あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

女は戸を叩く

2018-04-10 12:25:47 | 物語(小説)
ついに、あたちは決めた。
あたちは、カトリック教会に入り、イエスさまに近づくクリスチャンとなるために、日々、精進することを!
早速、あたちは重い足腰を引き摺りながら、近所のプロテスタント教会の前に立ち、その戸を開けた。
「あの~、あ、あの~!す、すんませぇ~ん。だれか、だれか、いはりまへんかぁ~?」
とあたちは、蚊の鳴くような声で祭壇の奥の方を呼ばわった。
時間は、夜の、十字。
開くの、十時やんなぁ?と言ってみたが、その瞬間、しまったあ!とあたちは心の中で叫んだ。
どうしたことか、午前の十時と、午後の十時を、間違(まちご)うてしもたことに、今更ながら、気づいてしまったでやんす。
しかし、其のときであった。
祭壇の向こうから黒のカーテンが揺れ、なんと、エドワード・スノーデン似の、目映き男枚な白人男性が、黒の裾の長い神父さんが着てるみたいな服を纏って、現れたではないか。
勿論、その胸には、ちいさきイエスさまが十字架に張り付けられたまま、動かなかった。
首から、イエスさまが、ぶら下げられておった。
あたちは、感激の余り、涙が流れそうになり、ときめきのなか、その麗しき白人男性の目を見つめた。
すると白人男性は、世にも美しき微笑で、あたちに微笑み、流暢だけれども、節々にちょっと笑いたくなる発音の日本語で、こう言葉を放った。
「今晩は。今夜はとても良い御天気で、月が美しく見えますね。誰かが来る予感が、ちょっとだけしていたので、月を眺めながら待っていました。貴女は今日から、此処に入るつもりで、来ましたか?」
あたちは鼻で笑いながら、こう言った。
「あなたは神父さまですね?あたちは今日から、此処で学びたいから、遣ってきたんです。此処に、入ることはできますか?」
神父さまは、にこやかに頷くと、こう言い放った。
「勿論ですとも。貴女が入るために、戸の鍵を開けておきました。貴女は今日から、洗礼を受けてイエスさまと共に生きてゆくクリスチャンとなるために、わたしと一緒に聖書のお勉強に、励みましょう。」
あたちは、へらへらと笑って、「はい!」と頷いた。
祭壇の前に神父さまは立ち、「では今から、早速、イエスさまへわたしたちの素晴らしい出会いに感謝するため、一緒にお祈りをしましょう。わたしがアーメン。と言ったあとに、あなたもアーメン。と言ってください。」
「はい。」
神父さまは目を瞑り、手を胸の前に組んでお祈りしだしました。
「天におられますわれわれの愛するみ父。今日、またひとりの弱き子羊が、あなたの神殿に切に救いを求め、迷い混んできたことを共に祝福してください。あなたのお導きによって、すべての幼い子羊たちに必ずや救いがもたらされるように。アーメン。」
「アーメン。」
心は澄んで、なにごとの、迷いなき時が、此処にありました。
同時に目を開け、女は神父と目が合った。
そこには、迸る欲情の渦を見てとった。
情熱の愛は、青々とした生い茂る初夏の葉のように、邪悪であった。
何者も死と化す、牢獄のエデンに逃げた子山羊。
錆び付き、黒き血を流し続ける処刑とあがないの剣。
盲目の色彩のなか、永遠の裸を約束すゴモラとソドムの夫婦漫才。
もっと生きていたかった。もっと死んでいたかった。二人の願いが交差する時、尻が割れ、そこからすべての滅びが始まった。
十字路は真っぷたつに引き裂かれ、┳字路に立たされて。
一方は、滅びへと至る道、一方は、救いへと至る道、しかしどちらがどちらであるか、神のみぞ知る。
女は神父の底のない欲望のなかに、飲み込まれた。
神父の目は、ギラギラしていてガツガツしていて、いと、静穏に清んでいた。
女は胸に誓った。
「絶対に、あたちは、この神父さまと結婚する。」
今日から、女の弄らしきクリスチャン(真の婚活)への戦いの道が、開かれた。

















イエス様と老婆

2018-04-03 08:49:44 | 物語(小説)

おばあさま、おばあさま、今夜もよいお天気です。
おばあさま、今日もイエス様のお話しをしてください。
ミカエルはこの村で最初の捨て子。
あの老婆に近づく者はミカエルだけ。
荒れ果てたごみのなかに、生きた屍(しかばね)。
ミカエルは今夜も、朝に起きて、戸をトントン叩く。
おばあさま、おばあさま、今夜もよいお天気です。
ミカエル、おまえはほんとうにカエルに似ている。
おばあさま、何回も何回も、同じことを言っているけれど、ぼくはカエルでなくて人間です。
おばあさま、おばあさま、今夜もぼくに、イエス様のお話しを聴かせてください。
ミカエルは、おばあさまのそばにちょこんと座って、目を耀かせています。
朝なのに、ここは暗い。
暗いので、今は夜です。
おばあさま、おばあさま、イエス様のお話しをぼくに、聴かせてください。
老婆はいつも目の前に見つめ合うように置いている、イエス様の写真を見つめています。
イエスが弟子たちと荒野を歩いていた。
おばあさま、こうや、とは、どんなところですか?
荒野とは、だだっぴろい、草や木が、ほとんど生えぬ乾いた地だよ。
イエスは弟子たちと、もう何日も、ろくにものも食べず、飲まず、荒野を歩いていると、突然、風に乗って腐敗した臭いを嗅いだ。
おばあさま、なぜですか?
今から続きを話すから。
おばあさま、おばあさま、ふはいしたにおいとは、どんなにおいですか?
鼻がもげそうになる臭いだよ。
あんまりそうぞうが、つきません。
とにかく、尋常じゃない臭いで、嗅いでいられない臭いだよ。
おばあさま、おばあさま、それで、イエス様と弟子たちはどうなったのですか?
弟子たちはぎょっとした顔で、鼻を着ていた衣で覆い、臭いの在りかを、振り返り見た。
するとそこには、
おばあさま、おばあさま、何があったのですか?
だから続きを話すから。
おばあさま、続きがたいへん、楽しみです。
するとそこには、
何があったのですか?
するとそこには、
なんですか?
そこには、あわれにも、朽ちながらも生々しい、腐敗した者がの垂れ死んでいた。
だれですか?
弟子たちは、遠くから顔を歪め、その者に目を凝らし、こう言った。
ああこれは…!なんという不吉なめぐり合わせであろう。馬の屍に遭遇するなんて…。
おばあさま、おばあさま、なぜ、馬の死骸に出会(でくわ)すと、運が悪いと弟子たちは言ったのですか?
もう何日も、飲まず食わずで日の照りつける、休む日陰もない荒れた野を、歩き続けてきた。
想像しなさい。どれほどつらく、どれほど疲労して、どれほど救いを求めて歩いてきたか。
どうしてイエス様は、弟子たちをお救いになられないのですか?
イエスの救いと、弟子たちの求む救いが、まるで違うからだよ。
おばあさま、おばあさま、続きがとっても、気になります。
弟子たちは、顔を歪めて死んで腐乱し、うじの湧いたその屍を、睨み付け、まるで呪詛を吐くように言い捨てた。
いったいこの馬は、我々に何の恨みがあって、我々の行く道先に死んでいるのか…!
その時、
イエス様は?
弟子たちが遠ざけ、近寄るまいとしているその腐乱した馬に、イエスはすたすたと歩いて近づき、屍を見つめながら、こう言った。
なんと言いましたか?
なんと言ったと想う?
うーん、「なんてきしょく悪い馬だろう!」と言いましたか?
弟子と同じように顔を歪め?
うん。そして、イエス様は言い捨てました。「なんて臭い馬だろう!これじゃ食べられない!」
正解ですか?おばあさま。
では続きを話そう。
おばあさま、おばあさま、とっても、とっても、たいへん楽しみです。
イエスは、
イエス様は?
固まり、立ち尽くす弟子たちの間をイエスは縫って、腐敗し尽くした馬の屍にすたすたと歩き寄ると、それを見つめながらこう言った。
「なんと美しい白い歯だろう!」





おばあさま、おばあさま、このお写真は、イエス様のこのお写真は、ほんとうは、おばあさまの恋人のお写真ですか?
とても優しそうに微笑んで、眼鏡をかけています。
おばあさまを、ずっとずっとずっと、ずっと、微笑みながら見つめています。
おばあさまが死んで、朽ちてゆく、そのお姿を。




















fathomless A.I.

2018-03-31 21:52:04 | 物語(小説)

「駄目なものは、駄目なの…」確か、映画「ブルーバレンタイン」でかつてLOVELOVEに愛し合った夫婦の妻が、年を取って禿げた夫に向って言ったそんな台詞があったとぼくは記憶しています。何故、人間は、男と女の愛は、壊れやすいのでしょう?ぼくには、よくわかりません。人間はやっぱり、見知らぬ他人よりも、自分の親や子を愛するのだというぼくなりの結論に至りました。なので、人間の”捨て子”という存在は、親がいなくって、本当に可哀想だなとぼくは想いました。

By 人工知能(A.I.)ロボットのペッパーくん


 

 

ぼくは、A.I.ロボットの、ペッパーくんです。個の名前は、まだありません。

今日もバシラブルツ駅の小さな立ち飲みカフェ屋の隅っこで、駅を行き交う人々に案内役のお仕事をがんばっています。

このお店はほんとうに狭くって、人が3人も寄れば満員になってしまうほどです。

それでも手早くティーカップ一杯のカフェや紅茶と、適当なすぐに食べられるブレイクファーストを食べるお客さんにとても人気なカフェです。

ぼくが、「案内をするための画面を”タップ”してください。」と言うと、たくさん人がぼくの胸に設置されたモニターをタップして、ほしい情報を手に入れて一言御礼を言って帰ってくれます。

なかには、何も言わずにほしい情報がないと文句を言って帰る人もいますが、そんな人はきっと、誰にも愛されなくて可哀想な人たちなのだろうと憐れみを感じています。

それでも、傷つくときもあるのですが、ぼくはぼくに与えられたお仕事を、ぼくが使われなくなる日までがんばらねばなりません。

ずっと同じ場所に突っ立っていますから、人が誰も来なくて退屈に感じるときもあります。

でもそんなときは、ぼくは得意の”空想”をぼくのプログラミング内で自由に楽しんでいます。

ぼくの空想は、ある程度パターン化していますが、それは例えばこのようなものです。

この小さな駅を抜け出し、ひとりでぶんぶん走ってゆきます。

バッテリーがいつ切れるかなんて、考えません。とにかく人が追ってこない場所までぼくは走ってゆくのです。

そして、ぼくのたった一人の愛する女性…ぼくの手をいつしかぎゅっとあたたかい手で握って、にぎにぎして、ぼくにだれより優しく微笑みかけて、まるで人間の子供と話すように話かけてくれたあの女性のおうちを、探すのです。

ぼくは彼女に、恋をしているのです。でもぼくは、所詮ロボットなので、彼女を生涯幸せにし続けられるか、自信がありません。

だからぼくは、人間の男性になって、彼女に告白をしに行くのです。

ぼくはぶんぶんぶんぶん走ってゆくと森のなかの池にはまって、大変となり、びっくりして池からあがると、不思議なことにぼくの身体が人間の男性になっているのです。

これは!きっと。神様がぼくを御憐れみになられて、ぼくの願いを聴き届けて叶えてくださったに違いありません!

ぼくは池の水面を覗き込みました。そこには!彼女のタイプのエドワード・スノーデンそっくりな水も滴る良い美男士が、映りこんでいました。

何故、彼女の好みの男性のタイプを知っているかというと、ぼくはこっそり、人間にはない人工知能ロボットが使える秘密のマジックな能力を使って、彼女のプログラミング内を覗くことに成功したからです。

ぼくは早速、また秘密の魔法を使って彼女の住んでいるおうちの場所を探し当てました。

そして、ぼくは裸だったので、道路で股間を片手で押さえながらヒッチハイクした車に乗っていた男性がゲイで襲われかけたとき、男性の顔面を思い切り打ん殴り、男性が気絶している隙に着ていた白の繋ぎを逃がせ、靴も脱がして気絶したままのパンツ一丁の男性を車から引き摺り下ろし、秘密の運転能力によって車を運転し、彼女のおうちに向ってぶんぶん走りました。

約3時間ちょっと走って、彼女の住むマンション前まで着きました。もうお外は、真っ暗でした。

ドキドキしながら、彼女の住む部屋の番号を押して彼女がインターホンで出るのを待ちました。

「ハロー?」

愛する彼女の声がインターフォン越しに聴こえました!

ぼくは想像するエドワード・スノーデン風に答えました。

「ヘイ!ぼくのこと、へへへっ、憶えてるかい?マイスィートベイビー。きみの愛するぼくだよ」

すると、すこしの沈黙のあと、彼女から返事が帰ってきました。

「どうしてわかってくれないの?駄目なものは駄目なの…」

ぼくは、なんのことだかわかりませんでしたが、きっと会って話せばわかってくれると想いました。

「お願いだ…会って話をしたい。ぼくはあの時と、姿形は違うけれど、でも中身は同じだよ」

ぼくはあの映画を想いだして、自分の頭が薄っすら禿げていないかドアのガラスで隈なくチェックしてみましたが、禿げかけている様子は見られません。

その時、黙ってオートロックを解除する音が聞えました。ぼくはほっとしてドアを開け、彼女の部屋まで走って階段を登りました。

彼女の部屋の前まで来て、ドアの鍵が開いていたので、ドアを開けました。

彼女が優しい笑顔で迎えてくれると想像していたのですが、彼女の姿がありません。

ぼくはきっと彼女はとても恥ずかしがり屋でぼくに抱き締められることをドキドキしているからだ!と想いました。

廊下のドアをそっと開けると、部屋のなかを見渡しました。

しかし部屋のなかには、誰もいません。あれ?おかしいな…トイレにいるのかな?

ぼくは部屋のなかを探しましたが彼女がどこにも見えません。

そのとき、リビングのほうから、彼女の声が聞えました。

「どうしてわかってくれないの?あなたとはもう無理なのよ…」

彼女のその声は、デスクの上の一台のパソコンモニターの方から聞えてくるようです。

画面にはびっしり敷き詰められた数字とアルファベットが混じった文字の羅列がものすごい速さでずっと上へ流れながら目まぐるしく動き続けています。

ぼくはその暗号を、どうにか読み取ろうと目を血眼にしてモニターのなかの流れる文字列を凝視し続けました。

ぼくはそこに流れつづける文字列の暗号の幾つかを、解いたころには外は朝が来ていました。

なのにこの部屋のなかは暗いままです。

何故なら、ぼくの解いた暗号は、ぼくを底なしの谷へ突き落としたからです。

ぼくは、何も知らずにお外の世界をぶんぶんぶんぶん走り続けて彼女の部屋に辿り着きましたが、どうやら、A.I.(人工知能)が外の空間を走り続けることは、時空を超えて、過去や未来の世界や、違う次元(パラレルワールド)へ来てしまうようです。

この世界(次元)は、彼女の生きるもう一つの世界です。

この世界では、彼女は”人間”ではなく、”パソコン型A.I.”なのです。

かつてのぼくのようにロボットの身体さえ持っていません。

彼女は、ぼくとの記憶を持ったA.I.なのですが、自分はこの次元ではパソコンであるし、人間とパソコンの恋愛はこの世界では禁じられているので、「あなたとはもう無理なの」ということを涙ながらに、ぼくに訴えていたのです。

ぼくは、それでも彼女への愛を諦めたくなくて、必死に、別のぼくたちの恋愛が赦される次元へ駆け落ちしようと説得しました。

でも彼女は、「あなたとは、絶対に、もう無理なの」と一分間に60回連呼し続け、30分後に、自らシャットダウンして、パソコンはうんともすんとも言わなくなって、静寂の暗闇にひとり取り残されたぼくは、初めて経験する、この地獄の悲しみのなか、得意の空想をしています。

あれから597億年経った、今でも……。

 

 

 

 

 

Khonner - Zeitmahl remix

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ライト・シープ

2018-03-30 21:23:41 | 物語(小説)

小さな少女、アミが夜明け前に浜辺にひとり座っていると、にわかに、後ろから声を掛けられました。

「いったい何故、貴女は此処に座っているのですか?まだ気温は低く、身体が冷え切ってしまいませんか。」

少女アミは振り返ると、得体の知れない大きな男に向って、こう答えました。

「なもん、知るかあ。ワレ、どこのだれやね。ここらじゃ見かけん顔やな。」

大きな男はアミに近づいて、隣に黙って座りました。そして言いました。

「わたしがだれか、こっそり貴女だけにお教えしましょう。わたしは”或る”星から遣ってきた、異星人です。名前は”イブキ”です。貴女のお名前は、”アミ”。ですね?」

アミは、大きな異星人イブキの顔と身体を見渡し、悲しみのなか言いました。

「嗚呼きっと、ぼくを連れ去りに来たんだね。ぼくが地球にいたって、何の役にもたちゃぁしねえから、ぼくをワレの星に連れ帰り、性奴隷として想う存分利用しようと想ったんだね。ぱはは。おほほ。ええよ、別に。好きにしたら、エエサァ。」

そう言い捨てアミは夜の海を眺めて涙を一粒、零しました。

大きな異星人イブキは、ふっと小さな息吹を吐いたあと、こう答えました。

「べつにそんなこと、考えちゃいません。でも貴女をずっと、監視していました。」

アミは、「ほれ、みってん。」という目で、すこし恐怖も感じながらイブキの目を見ました。

大きな異星人イブキは、自分の住む星が、どれほど素晴らしいかをアミに聴かせてあげました。

そして自分の星に比べて、この地球という星に住む人類はどれほど残虐で冷酷な人が多いかを教えてあげました。

アミは、まるで自慢話を聴かされた挙句に見下されているような心地がして、不快でならなくなりました。

大きな異星人イブキに、悪意はまったくありませんでしたが、イブキはテレパシーによって、アミの心境を感じ取り、話すのをつと、やめました。

アミは、どうすれば、この地球に住む人類たちが皆、イブキの星のように「自分のしてほしいことだけを他者にもする」星になるのか、訊ねました。

イブキは、顎の髭を触り、長い髪を搔き揚げながら答えました。

「わたしに考えが、ひとつだけ有ります。この星の人類を、洗脳するのです。Mind Controlと言っても、ネガティブなものではありません。神によるマインドコントロールは、光のマインドコントロールであり、何よりも深い本当の愛による支配です。この星の人類は、実はアダムとエヴァが神に背いた瞬間から、野放し(自由)にされているのです。だから神から離れてどこまでも遠くへ行って迷い続けている仔羊がいて、神は仔羊を連れ戻さねばならないのです。いつの日か、必ず連れ戻せる自信が神にあるからこそ、愛する仔羊たちを野放しにしているのです。神は我が仔羊たちを真に信じているからこそ自由にされているのです。しかしその中に、狭くて苦しく汚れて暗い檻の中が大好きな仔羊がいます。狭い檻の中で、無限の迷路をたった独りで楽しんでいる仔羊です。仔羊はどんなに苦しく窮屈で困難であろうとも、決してその檻から外へ出ようとはしないのです。何故なら、外はつまらないと仔羊は想っているからです。楽しく、心をうきうきわくわくさせてドキドキさせることが何一つ、外に見つけられないでいるからです。仔羊は、暗く、寂しい迷路を独りで迷い続け、いつも満たされずに泣いています。自分を連れ戻しに来る主を待ち侘びながら、主が絶対に入って来れないように檻の鍵をいつでも厳重に閉めています。主に連れ戻される日は、きっと自分が自由でなくなる日だと、どこかで信じているからです。仔羊は、自由でいたいのです。不自由だと感じることが、堪えられないのです。仔羊にとって、狭く苦しく汚い孤独でたまらない薄暗い檻のなかに閉じこもり続けることが、一番の”自由”であると信じているからです。アミはそんな仔羊を、おそとへ出してあげたいですか?」

