく何にでも応用できる技ではない。

「自慢いはせて」には、まず、凡兆の嘘上手を認める感心があるだろうが、句はこびの上では、「御廟守る」人に、別の里人が水の在処や由緒をまことしやかに教えた、と解しておけばよい。

「らん」は、「なり」を婉曲下した云回しで、推量の助動詞ではない。とぼけに俳を持たせている、と。


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生死の中の雪ふりしきる

2009-05-16 12:36:45 | 文化・芸術
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山頭火の一句昭和6年の作か?

句集「鉢の子」では前書に「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり-修証義-」を置く。
時期は些か外れるが、義庵和尚の許で出家して耕畝と改めた山頭火が、大正14年の早春から味取観音堂の堂守となり、翌年4月いよいよ行乞放浪へと旅立つにいたる一年余の山林独住のなかで、なにを想いなにを念じたか‥‥。

紀野一義は、この句を引きつつ
さびしい観音堂の中で山頭火はなにを考えていたろうか。それは、生と死とを無限に繰り返す輪廻転生の世界のこと、悩みや苦しみに満ちた凡夫の人生のことである。‥生死の世界の中に雪が降りしきるのではない。雪もまた、「生死の中の雪」である。生死の迷いを清める雪ではなくて、いよいよ深く降り積もる迷いの雪である、と。

―表象の森― Nocturne花盛り

数日前、今年のローザンヌ国際バレエの模様をVideoで見た。
ファィナルに残った20名の内訳は、男子9名、女子11名。その女子11名が踊ったコンテは、なんと7名が、昨年高田茜が踊ったNocturneに集中するという人気振りで、Nocturne満開の舞台に、些か食傷気味の鑑賞となった。
同じ作品も、踊り手が変われば、それぞれ解釈も異なり、細部で各々その表現も微妙な違いを見せるが、その微妙な差がもたらす印象の落差は、意外なほどに大きいものだとということを、七態のNocturneを眺めわたしながら、今更に感じ入ったものである。

パーティー会場で1人になりたくて庭に出るが、心は慕う男性への想いに揺れ動くなど、さまざまに感情に支配される女性といった、繊細な心理表現が要求される作品だが、総じて、振付のマイムなどで感情移入の過ぎるのが目立ち、その細部への凝りが流れを損ない、優雅な気品で全体を満たすというところに到らない。昨年の高田茜のほうが完成度は高いと云わざるを得ないだろう。

時に、ディテールの凝りや過剰さが、ダイナミックな全体を生み出す、ということはあり得ないわけではないが、言うは易きで、ことはそんな容易いものではない。
以て瞑すべし。


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人もわすれしあかそぶの水

2009-05-14 23:51:06 | 文化・芸術
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―世間虚仮― 30代の自殺

世界でも有数の自殺が多い国として知られる日本だが、バブル崩壊以降、若年層における自殺者の増加ぶりは著しく、とりわけ30代では、08年度4850人と、91-92年頃に比べてほぼ倍増しており、自殺原因としての伸びはうつ病が前年比21%増と圧倒的、という些かショッキングな報告記事。

これも貧困化社会のあらわれか、出口のない長い就職氷河期が若年世代にさまざま影を落としている。


<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>


「灰汁桶の巻」-26

  夕月夜岡の萱ねの御廟守る  

   人もわすれしあかそぶの水  凡兆

次男曰く、萱と萱草-ヤブカンゾウ-は全く別のものだが、同字の連想から、忘れ草-萱草の別名-にまず思い付いたか。

萱草は「倭名類聚鈔-和名抄-」に「一名忘憂、漢語抄云、和須礼久佐」とあり、「万葉集」も表記「萱草」、諸訓はワスレグサである。この草を植え、または身につけると、憂を忘れるという中国古来の伝承に拠る。

歳時記では「忘れ草の花」を仲乃至晩夏に扱い-忘れ草とだけでは雑の詞-、したがって思ひ草・忍ぶ草とは季を別にするが、三つは床しさ一連の歌語である。

二句一章、「わすれし」とは、前句の作りに、偲び忍ぶ情を見込んで取出した寄合に相違ないが、「後拾遺集」の恋の部「我宿の軒のしのぶにことよせてやがても茂るわすれぐさかな」を下に敷いた恋抜きの工夫、とでも読めば猶合点がゆく。

「あかそぶ」-原表記は「あかそふ」-は赤渋の転訛のようだが、そういうなまりが当時行われていたのか、それとも凡兆の造語か、わからない。ここは、閼伽-アカ-を添ふを掛けて云い回しとした、鉄気-カナケ-水だろう。

句は雑躰である。戻って、「すさまじき女の智慧もはかなくて」が季・雑いずれかに治定するのは、凡兆の巡りに任された作分による-秋の句を以て替えれば、「すさまじき」は秋の季語と見なさなくてもよい-。先に「かへるやら山陰伝う四十から」を、春に許容したのと同じ伝だ。

「雑秋-春-」という分類は勅撰集にもある。春・秋の季続は各三句以上という約束にそれを取り込んで、見合いとしたこの巻の趣向は大胆にしてかつ新鮮、歌仙中段のはこびに彩を添える。凡兆の句は、其の場を見定め、里人の情を汲んで打ち添うたまでで、軽いあしらいぶりだが、季の効果を心得た抑制の作りである、と。


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