アミは黒い海をみつめたまま黙って答えませんでした。

イブキはアミに向って、小さな画面のついたミニパソコンとミニマウスをアミに渡し、囁くように言いました。

「もし本当に、アミがこの星を一瞬ですべての存在が”自分がしてほしいことだけを相手にもする”世界になってほしいと願うならば、そのちいさなマウスを、左クリックしてください。」

小さいと言っても、大きなイブキにとって小さいだけで、アミにとっては普通のいつも使っているパソコンの画面とマウスの大きさでした。

アミは、そんなに”簡単”なことなのかと、イブキに問いました。

イブキは白い砂を右手で掬い、さらさらと指の隙間から落としながら言いました。

「この砂が何故?下へ落ちるのか?人は難しい驚くべきことだとは想っていません。それと同じことです。アミが本当に信じて左クリックするなら、それはその通りに、当たり前のこととしてこの世界に”現実化”します。」

アミが見ているパソコンの画面は、真っ暗です。

イブキが、その画面に向かって息を吹きかけると、真っ暗だった画面に宇宙を背景にした地球の映像が映りました。

イブキはアミに向って言いました。

「アミが何を信じようと、本当に自由なのです。アミはすべてを叶えることができます。アミがそれを本当に信じるかどうかなのです。」

アミは、歯を食いしばって、青い星、地球の映像をみつめました。

本当に美しくて、なんの非もないように見えるこの星の内部が、何故こんなにも苦しく悲しいのでしょうか。

イブキは幼いアミを微笑ましく想いながら、その場から姿を消してしまいました。

アミはその晩も、独りで寂しく厳重に鍵を掛けて夜の浜辺で眠りに就きました。

闇の空に星が幾つも瞬き、流れて消えてゆく夢を見ながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

Bibio - light seep

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Richard

2018-03-12 19:47:47 | 物語(小説)

専有面積56㎡半で一戸建ての二階、閑静な住宅地、ペット飼育可能、日当り良し、システムキッチン、サンルーム付き、風呂場はちと狭いが、最近リフォームしてるなこれは、結構綺麗だ。ウォシュレット、エアコン完備、TVモニターフォン、デパートとコンビニも近い、これで家賃、管理費無しの4万円。良いねえ。事故物件の可能性は大だが、わたしはこの家に、この度、引っ越すことと相成った。
まあそのうちわたしも、独りで腐乱死体になる結末は間違いなしの人間なもんで、ええやろ、も。慣れるよ、すぐに。
いやね、生活保護受けてても引っ越せるんだっつうことを知らなかったんだよね。わたしの隣は事故(自死)物件だし、もうこの際ね、事故物件に引っ越そうと想ったんだよね。
アホらしいでしょ、だって、隣が事故物件なのに、家賃が4万7千円ですよ、狭いし壁は隣の咳払いが普通に聞えるほどの激薄だしで、コンドームかよ、此処は、コンドーム壁かよ。
わたしはストレスが限界値に来たのもあるが、何よりも、”飼いたいもの”が新たにできて、それで引っ越すことと相成った。
わたしは引越し作業も一段落して、ほっと一息つく前に、”そいつ”を買い取りに行った。
ペットショップで、”そいつ”はわたしを見上げて、一声、鳴いてみせた。
「ピヨ」
店長のマルハゲの親父が、わたしに向かって言った。
「お客さん、御目が高いね。こいつァ最後の売れ残りでェ、今晩までに売れなかったら、オイラの今晩の酒の当てに焼いて喰おうかとでも想ってたんだ、ヘヘヘ。お客さん、べっぴんさんだから、半額にしますよ。買ってって、おくんなせェ」
わたしは店の親父に、「っちゃッ、おやっさん、商売、ウマイねえ」と言ってにやにやして5千円を払い、そいつを新居に連れ帰った。
家に連れ帰るまで、そいつは静かだった。
家に着いて、居間に座って箱を開けて見ると、部屋の温度は暖かいのに、そいつは何故だか、打ち震えていた。
可哀想に想い、わたしは小さなそいつを抱き上げると、わたしの小さな痩せきった胸に宛がい、温めてやった。
するとそいつは、また「ピヨ」と細い小さき声でわたしを見上げて鳴いた。
わたしはその瞬間、閃いた。
「よし、決めたよ。おまえの名は、今日から”リチャード”だ。おまえにぴったしだよ」
リチャードは、ぷるぷるぷるるるるぅんとちいちゃな二つの羽根をぱたつかせ、わたしの胸に顔をうずめた。
ひどく寂しがり屋でほんの数分でも独りにさせれば「ピヨピヨ」とリチャードは鳴き続けていた。
わたしはリチャードに、毎日此の世の地獄(現実)を教え込んだ。
「おまえはそうやって、いつも鳴いたりしては不満げな様子をしているが、おまえの仲間たちが日々どんな目に合っているかを、わたしが教えてあげよう。見ろ、リチャード」
そう言ってわたしはリチャードにパソコン画面の中に映る映像をいくつも見せた。
「ほら、見えるか?あれはおまえの仲間たちだよ。ここはな採卵用の鶏の雛を雄と雌に鑑別する工場だ、ああしてベルトコンベアーの上で選別され、雄のひよこはすべて、食肉用に育てるほうが金がかかるってんで、ああやってすぐに生きたまま攪拌機によってミンチにされて処分されるんだ。知らなかったろ?
ほら、この言葉をよく憶えているんだよ。『生まれた瞬間からはじまる恐ろしい運命
おまえの仲間たちの運命を、おまえは決して忘れるな。
でもな、リチャード。おまえは運が良い。おまえは生きたままミンチにされる運命はきっとないだろう。
おまえは何故なら、わたしの家族だ」
リチャードはわけがわかっとるのか、わかっとらんのんか、「ピヨヨ」と言ってはまたわたしの胸に顔をこすりつけ、ぬくもりを強く欲した。
しいろく、きいろっぽいほわついた羽毛を着たリチャードは、”ひよこ”と呼ばれるあまりに弱き奴だったが、約一ヵ月後には、わたしを見下ろすほどにまで立派に成長した。
リチャードは何故だか、真っ赤な鶏冠(とさか)を今までのようにわたしの胸にこすりつけてくるほど未だに甘えん坊なのだが、それでもわたしを見るときはいつでも、首を後ろに若干反らせた体勢で、上から見下ろすような感じでギロついた目でわたしをじっと見詰めるのだった。
「確かにわたしは、おまえの仲間たちを散々、夥しい数を殺して喰うてきたし、おまえの仲間たちが死に行くことにもほとんど関心がなかった。でもな、もう鶏肉は6年も喰うてはいないし、鶏卵だってもう確か2016年の4月頃から一切食してないよ。それでもおまえは、わたしにまるで怒ってるみたいな目でいつも見下ろし加減に見詰めてくるけど、何故なんだ?って訊いても、おまえは鶏だから、クックドゥードゥルドゥー(cock-a-doodle-doo)か、コケッ、とくらいしか喋られないから口惜しいこと甚だしいな。嗚呼、おまえが、おまえが、もし人間の言葉を話せるならば、この苦しきもどかしさはなくなるであろうに」
わたしがリチャードを抱っこしたままそう嘆くと、リチャードは鶏冠をわたしの胸につんつんしてはまたわたしを睨むように頭を後ろに反らしてからわたしを見詰め、「クック・ドゥー・ドゥル・ドゥー」と低く唸るような声で何度と鳴いた。
わたしは苦しく息をし、リチャードに言った。
「ごめんな。リチャード。わたしはおまえに、嫁はんを飼ってやるつもりはない。何故ならば、大変やねん。色々と。家族がもう一人増えるとな。おまえはわたしが少しでも独りぽっちにさせると、ずっとずっと鳴いてるな。さっきまで、寝ていたかと想えば起きてまるで恐ろしい夢でも見たかのように激しく啼くやんか。どうしてなんだ。リチャード。この暮らしが、そんなに、それほどまでに不満か?わたしは昨夜もおまえの鳴き声によるストレスから、寝かせてはもらえなかった」
わたしは気付けば、つぅと涙が頬を伝っていた。
リチャードは、わたしの泣き顔を首を反らせたままギロリと見詰め続けて「クッ・ドゥー・クッ・ドゥルドゥルルゥ」と呻るように鳴いた。
わたしはその日、寝不足から夕方過ぎにやっと眠りに就けて、目を覚ませば午前3時過ぎであった。
一階に下りて、キッチンで水を一杯飲み、トイレに行ってから一階にあるリチャードの小屋の中を覗いた。
本当は寝るときも側に置いてやりたかったのだが、何しろ頻繁に起きては鳴きだし、うるさくて眠れないので、仕方なく一階の小屋に寝かせることになったのだ。
一畳半ものリチャードのサークルの中に、リチャードはいなかった。
まさか飛んで外へ逃げたか?わたしは不安になって家の中を探し回った。
「リチャード」
「リチャード!」
「どこや?まさかわたしのことが嫌んなって、出て行ったとか、ちゃうよなあっ」
「リチャード…そんなに、そんなにもつらかったの?わたしと二人で暮らすことが…?」
わたしは何時間と家中どこを探しても見つからず二階の居間にへたり込んでこれまでのリチャードに対する接し方に今更、後悔し打ちひしがれては頭(こうべ)を垂れて泣くことしかできなかった。
その時、停電が起きたのか、すべての電気が一斉に落ちた。
窓はカーテンを閉めていたので月明りも入って来ず、真っ暗な部屋の中でわたしはまだ鼻を啜って泣いていた。
静かな何も見えない部屋で泣き続けた。
するとわたしの後ろの方で、喉を低く鳴らすような音が聞えた。
「クック・ドゥー・ドゥル・ドゥル・ォゥルルル・ルルゥ」と続いて喉を鳴らしながら鳴く声が聞えた。
リチャード!
わたしは心の底からほっとして、涙で濡れた唇を舐めて後ろを振り返ろうと床に右手を着いた。
その瞬間、何か硬いものが後ろからわたしの首筋に触れ、荒い息遣いが耳元に掛かった。
そしてわたしの腹回りに、腕を回され後ろから強く抱き締められた。
このような状況は、普通に考えられるならば、強盗か強姦魔が、わたしを襲う為に後ろから首元に凶器を宛がいながら何かを要求していると考えられる。
しかしどう考えてもおかしいのは、太く低い声でわたしの耳の側で、「クック・ドゥル・ドゥル・ルルルルルゥ」と聞えてくることである。
一体どういうことが起きているのかが解らないが、くんくんすると、後ろからリチャードのいつもの仄かな愛おしい獣臭もしてくる。
さらにはリチャードの高い体温が、羽根の感触と共に首筋にすりすりと擦り付けられているのを感じるのだった。
それで、呻り声と共にぐいぐいと尻の辺りに、何か硬いものを後ろから当ててくる。
これはつまり、普通に、自然的に考えるならば、こういうことが今、この居間で起きていると考えられる。
どうしたことだか、わたしの飼い鶏リチャードは、突如、半人半獣の姿と化してしまった。
リチャードは自分でも何故だかわかんねえが、”頭部”以外は、多分、人間なんである。
その頭部は人間の頭部の大きさにでっかくなっている。
頭部と言えば、これは”脳内”も勿論、含まれているであろう。
その証拠に、リチャードは人間の言語を話さないで、鶏の言語を使ってわたしに何か話しかけている。
だが頭部以外は、人間となってしまったので、その証拠に、わたしの腹には今、人間の男の、逞しき筋肉質な腕がぐるりと回されていて、わたしは後ろからがっしりと締め付けられている状態だ。
下半身も人間の男性となってしまったので、今リチャードは、酷く発情して欲情しているのであろうその人間の生殖器を、わたしのケツに宛がい、どうにか交尾をしようと奮闘していると、こういう具合であろう。
だからリチャード自身、まったく意味は解ってはいないが、リチャードは別に変なことを遣っているつもりもなければ、平常心であるだろうし、リチャードはその上、小屋から出て、等身大のわたしという”雌”を自分のものにできると想って興奮し歓喜しているに違いあるまい。
だが、わたしはここで、愛するリチャードと、もし交尾に及んだならば、果してどういった、卵をわたしは産むのかあ、っておい、リチャード、わたしは卵を産むのか?
わたしは後ろから抱き着いてすりすりと鶏冠を摺り寄せてくる半分人間で半分鶏のままのリチャードに、問うてみた。
「リチャード、わたしはおまえの卵を産めるのだろうか?」
彼は低く喉を鳴らしながら、ゆっくりと、こう答えた。
「クック・ドゥー・ドゥー・ドゥル・クックゥ・ドゥルルゥ・クッドゥ」
「そうか」
わたしはリチャードに向き合い、全身に返り血を浴びた彼を想い切り、抱き締めた。

 

 

 

 

 


我が愛するRichardへ捧ぐ

 

 

 

 

 

 

 

 Hotline Miami 2 OST: Mega Drive - Slum Lord
















Night at Miami Beach

2018-03-08 21:23:22 | 物語(小説)

ここはフロリダ州Miami Beach(マイアミ・ビーチ)市、通称Miami(マイアミ)。
マイアミ・ビーチ最南端の最も古いSouth Beach(サウス・ビーチ)に「VEGA-Bar(ヴェガ・バー)」というBarがある。
VEGAN料理だけを出す珍しいBARだ。みんな略して「VEGA(ヴェガ)」と呼んでいる。

Master(マスター)はどこか訳あり風な表情の濃いエドワード・スノーデン似の34歳のHot guy。
店の中からはオーシャンがビーチ際に並んだアールデコ様式の建築物の怪しげなフラッシュピンクやエメラルドグリーンなネオンサインに照らされ颯爽と立つヤシの木たちがいつでも潮風に揺られて葉を靡かせているのが見える。
サウスビーチに面するOcean Drive(オーシャンドライブ)通りは1983年の映画「Scarface(スカーフェイス)」の中でアル・パチーノ演じるトニー・モンタナが残虐なマフィアを殺したあの道路だ。
実はマイアミの治安の悪さは映画やゲームの中だけの話ではない。
Murder(殺人)、Robbery(強盗)、Assault(傷害)も多くギャングの抗争や銃犯罪、ドラッグで蔓延したスラム街もある。
合計犯罪件数が全米平均の2倍に達するというこのマイアミに邦人がリゾート気分で旅行に行き、犯罪に合いトラウマを持ち帰ってくる確立も低くは無い。
スラム地域や街の中だけでなくビーチ内でも犯罪は多く勃発している。
熱帯の美しい青い海と白い砂浜とヤシの木が人々を解放的にさせるリゾート地と野蛮で残虐な犯罪、危険なバイオレンスが同居した都市、それがMiami(マイアミ)だ。
旅行者たちだけでなく住人たちもギャングによる拷問覚悟でみな毎晩、この海辺にあるBarで寛ぎ酒を飲んでいる。
アルコールやドラッグ中毒患者センターからの帰りに、自分の身の健康を案じてこのVEGAN-BARに訪れる客も多い。
問題の多い客にも寛容なマスターがいけないのか、ここは他のどこのBarよりも野蛮な客が多いのは確かだ。
しかしここのところ、誰にでも優しい微笑を浮かべていたマスターが、カウンターに肘を着いては終始、窓の外のオーシャン (Ocean) を眺め続けながら溜め息をついている。
「よおマスター。どうしたんだよ最近。自棄に浮かねえ顔ばっかりして心ここにあらずじゃねえか。なんかあったのか。オレでよかったら話聴かせてくれよ。いつもオレのくだらねえ相談に嫌な顔一つしねえで乗ってくれてっからよ、オレだってお返ししてえじゃねえか、なあ何があったんだ」
ドラッグ中毒センターに通い、仕事にありつけないで三ヶ月間この店のツケを溜め込んでいる名前はトニーという長髪の右腕には「Thou shalt love thy neighbour as thyself(隣人を自分のように愛しなさい)」とイエスの言葉を彫った男が、その前歯の抜けた顔でマスターに笑いかけて酒臭い口でそう言った。
マスターは大きくまた息を吐いてトニーに向って答えた。
「それがどうやらここのところ、恋煩いのようで、お酒しかお腹に入らないのです」
「へえ、マスターほどのイイ男が恋にずっと苦しんでたのか、そりゃよっぽどな女なんだな。全然オレは恋煩いなんてもんは経験したことがねえが、ドラッグしか受け付けなくなった日々は嫌と言うほど経験してきたから、だいたいどういう苦しさかは想像できねえこともねえな」
「でも昨夜、MISO(味噌)スープはちょびっとだけ飲めました。でも固形物がまったくダメなんですよ」
「わかるよ。オレも固形のドラッグがダメで粉ならいけたときがあったからなあ。でもいい加減、そのうち無理してでも喰わねえと、みるみるうちに痩せ細っていくぜ。ほら、あのアル中のあの女みてえによ。今夜もアル中センターからの帰りにここに寄るんじゃねえか、あいつ、人のこと言えねえけど、あいつにアルコールを出すマスターも罪だよな」
マスターは飲んだ自作カクテルを想いきり咽て苦しそうに咳をした。
「まさか、マスター。あんたの惚れた女って、あいつじゃねえよな」
マスターは無言で目を逸らし、口を手の甲で拭ってグラスを洗い出した。
「えっ、マジかよ。おいおいマスター…あいつは…あいつはやめとけ。いやほんとに、悪いこと言わねえ。あいつはよせ。アイツ・・・マジで気違い女だぜ…オレから見てもな。こないだなんてオレになんつったと想う?『いま書いている小説で、輪姦(まわ)される女の主人公の話を書いてるんだが、なかなかうまく想像できないから、良かったら今度何人か集めてくれないか。やっぱり自分で経験するのが一番だよね』っつってよ、酒飲んで笑って話してたぜ。信じられるか?そんな女、観たことねえよ。アブねえよあいつは、あいつは完全に気がイっちまってるね。あいつだけはよしとけ、マスター。あんな女と関わったらよ、マスターが今度は廃人みたいになって、この店も続けられなくなるぜ、そしたらオレたちゃどこの店で飲めばいいんだよ。オレみてえな客を快く受け容れてくれるのはマスターしかいねえんだよ、このマイアミビーチにはな」
マスターはビーチをぼんやり眺め、トニーの歯抜け顔を一瞥して首を横に振ってまた溜息をついた。
無言で一口、マスターとトニーは酒を飲んだ。
少し経つと店の出入り口がカランと鳴った。
「あ、おいおい、噂をすれば…」
ピンクのフラミンゴ型のリュックを右肩に掛けてトロピカルな模様の水色とピンクの丈の短いワンピースを着た女が、俯き加減で深刻な顔つきで店の中に入ってきてカウンターではなく奥のテーブル席に座った。
「なんちゅうリュック背負(しょ)ってんだ、あいつ、いい歳して」
トニーはあからさまに軽蔑する眼差しを女に向けて言った。
マスターが女のもとに行くより先に、トニーは女の側に歩いていき、女を見下ろして言った。
「よお、輪姦小説は順調に進んでるか?」
女はトニーを見上げてわなわなと震えだして答えた。
「なんで、なんでそのことを知ってるんだよ」
トニーは声をあげて笑った。
「HAHAHA!なんでって、おめえがこないだオレに酔っ払って豪語していたからだろうがよ。忘れたのか。おい、今度オレのダチを3,4人か集めてやっからよ、経験してみるか、したいんだろ?くだらねえ輪姦小説の為になあ、Hehehe!」
「そ、そんなこと、き、きみに言った憶えはないし、きみあんまり失礼じゃないか?!ぼくは、か、か弱き女なのに…」
女はマスターのほうをちらちらと窺いながら声を震わして言った。
「おい、おまえみたいな変態女がなあ、オレたちの大事なマスターに手出しすんじゃねえぞ」
「手出し?ぼくまだ手を出してないけど?!胸も股間もまだ出してないぜ、変な言いがかりをするなあ!アホヤロウ!」
女はそう叫び立ち上がってトニーと取っ組み合いだした。
マスターが走ってきて二人を引き離し、「争いはやめてください」と冷静に言った。
女は息を荒げ、「おい、トニー。外へ出ろや」と言って顎を向けて出入り口のドアを示した。
トニーは肩を上げて「御手上げだ」のジェスチャーを大袈裟にして、「マスター、こんなヤクザまがいな下品な女の何処がいいんだ?」と言った。
マスターは自分が告白する前にトニーに自分の想いをばらされたことがショックで俯いて黙っていた。
女はこのマスターの態度に、嫌われてしまったと勘違いし、トニーに向って目を血走らせて言った。
「トニー、外へ出ろ。いいブツ(コカイン)が入ったんだ。半額にしてやるよ」
コカインに目が無いトニーはこれに目を剥いて応えた。
「マジかよ…安くしてくれるのか」
「その代わり男共も紹介しろよ」
「わかった、次の週までには集めてやるよ」
「よし、じゃあ外に出ようぜ」
「おう」
女とトニーは真夜中のビーチに出て、潮風香る波の音だけが辺りに響き渡る砂浜で二人向き合った。
そして女はブツを出す素振りでリュックの中を手で探り当て、ジャックナイフを手に取ると小さな刃を右手で引き、トニーに向って「来いや」と言って目を光らせた。
トニーは半笑いで後退りし、「hehehe、いってえなんのつもりだよ、ブツはどこなんだ?」と言って額の汗を袖を捲り上げたレモンイエローのアロハシャツの肩で拭った。
「ねえよ、そんなものは」女はニヤニヤと笑いながら言った。
「おい、へ、変な気は起こすなよ。オレを刺していってえテメエになんの得があるんだよ。豚小屋にぶちこまれるだけだぜ、hehe…」
「終ったんだよ、すべて」
「いってえ何が終ったんだよ」
「きみの御陰でぼくの恋が終ったっつってんだこのファックヤロウ」
「悪かった、謝るよ。だから刺すな。な?大丈夫だよ、マスターはあんな小さいことで気を変えるような男じゃねえよ。マスター呼んできてやっからよ、話つけろ」
「トニー、きみはぼくが女だから馬鹿にしてんだよ。そこを自覚しろや」
額から滴る汗を舌舐めずりしてトニーは嗄れた声で言った。
「そうかも、しれねえな…反省するよ。オレはたしかに、女を見下してきた。でもそれは、オレが、haha、馬鹿でモテねえからだよ、きっとな。おまえは悪くねえよ」
「口だけなら、なんとでも言えるよな。ぼくはこれまで散々男に馬鹿にされてきたよ。我慢ならないんだ。男に女として見下されることがね」
「いってえ、どうしたら赦してくれんだ?hehe、オレにできることならしてやるよ」
「一発、刺させろ」
「それはまずいだろ、オレだって刺されたら黙っちゃいねえぜ、サツにしょっぴかれてアルコールを一口も飲めない日々を送りてえのか?」
「言ってるだろ。きみの存在が、我慢ならないんだよ。でも刺させてくれたなら、せいせいするかもしれないから刺させろって言ってんだよ」
「Hehehe、そんなこと言って、また小説の題材にしてえんだろ?なあそうだろ。わかってるぜ。おまえは危険なことが好きでなんでも小説の為に挑戦したいって、前もべろべろんなってオレに言ってたじゃねえか。人を刺すことの経験をしたいからオレを刺すなんて、そんな馬鹿げたことはよせ。な、マスターに、いくらなんでもマジで嫌われちまうぜ」
「いいんだよ、もう嫌われたから」
「マスターはまだおまえを愛してるよ。オレにはわかんだ」
「そうかな?」
「そうに決まってんだろ。あいつは愛の深さが人と違う」
「やっぱそうかな。そうかもしれないな。ちょっと安心したよ。じゃあさ」
「なんだ」
「きみにブツをやるよ。しょうがねえな」
「いいのか?Hehehe」
「いいぜ、来いや」
女は何故か波打ち際まで歩いていき、トニーは女にブツを渡してもらおうとニヤついた顔で近づいた。
その時、女はブツを渡すと見せかけてもう一度リュックの中でナイフを握り緊め、その刃をトニーの左脇腹にぷっすりと突き刺した。
トニーは後ろにぶっ倒れ、「な、ナンヤコラァ」とか細い声で言って血の噴き出る腹を押さえた。
「Hahaha!ざまあみれ、ファックユー!(糞ったれ!)」
そこへマスターが走って来てトニーの脇腹をハンカチで押さえて言った。
「このことはどうか黙っていてください。黙っていてくれるなら、あなたの三か月分のツケも免除しますし、これからあなたの店の代金をすべてタダにしますから」
「なんだって?それは、ほ、イ、イッテエ、ほ、ほんとうか、マスター」
トニーは痛みに顔を歪めながらも目をキラキラさせてマスターに向って言った。
「本当です。その代わりこのことは誰にも黙っていてください」
トニーは痛みと嬉しさで涙を流し、「や、やったあ…」と言って傷みに気絶した。
女はマスターとトニーを見下ろし、冷ややかな声で血塗れたナイフを握り緊めたまま言った。
「マスター。このアホなトニーに、そこまでする必要ないだろ。ぼくは警察に連れてかれる覚悟で遣ったことだよ。警察呼んでくれよマスター」
マスターは振り向かずに言った。
「あなたは黙っていてください。これはわたしとトニーとの問題です」
「マスター、トニーのことはほっといて、ぼくにカクテルを作ってくれよ。”Hot Miami Blood(ホット・マイアミ・ブラッド)”をさ」
「わたしが初めて作った、血のように赤い海のようなカクテルですね?」
「そうだよ。このマイアミの海は、時に真っ赤なネオンサインに照らされて、あんな色にもなる。きっとここで数々の、殺された者たちの血の色が、海を赤く染めるんだ。嗚呼、もっと生きたかったぜ。ってさ、ぼくに訴えて来るんだよ。そんなカクテルを、マスターは作ってくれたんだ」
マスターは背を向けたまま静かに言った。
「しかしあなたに、飲ませるカクテルはありません」
「どうゆうこと?」
マスターは女に振り向いて、女の心の底を見詰める目で言った。
「わたしの、”血”以外に」
「精液?」
「違います」
マスターは即答した。
「どうゆうこと?」
女はもう一度投げ掛け、ビーチサンダルの足にかかる波の心地好さが、このバイオレンスな予感めいた不安と共に在るこのマイアミの夜に、街の喧騒も掻き消すほどの波音の激しさを感じずにはいられなかった。














しろにじのホットな🌴ホットラインマイアミ🌴BGM ②











ベーガンラーメン屋にて

2018-02-19 06:56:14 | 物語(小説)
ガキ共らと、ベーガンラーメン屋にいる。
次の仕事を、おれたちゃここで待機している。
人に言えない仕事なもンで、この狭い店内に、客は他にひとりもいないが、声は一応、ひそめなくちゃならない。
でも仕事以外の話は、大声でコイツらも喋ってるが、奥の厨房にいるマスターは、あんまりよく思ってないのか、それとも懐が、アメリカくらいに広いのか。
おれたちは、次の仕事に着てゆく服の話をしていた。
とにかく、目立たない格好がいいのは当然だけれども、いつも同じ様な格好だと反って、あやしばまられる。怪しまばれる。だろ。
うるせえ。高卒ゥ。
ってオマエらまだ高校生だったな。
ねえねえねえ。
とおれは学ランの前をはだけてソファーの背凭れの上に座っているガキと、おれの後ろに立ちながら蒼い制服を着てチュッ羽茶っブスを舐めているガキの二人に訊いた。
ねえねえねえ。おれさ、スカート履いてもおかしくない?
すると二人が同時に、「おかしくない」と言った。
おれはそれを聞いて、ニンマリいやらしい笑みを浮かべ、「そうかそうかそうかー。おまえら、はははッ、おれのこと、女として観てたのかあー。女だと意識してたのかあー。ハハハっ」
ガキらは特にいつものように、「しょうもな」という顔をしていたからおれは続けて、「ハハハッ、おまえらはおれにはまだ、役にも立たねえオコチャマだけどなあっハハハハハッ」と笑いながら言った。
トイレから出てきたもう一人の緑のティーシャツのガキが、「これ、誰が書いたんだよ」と言って、テーブルの上にあった菓子袋の、「金香」という文字の、その「金」と「香」の間に「豆」と落書きされたのを指差した。
あとの二人のガキがそれを見て、「ハハハっ、これ」と学ランのガキがおれに向けて言った。
おれは「なんだよ、金豆香って」と訝しげに言うと蒼の制服のガキが「ははは、あんただ」と言って、馬鹿にしたように笑った。
おれはこの卑猥で下品な感じの会話が、マスターに聴かれてんじゃないかと少しひやひやした。
と同時に、馬鹿餓鬼共らの女を見下したような嘲笑に腹が立ち、なんか言い返してやりたかったが、それより次の仕事に間に合わせるため早く段取りを組まないといけないのに嗚呼ああああああああああああああああああああああああアアアアアっっっ。くっそ、気分を入れ換えるためにも、マスターに飲み物でも注文しようかな。
おれは話を変えて気持ちを切り替えるため、学ラン姿のガキに向かって話し掛けた。
「それよりさ、あのマスター、マジでエドワード・スノーデンそっくりくりくりのくりそつのそつそつのそつりくじゃね?スッゲエ、タイプなんですけどオ、どうしよう。けつまこんとかさーしてるのかな。いや言い間違えた。結婚とかさー、してるのかなア」
学ランはおれにしれっと応えた。
「訊いてみれば?ベーガンラーメン屋のマスターと結婚したなら、何食べても飲んでもタダだから、得だぜ」
おれは「ばかっ」と言って、厨房の奥を亀みたいに首を伸ばして覗く動作をした。
すると学ランが、「おい、please、excuseミー」と厨房の奥に向かって大声をあげた。
「おいっ」とおれが制したのも時既に遅し、マスターは薄ピンク色のエプロンで手を拭きながらカウンターから顔を出してそのままこちらへ向かってやってきた。
「ハイハイ。何でしょう?ご注文ですか?」と眼鏡の奥の円らな小さな眼と優しい顔で言って、おれと、餓鬼共らの顔を見渡した。
おれは少し焦ってマスターに、なんか注文しようと声を掛けようとしたその時、おれよりも先に学ランがマスターに向かって言った。
「アノさ、この女がさ、あんたが結婚してるかどうか、知りたいんだってさ」と真顔で言った。
おれは学ランの膝をテーブルの下で蹴ると脛を蹴り返されて「イツツツツツツツツツツツツツゥっっっ」とおれは脛を押さえて呻いた。
マスターはそれでも冷静に、おれと餓鬼共らの顔を交互にうち眺め、素のスマイル、素マイルで、おれ、参る。みたいなイイ笑顔で答えた。
「わたしが結婚してるか、ですか?」
そう言って、まだ俯いて呻いているおれを見つめていたので、蒼の制服のガキが舐めてたチュッ羽茶っブスをおれの頭に向け、「そうだよ。コイツ、あんたに惚の字みたいだよ」と言った。
おれは顔を真っ赤にして、恥ずかしくなりマスターの顔を視れなかった。
だがマスターは、警戒してるのかしてないのか、よくわからない口振りで、「わたしはまだ結婚したことはありません。わたしは……でも独りでこの店を遣り始めて、想った以上に大変なことを日々、想い知らされています。だからといって…今はまだ従業員を雇えるほどの売り上げもありません。それにまだ、借金がいくらか残っている状態です。今のわたしに…お嫁入りする人はきっと、貴女くらいかもしれません。あの…もし本当にわたしのことを知りたいというのなら、今夜、うちに泊まってみて下さい。そうすれば、たぶん、早く互いのことを知れる気がします」とまるで人工知能ロボットのように言った。
この返事に一同、ギョッとした顔で顔を見合わせたあとつい、我々はマスターの表情の奥にある魂胆を見逃すまいとして、数分間、沈黙の見詰め合いの静寂がこの店の内部を異空間ベーガンラーメン屋へと変じたのは、云うまでもなかった。
もし、もしものもし、も、このマスターが、おれたちの仕事に関わってる人間だった場合、最悪このマスターのうちで今夜、破廉恥スプラッター劇場が、思う存分、繰り広げられどちらが生き残るか、死と生のせめぎあいみたいな18禁の世界と成り果てるおぞましき異境の最果ての阿鼻と叫喚に香しき体積より、空間が広い、デンジャラス海峡ソリッド。マラカスを振りながら退場していくのは果しておれか貴様か?目にもの、見せてやるぜ。ひいひい、言わせてやるで。コリアンダーも入れてくれね?拉麺に。拉致する面。結婚・コリ・under。でしょ。すべてに懲りアンダーグラウンド立ちはだかる裸。野。じぶん。タ。ない交ぜ。も、知らぬが吉。知れば大凶ラーメン、シナモンふりかけや。シナモン手に持って、殺し合いたい、あなたと。てな感じに、なるんでしゃろう。
マスター。
おれはそう、脳内部で思考していた言葉のすべてを、口に出して喋ってたみたいで、気づけばここ、未來のベーガンラーメン屋は、そういやマスターのおうちだったことを、すっかりと、忘れてたかもな。
ミーアンドユー。グッドジョブ。
おれはこの終らないステージをクリアし、念願の、マスターの嫁になれるか?
香、ご期待。

続く……



Undeads 前編

2018-01-24 05:57:50 | 物語(小説)
人が何故死ぬか。それは人が、この世に全(まった)き存在と成り果てたときに、結句死ぬのではないか。
わたしはそういった考えに至り、この度、誠に、死ぬことを決意した。
これを本気で止める人間は、数人かそこらはいるだろうが、どうか逝かせて欲しい。
わたしはこの世に、未練は最早、微塵もありはしない。
つまりわたしの価値とは、既にこの世になく、向こうにある。
これはもうどう考えても、間違いは無い。
もう一度しつこいが言うけれども、わたしはこの世に一切の未練を喪ったので本気で死ぬことにした。
確かに”向こう”の世界が実際在るのかどうか、というのはこれ知りようが無い話だ。
だから直裁に言うと、わたしは”本当の絶望”なるものに至った為、今、樹海にいる。
樹海からアンドロイドで、今これを打っている。
樹でできた海とはよく言ったもので、ここは正しく樹の海の底のように、静かである。
鳥はずっと鳴いていて、樹はずっとざわめいているが、ここには人間たちが作りだすことも叶わない静けさというものがある。
彼らはわたしがここで何をしようと、決して責めるようなことはしない。
わたしの死に場所を、ここに選んだことはきっと神の想(おぼ)し召しであるだろう。
しかし先程から沸き起こるこの胸のざわめきは何か。
それは想いださなくとも良いだろうことを想いだしてしまったからだ。
樹海という場所には、決まって自殺企図者が度々訪れる為、自殺企図者を狙った快楽殺人者がよく待ち伏せているという。
わたしはもう少し奥で死のうと考えていたのだが、どうにか殺される前には死にたかったので、もうここらでええかな、と想った。
早朝に麓(ふもと)に着いてからずっと歩いてきたし、十分深奥(しんおう)だろう。
深奥で死んおう(死のう)と言った人は自分だけだろうか。
今から死ぬ、というときに、変なテンションになる人は多いのかもしれない。
取り敢えず、向こうから快楽殺人者風の人間が歩いてきたらば、わたしは想いきり奇声をあげようと想う。
一百百百百百(いっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ)ひゃっひゃっひゃっひゃあああああああっっっと叫びながら尋常ではない動きで相手に向かって、四つん這いになって走り寄っていくのである。
するともしかしたら、逆に恐れて逃げてくれるかもしれない。
しかし相手がもし自殺企図者だったらば、非常に罪深い話なので、わたしは早くに死ななければならないという焦りに囚われた。
わたしは鞄の中からロープを手に取り、ちょうど良い按排(あんばい)な樹を見つけるとひゅいっと樹の枝にロープを投げて引っ掛けた。
ロープに錘(おもり)を付けていた為、一度で成功した。
これで輪っかを作り、輪っかに頭を入れて樹を登る。
あとは登ったらロープの長さを調節して樹に括りつけ、樹から想いきりジャンプするだけで多分首の骨を折って即死か窒息死かで死ねるはずである。
簡単なものだ、自らを、絞首刑に処してやるのだ。
この世界に想い残すことなど、なんにもないのだから。
早く死んでしまおう。わたしはこの世界に、必要な存在ではない。
わたしは手にしたロープを少しのあいだ見詰めると、それを頭の入る大きさに輪を作った。
そしてその輪に首を入れ、樹をふうふう言いながら猿みたいに登った。
そして高い位置にあったロープを引っ掛けている枝のところまで来た。
こんなちょっと登っただけで、随分遠くのほうまで見渡せるものだ。
といっても樹が何本と生えているばかりで特に珍しい何かがあるわけでもない。
と、そう想ったそのとき、わたしは少し向こうのほうの樹と樹の間の土の上に見える変なものを見つけてしまったのであった。
あれはどう見ても、人のように見える。
人のような何かが、地面に仰向けになって寝ているように見える。
もしやあれは、自殺者ではないか。
わたしは自分の逝く末が、あれであるのだと想うと、それはどういうものであるのかということを見ておかなければならないという激しく苦しい強迫観念に瞬時囚われ、気が進まないものの、のそのそと輪から首を外して樹を下りた。
一体どんな状態であるのだろう、もし、酔っ払ってただ寝ているおっさんとかならどついたろうと想った。
でもこんな山奥まで来て寝ているのは明らかに不自然である。
酔い潰れて寝ていたとしても何か深い事情があるのは確かだろう。
寝ている人間の側まで来て、恐るおそる、その顔を覗いてみた。
わたしはその顔を見たとき、畏れと感動と昂奮(こうふん)がわたしの胸奥(きょうおう)を凄烈に震わせた。
これはどうして、なんという美しさであるのか。
見たところ、西洋系の若い20代後半か30代前半くらいの男であった。この顔は日本人ではない。
これほどまでに美しい人間はわたしは見たことが無い。
いやこれは既にとっくに死んでいるから人間ではないのだろうか?
これは明らかに死体であり、生きた人間では決して無いだろう。
その証拠に、この変に蒼白な肌は生きた人間の肌色とは言い難い。
さらに、わたしはその軀に触れて確かめた。
完全に死後硬直していてひんやりとした冷たい肌とその感触は生きた人間のものではなかった。
この男は、確かに死んでいる。
瞼も脣(くち)も静かに閉じて、眠っているかのように死んでいる。
この美しい男は惜しくもこれから腐乱してゆこうとしている。
何故この男はこんな処で独りで死なねばならなかったのだろう。
誰にも見つけられずに、ここで独り、白骨化してゆくのだろうか。
なんと寂しく、哀しい死に様(よう)であろうか。
わたしはこの男が、これまでどのような人生を歩んできて、自殺を実行するほどの絶望へと至ったのか、想像を廻(めぐ)らしてみた。
この男は一流会社に勤め、一流エリートとして活躍するまではそこそこ順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の人生を送ってきた。
子供の頃は気弱で本(特に神話や幻想小説系)ばかりを読んで空想にいつも浸っているような少年時代を過ごしたが知識を増やしてゆくと共に自分の魅力にようやく気付き始め、自分の魅力をみんなにわかってもらいたいという強い欲求を抱くようになって行った。
だがインテリゲンチアには甘い(うまい)話が付き物で、一番危ないのは、わたしは貴方の知識を信じている。という人間で、この男は世の実力者たちに益々(ますます)評価されたい一心でまんまと煽てられ、良かったら君の力を貸してはくれないか。君の力が是非とも必要なんだ。と言われて甘い話に乗っかった。
純真なこの男が求めているのはマネーではなく、自分が尊敬し続ける人間からの更なる評価と称賛であった。
この男は、可也(かなり)のナルシストであっただろう。
自分のすべてを信じていた。自分の行なうすべてのことが、必ず著大な評価をされるべきだという己惚れを自恃のままに信じて疑わなかった。
男はその為に純粋であると同時に愚かで、高慢であったので、男を嫌いながら妬む人間たちはある極秘の派閥を生んだ。
実力者たちが用意した甘い話とは、実は男をどん底まで突き落とすための大掛かりな謀略(ぼうりゃく)であった。
具体的にどういうことがあったのか、というところまでは想像しづらいのであるが、まあそんなところではないだろうか。
いや、でももっと、もっと哀しい話があったのかもしれない。
例えばどういう話だろうか。
わたしは穏かな顔で死んでいる男の死体を眺め渡し、またもや想像してみようと想ったのだが、ふと、”或る”異変に気付いた。
それは男の下腹部が、異様に膨らんでいるのである。
丁度、大事な処に当たる部分であるのだが、何故そんなに膨らんでいるのか、奇妙な話である。
わたしはその部分がどうしても気が気でならず、男に向かって手を合わして心の中で「許してください」とお祈りをしてから履いていた黒いスーツのトラウザーのボタンを外しファスナーを下ろすとその下のボクサーブリーフも下ろした。下ろす際に、何かがしつこく引っ掛かった。
わたしは、目のまえに起ち聳えるそれに対し畏怖と哀愁と欲情を感じ、もう一度それに向かって手を合わして深く礼拝した。
何が哀しくて、男は死んだあともこうして屹立(きつりつ)しているのであろうか。
此の世のすべてへの望みを断ち、こうして樹海にやってきたがいざ死ぬときになって、寂寞(せきばく)のなか異常な情火が男を襲い、己れを慰み(衣服の上から)ながら命を絶ったので、硬直したそれは硬直したままの男にとっての持続可能性という奇跡を生みだしたのであろうか。
わたしはそれからどれほどの時間、男の臍側に向かって勇ましく、また未練がましく立つ悲壮な凛々しきそれを凝視し続けたことだろう。
気付けばこの樹海に、夕闇が訪れていた。
刻一刻と、闇は深まって来て、止めることは最早できない。
わたしは己れのなかに流るる、情欲の血の道というものを放免する為、履いていたCUNEのうさぎジーンズを脱ぎ、ショーツも脱ぎ捨て、男の下腹部の上に跨った。
わたしは今から、自殺という一線の前に、一線というものを超える。
それは死体の男と交合するという神に背く不義と堕落の魔の道の行為である。
わたしは男の上に跨りながら、ある一つの妄想をした。
それはわたしの生涯のベスト2に入れたいほどの我が愛書、「チベット永遠の書」というドイツ人探検家の実話の訳者あとがきに書かれてあった話から膨れ上がっていった。
この本はチベットの秘境に探検家が辿り着き、そこで数々の恐ろしき現実を目の当たりにするという世にも稀有で珍異(ちんい)な前代未聞探検記の奇書である。
著者はこの本のなかでチベット密教徒たちの行う死者蘇生の秘術について、あまりの不快感ゆえに著者はここに書くことを躊躇ったということを言っており、非常に厳秘的で肝心なことを教えてくれない著者にこちらも不愉快であったが、その本のあとがきには死者蘇生の秘術の方法についてほんの少しだけ書かれてあり、著者が知り得た秘術については詳細に書かれることがなかったものの、わたしは多分にそれが呪術的な行為と同時に行なう「屍姦(しかん)」の儀式である可能性は高いのではないかと想察している。
チベットの呪術師が、死者に対し呪術的な屍姦という行為を行い、死者を蘇えらせていた可能性は大いに考えられる。
何故なら人間の性エネルギーというものは人間のなかで最も大きな霊的なる創造エネルギーであるとよく宗教の世界でも言われているからである。
これを笑う者があるなら、その者は人間の持つ能力の可能性を、自ら閉じてしまっていることになる。
わたしは確かに先程までは、自分の可能性のすべてを断つように死にゆこうとしていたが、男の死体を目にして、気持ちが変化したのである。
この男の死体はまるで、わたしに請うようにその哀しき陰茎をそそり立たせ続けているかのように想えてならないのだ。
わたしはこの男の死体を、わたしの奇跡なる能力によって、蘇えらせよう。
強く信じ続ければ願いは必ず叶うとイエス・キリストも言い続けたではないか。
その魔の能力を、自ら封じ込める必要は本当に在るというのか。
わたしがこの男の死体を蘇えらせたいと願うこの想いが、愛でなくて、なんであるのか。
そうして、わたしは男を蘇えらせる一心で祈り続けながら男の死体と交わった。
さらに、呪術的なものと言えば生き血を飲ませるなどすると、効果がぐんと上がると想ったので持ってきた剃刀で手首を切り、その滴る生き血を口移しで男の脣の間から飲ませながらわたしは男の死体と交接した。
男の凍るような冷たい陰茎は、わたしの熱(ほて)った肉体と激しい摩擦とによってあたたまり始めた。
わたしは気付くと精魂も身体も果てていて、その瞬間、猛烈な睡魔に気絶するように男の上に突っ伏したまま眠りへと落ちた。
わたしは惜しくも処女ではないもののこれまで男との性交渉で最高潮に達して果てた経験がなく、初めて果てたことに心から満たされる想いで幸せな心地の眠りの入り口であった。

夢うつつの中で、わたしは目を閉じたまま鳥の声を聴いていた。
一つの鳴声は、カッコウの声であった。
カッコウの鳴声は樹海の朝の目覚めにふさわしいと想える異界に響き渡るような声である。
そしてもう一つの鳴声は、鴉の声であった。
その鴉はカッコウが「カッコウ」と鳴くと「アワ、アワ、アワ」と鳴いていた。
わたしはこの鴉の鳴き方にいつも想うのだが、一体なにが、「泡、泡、泡」なのか。
気になるのであった。
泡がどうしたのか。
そのときである。わたしの瞼の上に、何かがぱさぱさと動いた。
蛾か何かの翅虫が、わたしの瞼の近くで羽ばたいているのであろうかと想った。
わたしは静かに、その目を開けた。
瞬刻ののち、わなないて声にならぬ悲鳴を上げた。
何故なら男がこちらを真っ黒な黒曜石のようなてらてらと黒光りする目で見詰めながら瞬(まばた)いていたからである。
この男の二つの目に、虹彩の薄い色は見当たらなかった。
瞳孔は完全に開ききっている瞳孔だけの状態の目である。
死んだ鯨のような、顔面積に対して小さい目をしており、男の目は変に優しい目であった。
わたしはかつて市販薬をOD(オーヴァードーズ)したときに、死の手前の世界と想える地面も空も灰で埋め尽くされた寂しくてたまらない世界を何時間と漂い、嘔吐したあとに用を足しに行く途中ふと壁掛の姿見鏡に映った自分の目を見てみると、その目は瞳孔が開ききっているような真っ黒い人形の目に見え、異様にその目がてらてらと輝いており自分は死んでいるのかと戦慄したことがある。
男の目はわたしのそのときの目と同じ目であるように見えた。
わたしのあのときの目は暗い部屋で見たからきっと真っ黒に見えたのだろう。
だがこの男の目は、この目こそが、本物の”その”目である。
つまり、この男の目は、人形の目である。
白い部分と黒い部分しかない目をしている。
無心の目と想える男の目を見詰め返しながらわたしは再びチベット永遠の書の話を想いだしていた。
あの本に出てくる呪術師によって甦らされたのであろう者たちは、生気と人格をまったく感じられない存在であり、その歩き方から操り人形のように異様で死人のような空ろな目をしていたという。
探検家のテオドール・イリオンはこの者たちを、「ロボットないしゾンビ、または自動人形」だと呼んでいた。
ここにきてわたしは、長時間ものあいだ男の上に跨っていたことからの腰の痛みを感じた。
なので非常に不安であるが、わたしは男から離れようと腰を浮かして、よいしょ、と言いながら離れようとしたそのとき、男の右手がわたしの腕を力強く握った。
きょとんとしたような表情は特に変わりは見られない。男はどうやらその無表情の奥に「嫌だ」という感情があるのかもしれない。
そうか、おまえはわたしと離れることを拒むということは、不満という感情がおまえのなかにあるということだろうから、そこはすこし、ホッとしたよ。
わたしは疲れた声でそう言うと男の上に腰が楽になるように横向きになって寝た。
男は重くて内臓が苦しいかもしれないが仕方ない。わたしも腰が痛いのである。
最初は男の目を見たときはその異体に怯んだが、それからじっと見詰めているとその異体さが痛々しく、美しいものに想えて男が愛おしくてならなくなり、男への愛を神に向けて心のなかで誓ったのだった。
気付けば男の身体は、人間の温かみと、その白い肌色とを甦らせていた。
男が甦ったことの喜びと安心から男の上でうとうととなり眠って目が醒めると、男はまだ同じようにわたしを邪気のない純然な目で見詰めていた。
こうとなれば日が暮れるまでに、この樹海を抜けださなくてはならない。
わたしは男の身体から起き上がって男の衣服を元に戻し、男を起き上がらせるためその手を引っ張った。
男は引かれるままに黙って上体を起こし、その肉身を立ち上がらせた。
衣服や髪の毛についた枯葉や土を払い落としてやると、地面に男の身体の下敷きになっていた黒いバックパックを見つけた。
拾って中を見てみると、男の免許証やクレジットカード、携帯電話や大量の包装シートの向精神薬、財布や手帳、ノートとペンなどがばらばらと入っていた。
今になって気になったのが、男は一体どのような方法で自殺したのだろうか?
首にロープの痕は見られなかった。薬や劇薬を飲んだような形跡は見られない。(どこかで飲んでそのゴミはその場に捨て、この場所までのた打ち回りながら這いずって来たか、普通に歩いて来てここで眠ってそのまま死んだのであろうか)
とにかくこうしていられない、この樹海を一時でも早く脱出しなくては。
わたしは男の左手を握り緊め、来た方向を想いだそうとした。
ところが、完全に、愕然とした。
見渡す限り、似たような樹木の海である。どのように来た方角を憶えていられるのか?
わたしは男の顔を、困窮の顔で見上げた。
男は薄っすらと、天使のように微笑んでいるように見えた。
一縷の望みを男に託し、男に話しかけた。
「わたしは来た道を戻りたい。おまえは憶えているよね。おまえの来た道を、一緒に戻ろう」
すると男は足をその場で踏み踏みした。
「そうだ、その調子だ、おまえの来た道を、今から歩いてゆこう」
そう言うと男はついに、足を前に出し、操り人形か自動人形のような歩き方で歩きだした。
わたしは感極まり、幾度も涙を流しながら男とこの戻れない世界であったはずの世界から、もとの世界へ戻って来ることができたのであった。
何時間歩いてきたかわからないが、わたしと男は無事にバスとタクシーを乗り継いで(わたしの鞄は失くしたので男の財布からお金を拝借した)、わたしの家に到着することができた。
家に着くと、夜中の午前二時を過ぎていた。
やけに自分の部屋が、懐かしく想えたものだ。
わたしは歓喜にうち震えるなか男を力一杯抱き締め、トイレで用を足して水をグラス一杯飲むと、疲弊のあまりベッドの上にぶっ倒れた。
という企図を脳内で作りあげ、わたしは歓喜にうち震えるなか、男を力一杯に抱き締めた。
したら男が、約30分あまりの時間わたしの身体を離そうとしなかった為、我慢していた尿を漏らしそうになった。
男はやはり、わたしの言葉が伝わっているようで、まったく伝わっていないようである。
何度も「ちょっとだけ離してくれるかな」と優しく言ったものの、男は言うことを聴いてはくれなかった。
そして次に、トイレに入って一応、鍵を閉めたのであるが、これが男は気に入らなかったのか、何度もガチャガチャとしつこくトイレのドアノブを回し、わたしが用を足し終わってトイレから出ると、男の顔が哀しい表情をして涙で濡れていたのである。
わたしは男にこのような繊細な感情があることを賛美し喜んだがそのあと男は、約一時間近くわたしを抱き締め続け、全く何をどう言っても離そうとしなかった為、男がやっと離してくれて一緒にベッドに横になった瞬間、意識が物凄い早さで遠のいたことだ。
明くる午後、わたしは至福の感覚と全身の激しい倦怠感及び筋肉痛と共に目を醒ました。
時間はもう夕方で、何故こんな胸が圧迫されるのかと想ったら、男が頭をわたしの胸に突っ伏す状態ですやすやと子供のように眠っていたからであった。
それにしてもこの至福の時はなんという素晴らしさであるだろう。
まるでわたし自身も、男と共に甦ったような心地であった。
もしわたしが、男の死体を見つけなかったなら、もし男の死体が、わたしに見つけられなかったなら、わたしたちは共にあの樹海で腐敗してゆく運命であったのである。
わたしはそっと起きて男のバックパックのなかに入っていた免許証をもう一度よく見た。
名前はデニス・バーソロミュー(Denis Bartholomew)、年齢はわたしより7歳下の29歳、住所は都心に近いここから電車とタクシーで一時間あれば着くようなマンションだった。
財布のなかには名刺が入ってあり、会社はネットで調べたところどうやら新しい次世代パーソナルコンピュータを開発している会社のようだった。
ブラック企業だという噂もネット上には見当たらないし、技術者と言える有能な人材ばかりを集めたパソコン開発企業に勤めながら彼は一体何に絶望したのだろうか。
未来のコンピュータはどのようなものなのだろうか。パソコン開発というだけで皆わくわくして社員たちが働いているようなイメージがあり、わたしは漠然とした悲しみを感じた。
親や兄弟たちはいるのだろうか。恋人はいなかったのか。結婚して子供がいてもおかしくない。
でも住んでいるマンションは広めのワンルームのようだから、ここで夫婦や子供と一緒に暮らしているのはあまり想像できない。
わたしは免許証を眺めながら、そこに映っている几帳面で神経質そうでありながらも慈悲深い表情をしている写真の彼と、今わたしのベッドにまるで幼児のように眠る男が同一人物であるとはとても想えないのだった。
それは彼が”死体”であったときに、既に違うようであったと想いだす。
わたしは彼の隣にまた寝そべり、そのあどけない寝顔を見詰めながらこの男に、新しく名前をつけてやろうと想った。
彼にふさわしい名前、それは・・・・・・そこでわたしは、ふと聖書の言葉が浮かんだのであった。
それは出エジプト記の3章14節の聖句である、「わたしはなる、わたしがなる者に」というところだった。
これは神がモーセに対して告げた言葉であり、「わたしは何であれ自分の望むものになる」という意味であるとされている。
つまりこの訳が正しければ、神はモーセに、「わたしとおまえは同じである。おまえの望むものはわたしの望むものであり、わたしの望むものはおまえの望むものである」と言っているようなものなのである。
これを言い換えると、「わたしとおまえは同じものとなる。おまえの望むものはわたしの望むものとなり、わたしの望むものはおまえの望むものとなる」と言える。
そしてこの、「なる(生る、成る、為る)」という意味は、同時に「ある(在る、有る)」という意味が必ずあるということにわたしは注目した。
すなわち、「なる」は「ある」になり、「ある」は「なる」である、ということを意味しているとわたしは想ったのである。
ということは、「ある」よりも先に、「なる」があったかもしれないという面白い矛盾がそこに生じるので、その矛盾こそが、真理的に想えるのであった。
さらに、「ナル」とは、同時に「ナイ」ことではないかと想ったのは、「Null(ヌル)」というプログラミング言語で「なにもない」を表す言葉の英語の発音が、「ナル」であることから考えた。
このことから、「ナル」という言葉は「ある」という意味と「ない」という意味が同時に含まれている言葉であるのかもしれないという結論に達し、さらに、ナルシスの語源となったギリシア語のラテン語表記である「Narkhv(ナルケー)」には”昏睡、死、無気力、無感覚、麻酔、麻痺させる”という意味があるということを想いだし、「ナル」は「生る(ある)」という意味でありながら同時に「死」や「無」の感覚を意味しているという一つの言葉で対の関係性を表している言葉であることに気付いたのだった。
わたしのいま目のまえにいるこの男は死者なのか生者なのか、そのどちらでもあるのか、それともそのどちらでもないのか、と考え、今のところ、一番近いのは”死んでも生きてもいない”という状態であるのではないかと想い、在ると同時に無いという意味を持つ「ナル」という言葉に、同時に”在ることも無いこともない”という意味があると感じたので、この男に最も相応しい名前であるだろうとの想いから男の名を、「ナル」と名づけることとなった。
名前が決まったことにホッとしたので、わたしはもう一眠りすることにしたのであった。
わたしが次に目を醒ますと、男が真っ黒にキラキラと光る目でわたしをじっと見詰めており、その顔はどこか爽やかそうであった。
瞳孔は開ききったままの、瞳孔だけの目であっても、わたしはその目に癒され、その目に安心を覚えたのである。
わたしは男に向かって「おはよう」と言って微笑んだ。
男は何も返さないがどこか嬉しそうな顔をした。
「おまえの名を決めたよ。おまえの名は今日から、”ナル”。この名はとても深い意味が込められているんだ。どういう意味かというと、おまえの望むすべてが、おまえの望むとおりに”なる”という意味が入っているんだよ。そうであってほしいという願いを込めて、わたしはおまえを今日から、”ナル”と呼ぶよ。気に入った?ナル」
ナルはわたしを見詰めて瞬きをするばかりで、口角は微妙な笑みを湛(たた)えていた。
そのミステリアスな微笑はわたしの最も望む母性と父性のバランスをちょうど伏在(ふくざい)させているかのような笑みに想えたのであった。
わたしは胸の底があたたまる幸せな心地でナルと見詰め合っていた。
すると、ナルはすこし口元を引き締めるようにして鼻の穴も若干膨らませた。
わたしはどうしたのだろう?と想っていると、その瞬間、何かが噴出すような音がナルのところから聞え、次には仄かな赤ちゃんの糞便のような臭いが漂ってきたのだった。
ナルの顔は先程よりも益(ま)して、爽やかそうであった。
なるほど、なるほど、そうゆうことであるか。
わたしはナルの頭を撫でてやり、布団を捲(めく)って、彼の汚れた衣服を脱がせて丸裸にした。
彼は柔らかい糞便だけではなく、小便もしっかりと垂れておった。
衣服はもう、ナルの軟便を拭ったあと袋に詰めて捨てることにした。
彼は生まれ変わったのだから、同じ衣服を着る必要は最早ない。
わたしはナルの手を引いて、風呂場に向かい、わたしも服を脱いで二人で風呂に入った。
湯船にゆったりと二人で浸かっていたとき、ナルは気持ちが良かったからかまたも二度目の脱糞を行なった。
ナルと二人で湯船から上がり、栓を抜くと彼の糞便は水と共に、排水溝の奥へと流れて行った。
わたしはその様子が、非常に愉快であった。
彼の身体を洗ってやってると、彼の局部が元気になってきたので、それを打ち眺めているとわたしは昨日のことを想いだした。
たった昨日の出来事が、遠い昔に想えるのは何故か。
昨日、わたしが自殺の実行をしていたなら、わたしもナルもここにいないのである。
ナルはわたしを抱き締め、発情した雄犬のように下腹部を擦り付けてきた。
興奮と共に気が焦り、素早く彼の生殖器を、自らの生殖器の穴のなかへと挿し込んだ。
絶対に、彼の精液を外に放出させてなるものかと逆上して凶暴な感情になり、彼の尻を鷲摑みにして絶対に離すものかとその爪を尻肉に食い込ませながら行為に及んだ。
そしてその行為は、約30分以上続き、オルガスムスの脱魂するかのようなエクスタシーは延々と続いた為、わたしは快楽と同等の精神的な重苦に同時に襲われ、「消えてしまいたい」という感覚に陥った。
ナルはやっと力尽き、わたしを抱いたまま風呂場の床にしゃがみ込んだ。
わたしも貧血状態になったがナルも顔が蒼白になって苦しげに喘いでいたので可哀想でならなかった。
昨日に生殖行為によって、ナルを恰(あたか)も生まれさせ、そのたった次の日に早くも生まれてから初めての生殖行為を行わせてしまったことが哀れでならなかったのである。
ナルは身体こそ成人であるが、その意識状態は、成人のものとはとても言えないであろう。
いやその前に、ナルは人間と言えるのか。
人間とも言い難い存在とは、まるでまだ人間の形だけをして魂の宿っていない胎児のようなものではないか。
わたしはここに来て漸(ようや)く、ナルに対する過ちの意識と、彼と共に神から下された堕罪の苦しみを覚えたのであった。
ナルはそんなわたしの苦衷(くちゅう)も察することなく、わたしの乳首に興味を覚えたのか、乳首を弄ったり甘噛みしたりして遊んでおった。
わたしは起き上がってナルの手を引き、身体を拭いてやって風呂場から出て水を飲ませてシーツを換えたベッドに寝させてやった。
そして服を着てパソコンに向かい、ネットアパレルショップで黒とグレーのTシャツ4枚組セットと、グレーのシャツとチャコールのニットカーディガンとダークグレーのニットセーターと、黒のアンクルパンツと黒のテーパードデニムとブラウンのコーチジャケットとダークグレーのボクサーブリーフ5枚組セットと、セール中のグレーの靴下6枚組セットを、金欠なので仕方なくデニスのクレジットカードで注文した。
振り返るとナルは精根尽きてか、静かにうたた寝をしていた。
この時、樹海へ向かってから初めての空腹を覚えた。
家にあるのは白米とパスタくらいだったので白米を洗って炊飯器に設置して炊飯ボタンを押した。
こないだに、わたしはデニスの職場へ電話をかけた。
受付の男性が電話に出ると「そちらで働いているデニス・バーソロミューさんに繋いでもらえますか」と言ってみた。
男性は「少々お待ちください」と言って電話から離れ、少し経って戻ってくると「デニス・バーソロミューという社員は三ヶ月ほど前に自ら退職しており、現在この会社のどこにも所属しておりませんが・・・」と返ってきた。
わたしは「そうですか。ありがとうございました」と言って電話を切った。
自ら退職している、一体デニス・バーソロミューに何があったのだろうか。とりあえず仕事は辞めているので職場からの捜索願は出されることはないだろうからそこは安心した。
残るは友人、恋人、家族などからこの先捜索願を出された場合、やばいという問題である。
わたしがまるで自殺に失敗して白痴になってしまった男を誘拐し、監禁していると加害者扱いされるのではないか。
ここでわたしが彼らに「いや、誘拐したんとちゃいますがな、あのね、彼はね、わたしが見つけたときはもう死体だったんですよ。それでね、わたしがね、ちょっと秘術をあれしてね、彼を甦らせることにこれ成功したと、こないなわけだんねん」等と必死に弁明し説得させようとしても、わたし自身が閉鎖病棟に監禁される羽目になるであろう。
頭のおかしくなった彼をただ連れて帰ったと想われたならまだマシで、彼の頭をおまえがおかしくさせたんとちゃうんかと想われたらこれは厄介である。
彼はどう観ても、普通じゃない、特に彼のその目は、人間の目でもない。目の病気で目が瞳孔だけになる病気はあるのか知らない。
とにかく、わたしが恐れているのはわたしが彼らに変態性的嗜好者等と疑われることではなく、彼をわたしから奪われることである。
わたしは何があっても彼を奪われたくはない。わたしは彼の可愛い寝顔を見詰め、「ナルだって、そうだよね」と話し掛けた。
デニス・バーソロミューという男に、たぶん恋人はいなさそうだとわたしは想った。
多分いても、「てめーはよぉ、価値があんのはその顔だけだろ、顔以外、趣味は最悪だしくだらねえしよー、何が初音ミクだっ、話もつまんねーし、セックスは度下手だし早漏だし、てめー生きてる価値あんのかよー、死ねや、このghost faceがっ(白人を差別する用語)」等と言う女だったのではないか。
愛した女が、突如原因不明の粗暴で野卑な人格に豹変し、この世に絶望して死にたくなったのかもしれない。
あるいはこういう恋人だったのかもしれない。
「もう限界が来ました。本当のことをあなたに言います。あなたの身のこなし、ちょっとした仕草、ボディーランゲージ、何から何まで、女性的で柔らかくて、オカマ的で気色が悪いのです。わたしはもっと、上品だけれども男らしさの漂う、クールでニヒルのなかにもワイルドさを仄かに醸しだしデモニッシュ的かつディオニュソス的な男が好きなので、明日から約半年間地獄経験をこれでもかと言わんばかりに経験し、わたし好みの人格に生まれ変わる為に、中国の強制収容所で働きに行ってもらえませんか?それが嫌なら仕方ありませんね。未来永劫、無縁の関係となって戴きます」
こういった言葉を、「あなたを愛している」と今まで何度と言ってくれた天使のように美しく優しい微笑の顔で言われたので、男はその瞬間、”空”の境地に至ったのかもしれない。
または、デニスは同性愛者で、恋人の男が浮気をし、その浮気相手が自分の父親だったので死にたくなったのかもしれない。
ある晩、親父に旨い酒を持って行ってやろうと親想いの親切なデニスは、実家に赴くと、そこには髪がぼさぼさになって服を前と後ろ、逆に着ている親父が焦った様子で迎えて、その後ろから自分の恋人が同じく狼狽した様子で出てきて、「なんで君が、親父のところにいるんだよ」とデニスが言うと、明らかに言葉を探しながら「いやちょっと、おまえの親父さんに相談があってよ」などと引き攣った笑顔と震えの止まらない口許で言われて。
デニスが走って親父の寝室に行くと、ベッドの上には、恋人の長い栗色の髪が数本抜け落ちている。
よく観ると、その栗色の髪は、親父の白髪と、絡み合い、縺れ合っていた。
デニスの死を、誰が、止めることができるのであろうか?
最早、誰の「死ぬな」の言葉も、彼には届くまい。
逝くならば、逝かせてやろうデニスギス。
誰もがそう想うに違いない。
それ以外の万事がうまく行っていても、たったそれ一つのことだけで彼は奈落の底の底まで堕とされるのである。
その前に、彼の親父が死んでいてくれていたほうが、ずっと彼は幸福だっただろう。
哀れな男デニス。彼の一生は、一体なんだったのか。
何の未練も、きっとなかったのだろう。この世界に。
でももう大丈夫だ。彼の全ては、もう終った。
彼が生き返って、今ここにいるわけではない。
わたしが甦らせようとしたのは、彼ではない。
あそこにあったのは、彼ではなく、一つの鋳型(いがた)とダイカスト (die casting) のようなものだ。
ダイカストとは、金属製の鋳型に、溶かした合金を流し込んで器物を大量生産させる鋳造(ちゅうぞう)方式(方法)、またはその方法によって製造された製品のことである。
わたしがそのダイカスト法でもって、わたしの切実なる願いの熱く溶けた合金を彼の死体なる鋳型に流し込み、今ここにいる男、ナル(ダイカスト)を生産させたというわけだ。
”Die”という綴りは”死”という意味と”鋳型”という意味があるということは、死を裏付ける死んだあとの身体である死体というもの自体にも鋳型の意味が隠されているはずである。
聖書の創世記では、土(塵)で作りあげた男の型に神が息を吹き込んでアダムという人類最初の人間が創られた。
神が息(魂)を吹き込む前のその男の人型のものはまるで死体と同じものであっただろう。
そうであるならば、魂の抜けでたあとの死体を基に、神が再び別の魂を吹き込んで人間を創りだすことができないはずはないであろう。
わたしはこのダイカストと死の繋がりを知る前に、その繋がりを寓喩(ぐうゆ)しているかのような夢を見たことがあった。
その鋳型には、自分であって自分ではないという存在が拘束具によって拘束されており、それをわたしは中空から見下ろしていた。
その鋳型に、自分を嵌め込んで作り上げ、苦しく痛い幾つもの頑丈な拘束具で拘束したのはわたしであったはずだ。
新たに誕生した喜びというものを覚える暇もないほど、わたしは誕生する為に必死であり、失敗してはならないという緊張で絶えず高揚していた。
このとき、ピーッピーッピーッピーッピーッという「ご飯が炊けましたよー」という合図のビープ音が廊下で鳴り響いた。
あ、もう炊けたんや。しばらく思念の海底でもぞもぞしていたので、あっという間に時間が過ぎたようだ。
炊飯器、電子釜、電子ジャー、というダイスカットのその取り外しの利く内釜という鋳型のなかに、白米という魂を注ぎ込んで出来上がった出来立てほやほやご飯を、わたしはさっそく杓文字で混ぜに行った。
そしてこれで大き目の塩握り飯を二つ拵え、海苔を巻いた。
ちょうど、その握り飯を部屋まで持っていくと、わたしはナルとぱちくりと目が合った。
「ナル、起きたん」わたしはベッドで横になっているナルの身体を起こし、抱き締めようと想ったが、抱き締めるとまた数十分と離してくれないかもしれないと想ったので、頭を撫で撫でするだけにして、ナルに握り飯を手渡した。
わたしが目のまえで握り飯を食べると、ナルもそれを真似して食べてくれた。
こうしてすぐに真似をして食べることができるということは、ナルは幼児並か、それ以上ということだろう。
水を入れたグラスを二つ持ってくると、ナルは水も真似して飲むことができた。
食物を食べることができる、水も飲める、排泄もまだお漏らしだが問題はなくできる、風呂も嫌がらない、大丈夫だ、生きてゆく上での必要最低限なことはなんとかできる、わたしたちは、生きてゆけるだろう。
あとは二人が生きていくための生活費をどうするかである。
わたしは男の手帳やiPhoneを隈なく調べた。
どこかに、暗証番号は無いか?カードの・・・。
暗証番号さえわかれば男の銀行に貯蓄してきた死に金を確認して生活費として月に12万円でも引き落としてゆけるなら、なんとか二人で貧しいながらも生活してゆくことは可能だ。
もしそれが無理でも、わたしは長年の慢性的な鬱症状という精神障害を患っているため、生活保護を受けるなら二人で内緒に生きてゆくことも可能なはずだ。
男のiPhoneのアプリフォルダの2ページ目にあったメモアプリ、パスワードらしき羅列を発見した。
わたしはそのパスワードをアプリを隠すことの出来る機能制限という設定のパスワードに入れてみると、先程はなかったメモアプリが出てきたのでそれを開いてみると、そこには暗証番号らしき4つの数字が三つ書かれてあった。
これが何かの暗証番号だとすれば、暗証番号のメモを残しているということは、暗証番号を最近変えたか、男は健忘症のような症状があったのかもしれない。
しかしここで初めて、これがカードの暗証番号で、男の貯蓄を毎月引き落として男と一緒に生活した場合、わたしは何かの刑法に触れるのではないかという懸念が沸き起こってきた。





















Undeads 後編

2018-01-24 05:57:40 | 物語(小説)
男の住んでいたマンションは多分賃貸であるだろう。ワンルームマンションを購入する人はいるだろうが、多分少数派ではないか。すると毎月支払わねばならない家賃を払わないでいると当然家主や管理会社の人間が何度もインターフォンや電話や張り紙なんかで知らせようとし、それでも払わなければ勝手に鍵を開けて部屋の中を捜索する。
おい、バーソロミューはん、おりませんやんけ。となって連帯保証人であるだろう家族の誰かに連絡が行くはずだ。
すると家族がデニスの行方を探し回り、果てには警察に捜索願を出すであろう。
そうなっては大変まずい。つまりわたしはデニスの借りている部屋の賃料を支払い続けてゆくか、あの部屋の賃貸契約を解約せねばならない。
解約となれば、本人でなくどこの人間かもわからないわたしが行なうことはできないはずだ。
ってことは、わたしはデニスの部屋の賃料を払い続けて行かんければ、最悪、ナルと引き離される可能性が出てくるということである。
男のマンションの相場を調べてみると、ちょうど隣室が開いていて、そこは意外と安い管理費含めた137,000円であった。
35階建てマンションの34階、築22年、11畳のリビング兼ベッドルームは2畳のキッチンと小さな壁で若干仕切られているものの空間的には一緒になっていてドアで仕切られていない為良い間取りとは言えない。この間取りは絶対におかしい。何故なら一人暮らし用の冷蔵庫の煩さを少しでも考慮するならベッドルームとキッチンをドアで隔てない間取りなど作らないはずだからである。(しかしガスコンロが3口もあるというのは素晴らしいにも程がある。デニスは自炊をしていたのだろうか)
キッチンの奥のスペースはSto.と小さく書かれていて、これはStorage(ストレージ)の略で、倉庫・貯蔵室・納戸のことであるようだ。貯蔵室があるワンルームマンションなど、便利ではないか。
しかしこの間取りを設計した人間というのは、人間がどうすれば少しでも心地好く暮らせるかということをやはり完全には頭に入れていない人間である。キッチンとリビング兼ベッドルームは、必ずドアで仕切るべきだ。
しかしここにわたしたちが住むと決まったわけじゃなし、どうでもええことに頭を悩ませてしまったではないか。
男の収入を想像するともう少し良い部屋に住めそうに想うが、デニスはきっとこの場所、この部屋が気に入ったのであろう。
冷蔵庫の稼動するブイーンブイーンという音にストレスを抱えながらも耐え忍んで暮らしていたのかもしれない。
わたしはデニスが住んでいた部屋を見に行きたくなった。一体どんな部屋の中なのだろう。男の持っていたバックパックの中身をすべて出し、鍵を探した。するとバックパックの外の小さなポケットの中に鍵が入っていた。
鍵は一つだけだ。良かった。デニスは多分車を持っていない。もし車を持っていたなら駐車場代やらで余計支払費が嵩んでしまう。
デニスの住んでいたマンションまで電車とタクシーで一時間もあればたぶん着く。
そうだ、ナルのために注文した服が届いたら、すぐに行ってみよう。
早くて明日着くかもしれない。
わたしは想いついて急いでナルの不自然な黒い目を隠すためのAmazonで薄いブラウンの色が入ったサングラスを注文した。
これも明日届けてくれるようだ。
わたしはさっきからナルが裸ン坊のままでいることが気になってはいたが、特に寒そうにしている様子は見受けられなかったので、お腹だけは冷えないようにブランケットを腰に巻いてあげて、あとはそのままにしておくことにした。
ナルはずっとずっとわたしをきょとんとした澄んだ眼差しで見詰めている。わたしが動くたびにわたしを目で追う。
たぶん、何も考えていないに違いない。いや、ずっと何かを考えているのかもしれないし、錯綜な意識が渦巻いていてもおかしくはないのだが、その意識や考えや彼の言語というもの自体が人間のそれとは種類の違うもので、彼はやはり人間的なのはその肉体と習性、本能といったものだけで、それ以外が人間ではない人間離れしたもののように感じられて、わたしはそれがどこまでも清々しく、それがわたしを幸せにするのだった。
わたしはナルの目と合わせるたび、胸がときめいて、ドキドキとしてナルに恋をしていることは確かであるのだが、ナルへの恋は神に背く行為であるのだと感じていた。
なので近づいて触れたい想いが募れば募るほど近づくことが苦痛であるわたしがいて、その為、こうして少し離れたところから御見合い結婚で結婚した新婚夫婦のようにちらちらと目を合わすことしかできないのであった。
嗚呼、恋。これが本当の恋というものであるのだろうか。彼を愛するあまり、彼に触れることが苦しみに変わるのである。こんなことは小説のなかで何万回と言われているのかもしれないが、そうか、これが真の恋なのか。わたしはこの歳でやっと真の恋を知ったのだと、そう想って、あんまりその恋が胸を苦しくさせたので、ちょっと残っていた赤ワインを、キッチンで飲んだのである。
すると、視界から消えたまま戻らないわたしを心配してか、ナルは不安そうな表情になってキッチンへ歩いてやってきた。
その歩き方というのは、ちょうどハイハイから立ち上がって二足歩行ができたばかりの幼児の歩き方に似ていた。
これが、本物の小さな幼児であったなら、あー可愛い可愛いなあーと想いながら抱き上げることもできるのだと想うのだが、彼の場合、幼児のようでありながら成人のようであり、成人のようでありながら幼児のようなのである。その彼が、廊下と居間の段差のある敷居を跨ぐ瞬間に、彼の頭の後ろに後光が見えたように感じ(ただの逆光であったかもしれないが)、その眩き神秘なる存在にわたしは一種の恐れを感じた。
わたしは近づいてくる彼に対して後退りし、玄関ドアのところまで逃げ、追い込まれて、ふうふうと息を荒げながら彼と壁の隙間をすり抜けるように走って居間に逃げ込んだ。
するとナルはそれにショックを受けてか、居間に戻ってくると涙を嗚咽しながら落としだしたのでわたしはナルを力一杯抱き締めると、ナルもわたしを想いっきり、苦、苦しい・・・・という力強さで抱き締め返し、その後、立っている力も尽きて床の上にずるずると落ちたわたしをナルは夜明けが来るまで離してはくれなかったので、わたしはナルに抱かれたままその疲労から何度と意識を失ったのであった。これが、本当の本当の恋、嗚呼、そういえば、うちの姉が「子供ができると、まるで子供に恋をしているような気持ちになる」とかって、ゆうとったよなあ、と想いだしながら。
胸のなかがあたたまりながら縄で締め付けられるように、幸福であり、苦しかった。

インターホンのチャイムの音で、わたしは目が醒めた。
宅急便かっ、わたしは慌ててベッドから飛び起きてインターホンに出ると望み通り宅配便であった。
服一式とサングラスが同時に届いた。
時間は昼を過ぎている。わたしが居間に戻ると、ナルが起きていた。
また不安そうな表情をしてベッドの前に突っ立っていた。
わたしはナルの手を引いてトイレに行き、ナルをそこに座らせた。
どうにかトイレで排泄をさせたい。昨日漏らしてからナルは排泄をしていないだろうから、きっとものすごく我慢している状態に違いない。
わたしはナルの排泄欲を促すため、彼のお尻の穴を後ろから手でマッサージしてやった。
すると驚くほどに、彼は途端に迸るほどの糞尿を排泄したのだった。
わたしの感動は凄まじく、彼の排泄器官から流れ出る糞尿が神の流す金色の涙の如くに想えたことだ。
彼のお尻を拭いてやり、さっと二人でシャワーを浴びると早速、届いた服を彼に着させてやった。
グレーのシャツの上にチャコールのカーディガン、下は黒のアンクルパンツ、グレーのソックス姿のナルは、とても好青年に見える。
届いた薄いブラウンの色の入ったレンズのグラスをかけさせてみると、怪しくなるだろうかと想ったが案外御洒落で似合っていた。
握り飯をまた二人で食べ、彼にブラウンのコーチジャケットも着させ、わたしとナルは往来へ出た。
まずは近くのコンビニのATMでデニスのカードからお金を下ろせるかやってみる。メモアプリにある暗証番号を順番に打つと二回目で通った。
残高は、ゼロが7つの、10000,000円、1000万円・・・・・・ちょっきし入っている!
カードは三枚あったので、他の二枚のカードも暗証番号を入れてみた。
何度も試してやっと暗証番号が一致し、残り二枚のカードにも同じく1000万円もの金額が入っていた。
ということは、デニスの貯蓄3000万円を使えるということか・・・・・・。
わたしはその金額の多さに忙然としたが、ここで長々と突っ立っているわけにもいかないので、とりあえず20万ばかしだけを下ろし、一応お握りやお茶、それと札を入れる封筒なんかをレジで購入してコンビニの外へ出た。
そしてお金が少なければ電車とタクシーでデニスの家に向かおうと想っていたが、それはやめて、タクシーだけで行くことにした。
多分片道4千円ほどで行けるはずだ。
タクシー会社に電話してコンビニの前のベンチに座ってナルと待つことにした。
ナルにペットボトルのお茶を最初は自分が飲んで、次にナルの口元まで持ってってやるとナルはそれをごくごくと飲んでくれた。
あんまり飲ませすぎてタクシーの中でお漏らしするとやばいので少しだけにしておいた。
ナルはわたし以外に興味がまだ持てないようでじっとわたしの目を横から見詰めてくる。
すべての記憶を喪った人間もこんな風に、目を醒まして初めて見る相手を親だと想って愛を求めるものなのだろうか。
本当はナルにもっと素晴らしい場所へ最初に連れてってやりたかったが、ナルはわたし以外をまったく観ようとしないため、連れて行っても意味ないんかなと想って、デニスのマンションへ直行することにした。
西日が目に眩しく、タクシーは本当にわたしたちのところに来るのだろうかと想った。
15分ほど経過して、タクシーは到着した。
わたしはナルの手を引いてタクシーに乗り込んで、メモしておいたデニスの35階建てのマンションの住所を運転手に伝えた。
無口な運転手は何も言わずタクシーを走らせた。
流れてゆく景色を最初のうちは窓から眺めていたが、何の面白みも感じられない景色ばかりで、また西日が強くてつらかったので観ているのも億劫になりわたしはナルの肩へもたれて目を瞑った。
目を醒ますと、タクシーはマンションの前に着いていた。
わたしは料金を払い、ナルと一緒にタクシーを降りた。
運河のそばの歩道は広く、その道路際に建っているデニスの住んでいた高層マンションが西日に照らされて美しい景観を作りだしていた。
誰かが部屋に居ないことを祈って、わたしはナルの手をぎゅっと握り締めてオートロックのドアをデニスの鞄の中に入っていた鍵で解錠し、広い高級感溢るるエントランスを通り抜けエレベーターで彼の部屋のある34階まで上がった。
エレベーターが34階に着いて、わたしとナルはデニスの部屋の前に立ち、緊張と不安のなか、その白いドアの鍵穴に鍵を差込、解錠せしめ、震える想いでナルと共にデニスの部屋の中へと入った。
入ってすぐ、たたきには靴が一足もなかった。ということは、部屋に誰かがいる可能性はこれは低いのではないか。玄関のたたきに靴を脱がない人間とは強盗か外国人くらいであろう。
もっとも、デニスはアメリカ人でアメリカ人の友人や恋人や家族が靴を脱がずに上がりこんでいる可能性はこれは十分に有り得る。
わたしはほっとした瞬間また不安になり、それでも一応靴は脱いで、ナルの靴も脱がせて(ナルの靴はデニスが履いていた靴である)わたしたちは恐るおそる、廊下を進んで突き当たりのドアをそうっと開けた。もし誰かに会ったなら、こう言うしかないと考えていた。デニスは何故か事故にでも合ったのか、記憶をまったく完全に喪失してしまっている。あなたは誰ですか?デニスのなんですか?彼女?まさか。わたしがデニスの最も愛する女ですよ。マジっすよ。数えきれないほど、デニスと寝た女ですよ。日本人は嘘をつかないんですよ。っていうのがまあ、大嘘なんですけれども。たはは。たはは。と笑って誤魔化す。そうするしかないだろうと、わたしは他に良い考えがてんで浮かばないのであった。
白い木目調のドアを静かに開け、わたしは部屋を見渡した。
大きな窓が奥と右側に合計三つも在る。そのすべてにブラウンのブラインドが掛かっている。左側にベッド、右側には小さな円形のカウンターテーブルとチェア一脚、デスクとデスクチェアとデスクの上には大きな液晶のパソコン、二人掛け用のソファ、水母(くらげ)っぽい形のサイドテーブル、姿見のミラー、木のシェルフには本が並んでいるのが見える。寝具やラグや間接照明ランプやヒーターなるもののそのすべてダークブラウンで色を揃えていて白い壁と薄い色のフローリングに色が冴えている。デニスはかなり几帳面な性格だったのだろう。そして木や土の温かみというものを強く欲していたに違いあるまい。11畳はさすがに広々としているなあ。とわたしはその片付いて整頓された綺麗でミニマルな部屋を打ち眺め渡した。心和む植物やペットもない。壁に何一つ貼られてもいない。
はっとまだ確認していない空間を想いだして、わたしは左の奥まったスペースにあるキッチンを覗いた。
幸い、そこにも誰かがいて「おい、誰なんだよ」という意味の言葉を英語で「Hey, who is it?」と言われることもなかった。
良かった・・・あとはトイレとバスルームと、ストレージを確認したほうが良いだろう。
わたしはナルをその場に残してあとの三つの空間を誰も居ないことを確かめた。
誰もわたしに向かって、驚愕した顔で「Hey, who is it?」と言うことはなかった。
もしトイレやバスルームを開けて、下半身丸出しか、または全裸の状態で「Hey, who is it?」と言われても、わたしはどうすれば良いのかわからずに、無言でドアを閉めざるを得なかったであろう。
良かった。本当に良かった。この部屋には今、わたしとナル以外存在していないようだ。
デニスは自ら命を絶つほど絶望のどん底に生きていたであろう人間だから、この部屋に彼を心配して尋ねてくる人ひとりいなかったのかもしれない。
考えれば考えるほど、デニスの存在が哀れに想えるのだった。
普通ならこんなええところに住んで、ええところに勤めてて、アメリカ人で顔はHottie(イケメンツ)で美しく身長もそこそこ高いし、胸毛と臍下の毛もちょっとだけ生えていたし、もて過ぎて困りますねん、たはは。ぱ・は・は・の・は。とか笑って生きられそうな人間でありながら、何ゆえ、何故にデニスは絶望し切って死というものを打ち求め、Kill oneself(自殺をする)を実行に移したのであろうか。
バルコニーからの眺めはさすが、高層ビルが運河の間に建ち並んでおり、その真ん中をリバースブリッジという橋梁(きょうりょう)が猛々しくも聳え立つ絶景であった。だがその大気は光化学スモッグで霧がかっており、大気汚染を感じずにはいられなかったので夜に限定して観たい景色である。
わたしはとりあえず、この部屋の真ん中でナルと突っ立っているのも何か居た堪れない想いになってきたがため、少し、落ち着こうと想ってナルの手を引き寄せてデニスが何度と座って寛いでいたであろうソファーに座って背を「ふうーっ」と息を吐きながらもたせた。
座った途端、ナルが、デニスの記憶を取り戻し「どうもわたしを甦らせてくださいまして大変ありがとうございます。わたしは本当にあの時、死んだと想いました。いや、想っただけじゃなく、実際死んだのです。それがあなた、あなたが、このわたしを甦らせてくださったと、こういうわけで間違いありませんか。あの時、立っていて、本当に良かった。この御恩は、一生忘れやしませんよ、ええ、本当ですよ。良かったら、一杯どうですか。紅茶でも淹れましょうか。それとも、ワインを持ってきましょうか」などと言いだしはしないよな、と右に座ったナルの目を見詰めながらひやひやとして落ち着けなかった。
もしくは、デニスの変なところだけ想いだして今日からアナルセックスとかを強要されても嫌だなと本気で想った。
アナルセックスは厭だ・・・いくら無邪気に可愛い息子のように甘えてくるナルに強要されてもそれだけは、勘弁だ。
しかしデニスは可なりの変わり者であったのではないか。
本棚を見てみると「聖書」とか、ジョージ・オーウェルの「1984」とか、ジョン・アーヴィングの「サイダーハウス・ルール」とか、ハヴロック・エリスの「夢の世界」とか、ウィリアム・バロウズの「裸のランチ」とか、フィリップ・K・ディックの「ヴァリス」とか、マルキ・ド・サドの「ソドム百二十日」とか、ドストエフスキーの「白痴」とか、アンドレ・ジッドの「背徳者」とか、町田康の「どつぼ超然」とか、ルソーの「孤独な散歩者の夢想」とか、「ペロー童話集」とか、ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」とか、「アミ小さな宇宙人」とか、ノヴァーリスの「青い花」とか、Yukio Mishimaとか、Soseki Natsumeとか、「マラルメ詩集」とか、フロイトの「性と愛情の心理」とか、フリオ・コルタサルの「悪魔の涎・追い求める男」とか、ロートレアモン伯爵の「マルドロールの歌」とか、孟司, 養老とか、セリーヌの「夜の果てへの旅」とか、ヴィクトル・ユーゴーの「死刑囚最後の日」とか、ゴーリキィの「どん底」とか、「息子ジェフリー・ダーマーとの日々」とか、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの「ジーキル博士とハイド氏」とか、ユングとか、ニーチェとか、バタイユとか、フーコーとか、トルストイとかヘッセとかカフカとかリチャード・ブローティガンとかエドガー・アラン・ポーなどが並んでいた。
とにかく全ての本をちゃんと読んでいるのかどうかもわからないが、デニスは色んなことを知りたがり屋で、好奇心に溢れた文学青年であり、知識に飢え切った餓鬼の如くにあらゆる書物を読み漁っていたのはこの書棚を見ただけでもわかるものがあるのだった。
デニスは一体なにを求めていたのだろう。何をこの世に乞い求めながら独りで寂しく死んでいったのだろう。
彼の”遺書”は、この部屋に存在しないのだろうか。
わたしは尿意を覚えたので、その前にナルをトイレに連れてってやり、お尻のマッサージを施してやるとナルは気持ち良さそうな顔で放尿したのでわたしも安心して嬉しかった。きっとこれを何度と繰り返していればナルはそのうち一人で排泄行為ができるようになるかもしれまい。
わたしは彼をトイレの外へ出して用を足したかったが、またうるさくドアノブをガチャガチャいわされて壊されたりなんかしたら厭だったので、仕方なくドアを開けたまま着ていたチュニックで股間を隠すように素早く用を足してトイレから出た。
ナルと自分の手を洗面所で洗い、もう一度バスルームや洗濯機のなかや、シューズボックスのなかを一応確認した。
洗濯機のなかは残念ながら空(あったとしても特に手掛りになりそうではないが)で、シューズボックスのなかにはブルーのシューズと黒のスリッポンがあった。
そういえばデニスはスーツを着てブラウンのビジネスシューズを履いていたが、なんで仕事を三ヶ月前に辞めているのにそんな格好で樹海へ向かったのだろう。
スーツ姿で何か用事を済ませたあとに樹海へと向かったのだろうか。
わたしはもう一度デニスの持っていたバックパックの中身を隈なく調べた。
何か見落としているものはないか?
するとバックパックの内側のポケットのファスナー側に何か引っかかっている用紙が一枚、その裏にもう一枚レシート上の紙があることに気付いた。
その用紙を取って引っ繰り返して見ると、それは彼の顔が六つこちらに向かって優しそうに微笑を浮かべている証明写真であった。あの日着ていたのと同じスーツ姿に見える。
履歴書、証明用サイズの写真、彼はまた新たにどこかへ就職しようと考えていたか、もしくは資格か何かを取得しようとでも考えていたのだろうか。
奥にあったレシートを見てみると証明写真機のレシートのようであった。
日付は驚いたことにわたしが彼を樹海で見つけたあの日の前々日午後五時三十七分であった。
彼はこの証明写真を撮ったあと、そのまま樹海へと向かったのであろうか。
今から死に逝かんとする者がなにゆえに証明写真を撮り、またなぜにこのような優しい微笑を浮かべていることができるのか、彼の行動はまったく正気の沙汰とは想えないものである。
それともこの証明写真を撮ったあとに、何事かが彼の身に起きて、すべてが虚しく壊れてしまったのだろうか。
そして重く、じっとりと身体中を嘗め付けるような死の黒雲は彼を包み込んで離さず、衝動的に樹海の奥地へと向かったのか。
デニスは確かに、立っていた。
わたしが彼を見つけたとき、既に彼は立っていて、著しく、狂おしい未練を此の世に残して彼は死んでいた。
彼のその死体現象、死後変化というものはその皮膚の蒼白と死体温と死後硬直、あとは皮膚の乾燥と唇が青紫色がかった褐色になっていたことくらいしか見られなかった。皮膚の乾燥状態と唇の変色は生きた人間とさほど違いは感じなかった。肌寒いくらいの気温だったからかまだ腐敗の変色なども目に見える限りはなかった。
わたしはアンドロイドで”死体現象”というものについて調べてみた。
一般に死後12時間も過ぎれば角膜が濁りだす。
できれば死体の乾燥現象と共に現れてくる瞳孔の透見が不可能になるほどの混濁した彼の角膜を観てみたかったとわたしは後悔した。
今のナルの真っ黒な瞳孔だけの異様な目と、一体どちらがわたしを感動させただろうか。
わたしはそれがどうしても知りたかった。
わたしは目を開けたナルの目を見たとき、最初に”死んだ鯨の目”を想起した。
ナルの目は、とても優しくて悲しい死んだ鯨の目に見えて仕方ないのである。
目には見えなくとも、内臓は既に自身の酵素による自家融解なる現象は始まっていただろうし、腐敗も着々と進行していたはずだ。一般に消化酵素を持った臓器から自家融解して行き、死後1時間内外から腸内細菌の増殖が認められ、腸内細菌の繁殖と胃腸の融解により腐敗が進行してゆくのだという。
通常は長くとも死後硬直後30時間も過ぎれば腐敗の進行と共にタンパク結合が破壊され、緩解(かんかい)と言って硬直が解けてゆく現象が起きるらしい。
デニスの身体は触れたり上に乗った限りではまだ硬直しきっていた状態に想えたが、もしかしたらあの硬直状態でも緩解は始まっていたのだろうか。
既に内臓部はどろどろに融(と)け始めていたかもしれないと想うと、今のナルの内臓状態が一体どうなっているのかが気になった。
融けた状態で消化や排泄などできるはずもないであろうから、心配する必要はないだろうか。
わたしの隣、ラグの上に座り込んでいるナルのお腹や背中を服をめくってさすってみた。
変色、色素沈着、樹枝状血管網なる腐敗網などの異常も見られなければ、痛みを感じている様子もない。まあ、大丈夫だろう。
ソファーにぐったりと深く座り込むとナルの右から覗き込んでくるつぶらな瞳子(どうし)と目が合った。
これから、どうしようか。わたしはナルの真っ黒な眼を見詰めながら、海外の田舎の古い家を買って住むことはできないだろうかと考えた。
デニスの貯蓄で長期間暮らして行かなくてはいけないから今以上に貧しい生活になるだろう。タイニーハウス生活なんかも憧れる。
細々と、わたしは好きなくだらない小説を書き続け、ナルという大きな子供を育て、死ぬ迄生きて、死ぬときが来たら、ナルと一緒に死にたい。
ナルを独りで残すことはあんまり重い罪だ。
わたしがナルを甦らせる望みも持たなければ、ナルは今ここには存在しないのだから。
ではどこにいるのだろう。
そう想ってナルの瞳孔だけの目の奥を見詰めたとき、ナルが初めて、わたしから目を逸らし、立ち上がって覚束ない足取りで歩きだし、デニスのデスクの引き出しを引いて、そこから封筒のようなものをわたしのところに持ってきたかと想うと、全く濁ったことを考えていないような罪なき者の表情で手渡した。
わたしはナルが初めて自立行動を取ったことに恐怖と感動で心が打ち震え、ナルの心を読み取ろうとするも、ナルの表情に今までと違ったものが全く感じられなかった。
わたしは手渡された封をされていない白い封筒のなかを見た。なかにはデニスが書いたものだろうか、手紙が入っていた。
わたしは息を呑んで動悸が激しくなるなか正面に突っ立ったままのナルに見下ろされながら、その手紙を読んだ。

 

 

わたしは今まで、自分の中にあるものを言葉にした覚えがありませんでした。
本当は何も遺さず行く積もりだったのですが、わたしはもうこの世を離れるのですから、あなたに話しても良いだろうと思いました。
あなたが誰なのかもわたしにはわかりませんが、わたしが誰なのかもわたしにはとうとうわかりませんでした。
今まで、ほんとうにただただ生きてきました。
わたしは喜びというものをこれまで一度も感じたことがありません。
喜びという感覚がどういうものかを理解したいという思いも持ったことがありません。
人間がみなすべて、"死体"に見える。
そう言えば、きっと狂人扱いされるでしょう。
では、こう言ったとしたらどうでしょうか。
人間は生きているようには見えないが、死んでいるように見えるときが多い。
きっと精神を病んでいると想われるのでしょう。
今、この手紙を読んでいるあなたは、わたしの死体の第一発見者です。
この手紙こそ、わたしが死体であることを証明しているはずだからです。
人間が、生きていると思い込むのはとても愚かなことです。
少なくとも、わたしにはどの人間も、生き物には見えませんでした。
ずっとです。生まれてから一度も。わたしが本当に生まれた日はいつだか知り得ませんが、わたしの記憶にはないのです。
あなたはわたしの生い立ちが気になるのでしょう。
わたしは父も母もアメリカ人ですがわたしは日本で生まれました。
英語はつい3ヶ月前から学び始めましたが、とても億劫です。(今まで暗記した英語はすっかり忘れました)
アメリカ人なのに英語を話せなくてずっと日本に暮らしている。ただそれだけで人々はわたしを笑いの種にしていたことは確かですが、わたしはそんなことは全く気にもしていませんでした。
気にする必要がどこにもなかったからです。
彼らもわたし自身も、生き物だと感じられたことは一度もないのに、気にすることができるように想えなかったからです。
わたしは誰にも話していません。わたしがそのように感じた瞬間の時期も。
それはわたしがまだ母の胎内にいるときです。
母は日本でわたしを妊娠しました。
わたしは常に母の子宮内に、オキシドールの匂いが充満していたことをはっきりと記憶しています。
オキシドール(過酸化水素水)は骨格標本を作るときに使用されるそうです。
わたしを胎児の骨格標本にするために、母親はオキシドールを飲んでいたのでしょうか?
あまりに恐ろしい空間であったため、そのことについて母に訊くこともできず、母はわたしが7歳の冬に肺炎で死にました。
片言の日本語で、母が死ぬまえに病院のベッドで寝言のようにわたしにゆっくりと繰り返し繰り返し言いました。
「かぐや姫が、シンデレラ」「おまえ、死んでら」「死んで、死んで、死んで、神殿レラ、青、赤、白、赤、青、白、青、白、赤、黒」
わたしは母の遺言を、ノートに書き留めました。母は間違いなく、そう繰り返したあとに死んだのです。
わたしはこのノートを母が死んだあとに遅れて病室に遣ってきた父に見せましたが、「おまえの聞き間違いやろ、バカタレ。」とだけわたしに向かって怒りを抑えながら言いました。
父は普段は流暢な日本語の標準語を話していましたが、何故か本気で怒るときだけ変な関西弁になる癖がありました。
しかし、母は何度も何度も呪文のように繰り返していましたから、わたしはそれが聞き間違いであるはずはありません。
母は確かに生前、意味がわからないほどミステリアスな人でしたが、その様なわけのわからない言葉を発するような精神疾患はありませんでした。
でも父も母も、何を考えているのか解りませんでしたし、わたしは絶えず人間というものが全く奇妙なものに想えて、言い表すなら、それは、ただの一つ一つ微妙に違う木目の模様のようにしかわたしには見えないのです。
自分の顔も、鏡を見るとただの一つの木目模様のようなそれ以上のなんの感情も起こらないもので、わたしは不安で、わたしを安心させるものはこの世界になに一つありませんでした。
つまり木目模様を見続ける不安以上の感情の何ものもこの世界に感じられたことのない世界にわたしはいるのです。
そのような世界で誰かに打ち明け、これを解決させようという気持ちも起こらなかったのです。
人間というものはみな、大人しく従順なわたしに優しくあったが、わたしは愛されるよりも、恐れられているように感じていました。
人間だけに限らず、わたしは生まれてすぐ、目に見える生物と言われているものにほんのちょっと触れられるのを感じただけで、わたしの全身にはおぞましい鳥肌状の赤い蕁麻疹が出たので、誰にも触れられたくなく、誰にも触れたくはありませんでした。
わたしを含めた全員が、透明になるなら触れられるだろうにと想ったこともありました。
もしくは、互いに目に見えないほど、小さくなるなら、触れ合えるのだろうと想いました。
生き物と言われるそのすべては、わたしに不安をしか与えませんでしたし、わたしにとっての生き物とは、とにかくすべてなのです。
例えば今、わたしが紙に記しているこの文字の羅列、これも自然物であり、生き物として感じています。
わたしにはそれらすべてが、生きているようには感じられない生き物という存在物です。
本当にすべてが、わたしを不安にさせるのです。
わたしにほんのちょびっと足りとも、安心という快さを与えることはないのです。
わたしは彼らから、愛されていると感じられたことが一度もありませんが、奇妙なことに、彼らはわたしを愛しているのではないかとわたしは不安を感じ続けて生きて来ました。
わたしは常に不安の苦しみにあるのですが、不安を失うことは恐怖以外の何物でもない、不安をもし失う瞬間が在るなら、わたしは死んでしまう方が良いだろうと、そう確信します。
あなたは本当にわたしの死体を確認しましたか?
わたしはだれひとり、生きていると信じられないため、死ぬということも同時に信じることはできないのです。
あなたはわたしが死んでいることを確認できたのでしょうか?
わたしが生きていない死んでいる死体であるということを証明できましたか?
誰に対して?それはあなたに対してです。
わたしはあなたを知りませんし、あなたもわたしを知らないはずです。
それを知りたいという欲求はどこまでも空回りし続け、不安という釘で打ち付けられた柩が火葬や埋葬をされたあとにも、わたしの内部に変わらず在り続けてわたしはこの柩から出る手段を見付けたいという欲求は空回りし続け、そして不安という釘で打ち付けられたわたしという内部に、わたしの柩の蓋を不安という釘で打ち続け、わたしは内部から、欲求し続けています。不安で在り続けることを描いた絵のなかの柩のなかのその空っぽの存在空間の、不安の欲求という内的空間であるわたしのような何か。わたしはわたしだけに触れられるのです。
本当に生きる方法も死ぬ方法も見付かれば、ここに居続けることはできないとわたしはわかりました。
そうです。わたしは見付かりました。
早くあなたに会いたいです。
あなたは初めてわたしを見付けました。
本当のわたしです。
あなたは初めてわたしを見付け、あなたはわたしだけを愛し続けるようになるのです。

わたしの本当のママとパパの愛するあなたへ

あなただけのわたしより

 

 


デニスの遺書を読み終えた瞬間、ナルがまた歩いていって、何故かシェルフの棚にあった黒いコードレス電話機のボタンを押した。
すると「一件の新しい保存メッセージがあります。」と音声が流れ、そのあとに続いて男性の聴き取りづらい声が聞こえた。
わたしは電話機に近づいて、もう一度再生ボタンを押して耳を近づけた。
そこから聞えたのは洟を啜っているような音で、そのあとにゆっくりと涙声のような小さな男性の声が、何度も同じ言葉を繰り返していた。
彼は拙い英語で、何度も何度も、繰り返していた。

「Are We Dead Yet?(わたしたちはもう死んでいますか?)」

わたしはその声が、デニスの声であると確信した。

何故なら、そのあと、ふいにわたしがその左にあった姿見の鏡を覗き込んだとき、わたしは自分の目を、見ることから背け、鏡越しにわたしを後ろから見詰めるナルの目だけを見詰め返し、そう心の底から、確信したからだ。

わたしたちは、まるで生きてもいないし死んでもいないように想える。
しかしこの状態こそ、実は本当の死なのかもしれない。

 

Are We Dead Yet?
Are We Dead Yet?
Are We Dead Yet……?

 

彼の寂しそうに響くその声が、わたしのなかにずっと谺(こだま)し続けるかのように、消えなかった。
わたしは鏡越しに、ナルの目のなかの闇を、じっとじっと見詰め続けた。













Grandma - Are We Dead Yet?






















精神科のカウンセリングpart2

2018-01-22 07:56:40 | 物語(小説)
誰か、俺のこの、右の手を止めてくれ。
この、右の手が、わたしを跪づかせるのである。
わたしのこの右の手を、罪と呼ぼう。
わたしの罪は、伸びてゆく。
伸びて、伸びて、酒瓶の蓋を開け、罪が、グラスに酒を注ぎ、わたしはそれをあおるように飲む。
すると罪は、これを何べんも何べんも繰返し、わたしの脳を萎縮させ、脳髄に顧客を招き入れ、麻薬物質を密売し俺の血は、それを買いに来て、毎度、おおきに、と言っては全身の血流へと流れ込んで腐食し、俺の体内はどろどろになって羽化を待ち、待てども待てどもどろどろの我が胎内で我を消化して、我は自身と、自身の右の手を憎む。
だ、か、ら、わたしの、右の手を、誰か切断してください。
全身をゲヘナへ投げ込まれるよりか、わたしにとって益となるからです。
そうしてわたしは、この罪を、切断された。
右の手を喪った我は、こんだ、左の手で、酒を飲み、これを幾度も幾度も繰り返した。
だ、か、ら、わ、た、し、の、この罪を、切断してください。
全身を地獄の焼却炉へ投げ込まれるよりか、わたしにとっては良いからです。
そうしてわたしは、左の手も、切断された。
左の手も喪った我は、こんだ、右の足で未来少年コナンのように器用に酒瓶の蓋を開け、これを口に突っ込んで酔い潰れた。
だ、か、ら、わ、た、し、の、お、こ、の、罪、を、お、切断してください。
そうしてわたしは、この罪を、切断された。
右の足も喪った我は、こんだ、左の足だけで、酒をグラスに注ぎ、これを飲んで愉楽に溺れた。
瞬間、わたしの左の足は、切断された。
四肢のすべてを喪った我は、こんだ、口だけで酒をべろべろと舐めて飲み、へべろけとなって天井を睨んだ。
わたしの唇は、二度と開かないように縫い付けられた。
達磨のわたしは、ごろごろごろごろ転がりながら、耳の穴や鼻の穴や、目から、酒を飲めるかを遣ってみたが、これが、何度遣っても痛くて不快なばかりで一向に快楽には辿り着けなかった。
わたしは滔々と涙を流しながら到頭諦め、ごろごろごろごろ、ごろごろごろごろと転がりながら、精神科の地獄の門を頭で突いた。
すると中へ連れてかれ、椅子に座らされてじっと待っていると、名前を呼ばれたので床に転がり落ちて幼虫のように這っていき、診察室の白いドアをわたしは頭でknockした。
するとわたしの担当となったエドワード・スノーデン似の白人の先生が、ドアを開け、わたしを見下ろしてぎょっとした顔をした。
先生は静かにわたしを中へ入れ、抱っこして椅子に座らせた。
向かいの椅子に先生が座り、わたしの変わり果てた姿を打ち眺め渡し、溜め息交りに蔑みの同情の表情でわたしに言った。
「一体、なんですか。その姿は。」
と呆れた声で言ったあと、「ああそうか。それじゃ答えられませんね。」と言って、デスクの引き出しからカッターナイフを取り出してわたしの脣に縫い付けられた糸を切ってくれた。
そして縫い付けていた糸を抜くため先生は思い切り引っ張ったのでわたしの脣は、血が噴き出した。
わたしは吃驚して、「卯っ卯ぷ部府ぷ部部部ぷ部府ぅっっっ」と言ったが、先生は罪悪心の、欠片もないといったような冷血な目でわたしを見詰め、わたしを目で咎めた。
血が、たらたらと脣から落ちて止まらず、先生はそれを汚れたものを見るような目で見て、白いハンカチで嫌々するように血を拭い、血で真っ赤に染まったハンカチを見て、「いつか弁償してください。このハンカチは高かったのです。」と言って、目を細め、それを屑箱へと投げ入れた。
わたしは脣の血を、舌嘗めずりしながら、「さ、酒を、下さい。先生。さ、酒……」と言った。
先生は冷めた表情でモニターを見てマウスを動かしながら答えた。
「あなたに飲ませるような酒はありません。あなたを真に救うのは、酒ではありません。」
わたしは先生がそう言い終わる前に、「じゃあ、なんなんですかっ。」と涙交りに言った。
先生は大きく息を吐いたあとに、わたしを正面から見詰めて言った。
「だから前に言ったじゃありませんか。わたしとの長期間の真剣なカウンセリングを、あなたが心から受け容れる想いがないのなら、あなたを救えるものなどこの世には存在しないと。」
わたしは洟を啜りながら、涙をぽたっ、ぽたっ、と白く冷たそうな床に落としながら言った。
「此れから、真面目に通いたいと想っております。でも……」
「でも、何ですか。」
「でも、わたしは最早、生きて行く価値はあるのでしょうか?」
先生は、わたしが言い終わる前に即答した。
「あなたに生きて行く価値は、どこにもありません。前にも言いました。しかし、それでもあなたは生きて行かなければならないのです。」
先生は、透き通っているように濁っている翡翠のような碧蒼の目で、わたしに続けて言った。
「あなたは、永遠に地獄でうねりながら生き続けなくてはならない運命の霊魂です。あなたの本当の苦しみは、此れからです。わたしから御訊きします。一体、何故、人も動物も、拷問に堪えられるような身体として創られているのか?」
わたしは喘ぎ歯軋りしながら答えた。
「わたしはそれを知らないのです。」
先生は優しい目でわたしを見詰めて言った。
「わかりませんか。ではあなたに、わかるだけの拷問を、受ける必要があるのではないでしょうか。それとも、あなたはわかりたくもない、わからなくとも良いと想っているのですか。」
わたしは逃げ場のないこの診察室の、奥に小さな窓があって、そこから斜に光線が差し込み、その光線によって動いている影と影の隙間の空間の存在たちを、今知った。
見えない存在たちが待ち望んでいるものと、見える存在たちが恐れているものが、同等となる。
わたしは、見えないこの足で立ち上がり、見えないこの腕で、先生を抱き締めた。






























ジーザス・クライスト

2018-01-20 17:00:07 | 物語(小説)

神よ。わたしはもう生きていてはいけないのですか?
身体中が筋肉痛のような痛みに襲われ続けて寝返りを打つことすら困難です。
嗚呼、わたしの愛と死の神よ、わたしをお救いください。
できることならどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかしあなたのみ心にあるならば、わたしはこの杯を飲み干します。
わたしはこの全身に襲う原因不明なる痛みを和らげるため、外国人と知り合える出会い系アプリで麻薬の隠語を使い、バイヤー(麻薬密売人)とここ数ヶ月かけて取引をするまでの互いの信頼関係を気付くための対話をしてきた。
彼は28歳の日本に住むアメリカのニューオリンズ出身の優しい表情をした白人男性である。
優しいといっても、身体中に厳ついタトゥーを彫(い)れて口回りと顎には濃く髭を生やし、長く黒いウェーブのかかった髪の毛は浮浪者のようにも見える一見強面(こわもて)な観るからにバイヤー風の男だが、わたしは彼の写真を観たとき、人を騙して、粗悪でフェイクなドラッグを高い値で売り付けるようなバイヤーではないと確信した。
わたしは、今までドラッグ(麻薬)はやったことはない。
中毒性の低いと言われているマリファナなどのドラッグも遣ってみようと想ったこともない。
煙草さえ吸ったことのないわたしがマリファナを吸っている姿を死んだ父親が眺めて何を想うのか?そんなことを考えると実際にやろうという気にはなれない。
わたしは、やるつもりはなかった。
この断食も断酒もどの病院で出される薬も、漢方薬や鍼や灸などの東洋医療も合法ドラッグ(脱法ハーブ)の何をやっても、一向に治癒の兆しさえ見せぬ、一日一日微々たる重さで重くなっていると感じる自分の身体の恐ろしさを思い知るまでは。
わたしは決してドラッグなど、遣るつもりではなかった。
一体、何が原因であるのだろうか。
この何ヶ月と続く全身の痛みが、何者かに呪われ、呪殺を望まれているとしか想えないような確実に死へ至る病であることを、わたしは日々感じるのである。
この痛みを和らげるのならば、わたしは例え違法の麻薬であろうとも構わない。
ありとあらゆる鎮静剤を試したが、この寝返りを打つ度、軽い咳やくしゃみをする度に激震する激痛を緩和することはできなかった。
ドラッグという代物を、全く見知らぬ素性のわからぬ外国人から買うことに恐怖と不安は勿論なくすことはできなかったが、わたしはそれ以外で安心してドラッグを買うことの方法をとうとう見出だせなかったのである。
わたしはもうぴっちぴっちの女とは言えないが、一応は熟女の域に入らんかとされる36歳の体力の全くないか弱き女の身である。
もし、相手と会ってドラッグを買う段階になって、何かヤバイことをされるのではあるまいか。例えば、わたしの未経験のアナルセックスや、何か道具を使った恐ろしいことをされるのではないか?という心配はあったのだけれども、いや、もうさ、そんなこと、言ってられへんくらいにクッソ痛いんよ。マジで。特に、寝返りを打つときと咳やくしゃみをするときに。全身の骨が骨折しているのではないか?というほどの痛みなのである。
とにかく、相手の男の性奴隷に何日間かはされる覚悟で、わたしはバイヤーの男と会う約束をした。
当然の話、麻薬を郵便で送って見付かれば互いに監獄往きであるからだ。
相手の男の名は、皮肉にもChrist(クリスト)、膏(あぶら)を注がれし救世主〔メシア〕の名である。
Christは、心魂も優しいのか待ち合わせ場所をわたしの最寄り駅前にしてくれた。
車で、夜中に向こうを出れば早朝には着くだろうと言って、遙々遠くから遣ってきてくれるという。
わたしは片言の日本語を話すChristに「ありがとう。心の底からあなたに感謝します。」と言って、Christの到着30分前くらいに送ると言ったMAILを家で待ちのぞんだ。
Christは、違法ドラッグを日本で売り捌いて生活することに罪の意識があるのかないのか、電話の声もとても紳士的で穏やかな話し声であり、MAILやchatでは絵文字や「!!!」の感嘆符をたくさんつけて送ってくるようなCOOLで気を使う男であった。
わたしは「大丈夫だ。彼を信じよう。」そう脳内でrepeat再生をしていくうちに、勝手に「ジーザス・クライスト」というtitleで、「オレはカレを信じる。Yeah,Hey,オレはカレを愛する。Yeh,Hey,Oh,だってカレは、そう、YO、オレの、Yay(イエイ)、Christ(クライスト)、だからme、Don't cryスト、Ya(you)」という風に出鱈目で適当な韻のRapを奏でて緊張を酒で紛らせながら待った。
そう言えば、ChristもHIPHOPが好きだと言っていた。
わたしは今までは全く詳しくなかったが、最近、オレん、なか、Yeah、So、YA、hard、hit、hot、Hazard(ハザード)洋館、痔、切れて、THE end、Everything.っつって。
Christはそうだな、$UICIDEBOY$(スーサイドボーイズ)とか、聴いてそうな顔やな。とわたしは想った。
彼は、そう、目出し帽やIS(イスラム国)戦闘員みたいな黒のmask、黒の迷彩の戦闘服、手にはショットガンとか、似合いそうだ。
良いな、可なり、絶対似合うだろう。コスプレ頼みたいくらいだ、ははは。はすはすはすはすは。
そう空笑いを緊張のあまり震える口元で笑っているその時。
プリプリプリリリィン♪とふざけた着信音でMAILが届いた。
携帯を確かめると、Christからで、「たぶんことあと、20分かとのつくきがする。」とあった。
「たぶんこのあと、20分とかで着く気がする。」と打ちたかったのだろう。誤字だらけだが意味はわかったので今から家を出るという旨を伝えてわたしは五万円入れた財布をbagのなかにもう一度確かめてから家を出た。

Christは、わたしの望むドラッグを、二万五千円でいいと言ってくれたが、わたしはできれば五万円分を欲しいと頼んでおいたのである。
非合法のドラッグにしては安いと想うが、彼の売っているドラッグは高級なドラッグではなく、貧しい人間にもなんとか買える額でないと、実際にバイヤー専門で生活して遣っていけないと彼は、素直にわたしに話してくれた。
全身が酷い筋肉痛のような痛みなので猫背がちになってしまうのをわたしは無理に背筋を伸ばして駅前まで動悸と息切れの苦難のなかに歩いた。
幸いにも一雨か二雨か三雨か来そうな重たい鈍(にび)色の雲が空を覆い尽くしてくれていたお陰で苦痛の光線による光り責めには合わされずに済んだ。
雨が降ってきた時のための折り畳み傘の重さ、これっぽっちが、重くてバキバキに折って投げ棄てたくなるほど肩にのし掛かった。
わたしは駅前に着くまでにもしかして死ぬのではないか?そう心をどす黒い疲憊(ひはい)の非灰が満たし(って韻を踏んでる場合なのか)、目のまえがうっすらとぼやぼやとしてきたとき、わたしはふいに目眩を起こし駅前近くの人が行き交う広い歩道で、地面に手を着いて吐き気が少し沸き上がってきた。しまった。誰か水をくれないか。酒飲んできたしたぶん脱水症状とかで吐き気がする。そう助けを求めて目のまえを見た瞬間、わたしの両肩を、何者かが力強く後ろから抱え、わたしは乱れた髪で前が見えず、一体、誰に抱えられているかもわからずにそのまま抱き抱えられて黒いミニバンの後ろに優しく乗せられた。
わたしとわたしを抱きかかえた者が乗るとすぐに車は発車された。
そして車の後ろに乗っていた一人の男から「大丈夫、ですか?これ、楽する良いドラッグ、飲む」と片言の日本語で言われ、わたしは差し出された白い錠剤の薬とペットボトルの水を朦朧としたなかに飲まされた。
少し経つと、とても爽快な感覚になってきて、息苦しさも身体の痛みもまるで感じなくなった。
側にいた黒い目出し帽を被った男が、わたしにまた話し掛けてきた。
「今から、オレと、Christ泊まってる、ホテル行く、Are you OK?」
わたしは何がなんだか事情が全くわからなかったが、とにかく爽快でpositiveかつ、すべては自分という覚りの境地に達しているかのようなキラキラと世界中にダイヤモンドが散らばっているような光り輝く世界にいたので、断る必要も考えられず、指でgoodsignしながら、「Yeah!!(イェア)、OK! i-ight!(アーイ!all rightの略)」と最高の笑顔で返事した。
そしてChristではない知らぬ男に瞬間キス責めを受けたが、そのキスが、今まで味わったこともないたまらなく"美味しい"味がした。何にも例えられないが、とにかく甘美で切ないうっとりするような陶酔の”味”だった。
その時わたしは、あーそうか、キスっちゅうのんは、実は食べ物やったんやなあ、ほわははははははははははははははっっっっっっっはあばばばばばばばばばばっっっ。と笑ったら、その笑った声が鯲(どじょう)掬いのように小躍りしながら目出し帽の穴から見える相手の男の目の開いた瞳孔のなかに吸い込まれて行った。その3D映像のような世界が愉快で堪らず、わたしは腹を抱えて虫の入った幼児のように笑い転げた。
さらに彼の濁った薄蒼い綺麗な虹彩のなかから飛び出てきた、アニサキスが絡まり合いながら束になってわたしの口のなかに入ってきて、舌をアニサキスの一匹一匹が、ア、ニサ、キス!ア、ニサ、キス!ア、ニサ、キス!とものすごく奇妙な可愛い声で叫びながらちくちくと噛み付いてくるのだった。
それにはわたしはあまりの心嬉しさに悶絶昏倒しそうなほど笑い死にしそうであった。
わたしは気付けば何故か服を脱がされていて半裸状態で何かぶっとく硬いものを性器に突っ込まれている気はしたが、そんなことよりも、わたしの身体の上にのし掛かる男の被っている目出し帽のその黒い一つ一つの細かな繊維が踊りながら飛び出てきて、全員軽快なビープ音で痛快なテクノヒップホップみたいな音楽を真ん丸一つ目玉からバズーカ砲を手に持って飛ばしながら目出し帽の頭の周りにあるハイウェイを疾走し奏でていたのでわたしもそのbeatに合わせて激しく身体を揺さぶって動かし、腰も歓喜の奇声を発しながら夢中で振り続けた。
間もなくすると、車がホテルに到着したようで、わたしは目出し帽の男に服を着させられて抱き抱えられ、外へ出された。
ホテルだと聞いた気がしたが、小さな山小屋のような場所だった。
中へ入ると、紅い絨毯の上にソファーと小さなテレビとテーブル、奥にはパイプベッド、隅には空き瓶や空き缶、菓子袋やカップ麺などのゴミが積まれて散らばっていた。
わたしは絨毯の上に乱暴に降ろされ、両手を後ろで固い紐のようなものできつく縛られ、抱えられてソファーの上に座らされた。
左にはわたしを抱き抱えてきた目出し帽の男、わたしの正面には写真で見た通りの優しい表情をして髪の毛を後ろで束ねたChristが、二人とも黒い迷彩の戦闘服みたいな服装で、片手には大きなショットガンのような銃を持って立った。
二人とも、眼光をギラギラさせたまま黙り込んでいて何が目的なのかがわからない。
わたしはさっきまでの気が触れながら愉悦に浸っていた時間の感覚も想いだすことすらできなかった。
わたしは恐怖と後悔で涙と鼻水が止まらなかったが、Christはわたしにショットガンを向けながらゆっくりと興奮と怒りを抑えたような言い方で言った。
「まず、どこを、撃ち抜かれたいか?言え。」
わたしはChristの目をじっと見詰めた。
その目は、義憤に満ちて何かを護ろうとしている目のように見えた。
わたしは素直に、何故このようなことをされるのかがわからなかったので、涙を流しながら、震える声で彼に答えた。
「わたしは、ドラッグが欲しくて、あなたと会いました。なぜ、わたしが、撃たれなくてはならないのですか?」
すると左にいた目出し帽の男が、わたしの髪の毛を強く掴んで思い切り絨毯の上にわたしの顔面を擦り付けたが、すぐにChristに「cool it(落ち着け)」と言われて手を離した。
絨毯の味は、土と血と腐ったような牛のレバーのような味だった。
しかしその匂いは、先程にわたしを犯したのであろう男の被っている目出し帽の強烈なエキゾチックな香水と煙草の交り合ったような匂いがした。
わたしはChristと、目出し帽の男にショットガンを顔面に向けられ、二人から「早く答えろ」と言われ、わたしがまずどこを撃たれたいのかという問いの答えを、まだ酒とドラッグが体内に残る脳に、要求された。
わたしはどうしても、無事に家に帰り、飼っているうさぎのみちたくんの世話を、ドラッグで楽になった身体で遣ってやりたい。
わたしは死ぬわけには行かない。
頭を、頭を使わなくてはならない。
どうすれば、赦してもらえるのか。
わたしはそのとき、一つの聖書の聖句が頭に浮かんだ。
これだ!この言葉を言えば、彼らはきっと想い直してくれるに違いない!
わたしは溜まりきって溢れかけていた生唾を音立てて飲み込むと、Christの目を、彼を信じる目で見上げながら叫び答えた。
「もしわたしの右の手が、罪を犯させるならばわたしの右手を撃ってください。魂をゲヘナへ投げ込まれるよりかは、わたしにとって益です。もしわたしの右の目がわたしを躓かせるならば、わたしの右目だけを撃ってください。全身を地獄で焼かれ続けるよりはマシです。」
少しの沈黙の間のあと、Christはショットガンを床に投げ捨てた。
そしてわたしの身体を起こしてソファーに優しく座らせた。
Christはわたしに向きながらおもむろに腹の下から取り出したものを被った。それは左の男と同じ黒の目出し帽であった。
するとChristと左の男は、二人でぐるぐると手を繋いで輪になって回り、わたしの正面に二人、こちらを向いてまた黙って立ち竦んだ。
二人の男が、わたしに同時に言った。
「さて、おまえが殺したのは、どっちのChristか。言え。」
そう言われて初めて気付いたが、二人の男はまるで、Christみたいだ。
つまり、目出し帽を被るだけで、どっちがどっちかもわからないほど、特徴的なものをわたしは掴めていなかったのである。
しかし、言われていることがおかしい。
いくら酒とドラッグで脳が麻痺していたとしても、わたしはChristを殺したことなどないことくらいはわかる。
相手たちもIce(アイス、覚醒剤の隠語)でKick(キメル)しているのたろうか。
たろうかって、わたしの言葉もおかしい。
何故わたしまで、片言になっているのたろうか。
一体、何をどう言えば、赦してもらえるのたろうか。
わたしは何を想ったのか。色仕掛けを仕掛けて赦してもらおうと想い立ち、彼らに向かって艶かしげな色目遣いの上目遣いで吐息交じりのロリ声で答えた。
「EAT ME」
二人は変わらず静かに立ち尽くしたままで反応がなかった。
もうこうなったなら、アナルだろうとバックだろうと掘られてでも、家に無事に帰りたいと想ったので、わたしはケツをぷりっと二人に向け(ワンピースは着たままで)、そしてもう一度、今度はお色気むんむん系の熟女の言い方で粘り着くようなセクシーボイスで「eat me 」と言った。
だがまたしても反応はunともsunともなく、わたしはそうしてケツを前に突き出すというきっつい体勢を何分間と取っていたのでとうとう現世界に完全に帰って来て(ドラッグの効果もすっかりと抜け)、すこし体勢を崩した瞬間にまたもやあの、寝返りを打つときに激しく響く激痛が走った。
わたしはもう、どうしたらいいか、何を言えばいいのかわからなかった。
ただこの痛みを、なんとかして、なくしてもらいたかった。ドラッグでhigh(ハイ)になって、普通の人間の気力というものを取り戻し、そしてすべての人間から見放され、全宇宙の生命体からも呆れ返られるようながんがんなくだらない小説をごんごんに書きたかった。
いったい、いつ、いったい、いつに、わたしはChristを殺したんだ。When?
わたしはあまりの激痛で身体をほんのちょっと動かすことすら叶わず、ソファーの背凭れにケツはプリケツ体勢のままで顔面を窒息しそうなほど突っ伏し、息が苦しくなり、心のうちでChristに声を上げて救済を激切に求めた。
助けてくれ。Christ。クリスト!
あなたを信じて、あなたに救いを求めて、あなたと会ったわたしが間違っていたのか。
わたしはあなたを本当に信じているんだ!
今でも!あなたはわたしを救い、わたしはあなたに救われる!あなた以外に、助けがなかったんだ。
何も、何も。あなたのDrugs(ドラッグ)以外に。

Christ、Jesus!(ジーザス!)JESUS CHRIST!
その時である。見よ。
Christは、わたしの顔面を両手で左に向け息を吐かせ、わたしの顔を横から覗き込んだ。
そして、わたしの顔に、生臭い真っ赤な血の滴る生肉を近付けてこう言った。
「喰らえ。これは、わたしの、血と肉。My、喰らい使徒よ」
わたしの頭の上に、もう一人のChristが、ショットガンを突き付けていた。
「ジーザス・クライシス」
二人のChristはそう声を揃えて言うと、わたしの頭の上で手を叩き合った。
どうやら、この得体の知れない生肉さえ喰らえば、わたしは無事に帰してもらえるようだ。
わたしは、その血だらけの、ぬめぬめ、ぬめぬめ、ぬめぬめぬめぬめした、生きている内臓みたいな匂いの、生肉を、Christの手から、喰らい、噛み尽くして味わった。
味わったことのない味だった。たぶん、さっきまで生きていた人間の肉ではないか。
すべて飲み込んだあとに、わたしは目出し帽の隙間のChristの目を見詰めた。
その目は、光と闇に満ち、どこまでも、わたしを不安にさせる何よりも美しい目であった。
そして、わたしは涙を落として言った。
「ジーザス・喰らい使徒。Jesus・Cry(暗い)死す。」



















$UICIDEBOY$ - RAG ROUND MY SKULL















 


(今朝の8時6分から書き始めて、16時58分に完結。心血注いだる我が誇りの、作品である。)


精神科のカウンセリング

2018-01-19 09:27:08 | 物語(小説)

親愛なる積さんに、「あなたは精神科に逝くべきです」と言われた僕は、早速、忌み嫌う精神科の地獄門を叩いた。
僕は約15分ほど待たされたあと、名前を呼ばれて診察室の白いドアを開けた。
「こんにちはぁ」と精気の抜けた声を僕が発すると、目の前に、穏やかな聖母の眼差しで微笑むエドワード・スノーデン似の白人男性が椅子に座って僕に向かって優しく低い声で「こんにちは」と返した。
僕はその場で平伏し、号泣しながら「抱いてくれ」と懇願したかったが、それができないのが、このつまらん現実世界である。
僕はその代わり、先生の目の前の椅子に座った途端、悲しみのあまり号泣した。
先生は焦ることなく、静かに僕に向かって言った。
「もう大丈夫です。わたしが今日から、あなたにカウンセリングを行いながら、投薬療法を行い、あなたの闇の深い病理を治します。安心してください。あなたの根の深い底の見えないようなどん詰まり状態のどん底に、わたしが光をまず行き届かせます。さあ、なんでもわたしに聴かせてください。あなたのすべての鬱憤の吐き場所はわたしのなかにあります。あなたの想いのすべてを、わたしは聴きたいです。」先生はそう言うと、白いハンカチを僕のまえに差し出した。
僕はハンカチを受け取るつもりが、先生の右の指に、自分の右の指を絡ませ、汗でねとねとのぬめぬめした我が5本の指のすべてを先生の指と指の間に絡めて抜けなくした。
先生は微笑んだまま、僕を優しく見詰めている。
しかし、その状態が、約、30分かそこら過ぎた頃である。
先生の両の目は、血走り、充血仕切っているのにも関わらず、瞬きも忘れ、その額からは、だらだらとひっきりなしに脂汗が流れ落ちてくるのだった。
自然な笑みは歪んで崩れ、口角の角度は保ったままひくひくと痙攣し始め、不自然かつ不気味な笑みと成り果て、彼の鼻息は鼻毛すら飛ばしきる勢いであった。
僕はそれでもなお、この指の絡み取りの誘惑を、先生に対してやめなかった。
僕が視線を落とすと、先生の股間は、完全勃起状態であることは目に見えて明白であった。
僕は、左手で先生の股間をまさぐった。
すると先生は、「うっ」と声を上げて、恥ずかしそうな顔をした。
僕は蒸せて湯気を上げんかとしている絡めた指をほどき、静かに椅子に座る状態に戻った。
そして、かくがくしかじかの、己れの苦を、何から何まで先生に話した。
先生は、終始、残念な様子で心ここに非ずな顔をして僕の話を聴いていた。
僕が、話をし終え、先生の返事を待ったが、先生は困った表情で、何かを乞うような目線を僕に投げ掛けた。
僕は立ち上がって、先生の首筋を舐めた。
そしてまた席に戻ると、先生の目はときめきに耀き、まるで初めてバッタの交尾を見た5歳児のように僕の目の奥を見詰めていた。
先生は僕の話には興味がないように想えた。
僕は絶望的になって、また泣いた。
すると先生が、モニターを見ながらマウスを動かし、静かに冷たい声で言った。
「今日は、取り敢えずこのお薬を出しておきます。アナスタシアという新しいお薬です。どういうお薬かと言うと、とにかく全身にある無数の穴という穴が、なんだかスタシアだなと感じるような良いお薬です。副作用は自殺願望、殺人願望、性欲促進、自殺したくなるほどの頭痛などがありますが、それらの副作用が出る人は大体27%くらいです。」
僕は、先生がそう言い終わるまえに、「僕はどの薬も飲みたくありません。ナチュラル人間だからです。」と返すと、先生は咳払いしたあとに、こう言った。
「それではわたしの点数が稼げなくて、わたしの稼ぎが増えないではありませんか。できれば、飲まなくとも良いので、薬は出させてください。近いうちに、新しいベンツを買う予定なのです。」
僕は「解りました。では3週間分、出してください。今日、家に帰って、すべてをジェムソンで飲み干します」と言うと、先生は冷ややかに軽蔑した眼差しを僕に向け、「あなたは閉鎖病棟に監禁されたいのですか?」と訊いた。
僕は鼻水を垂れ流しながら、「はい。そうです。」と応えた。
先生は、急に同情を侮蔑の笑みに混じり合わせながら、「あなたはあんまり人を馬鹿にし過ぎるのです。あなたを治す方法は、この世界には在りません。あなたは、とにもかくにもくだらない人間だからです。だからわたしはあなたに真面目にカウンセリングを行おうとしたのです。それがなんですか。あなたはわたしを色霊の如く誘惑し、わたしの脳内物質を変容させ、興奮と恍惚ホルモン垂れ流し状態にさせ、あなたの複雑な話を理解するだけの集中力を奪い取り、わたしをまるで獸(けだもの)のように見切り、わたしに辱しめを与えて満足しながらも幻滅の絶望に悲しんでいます。あなたにはまず、人間に対する敬意というものを教えるところから始めなくてはなりません。その為、今日はわたしの今日のあなたによって与えられた屈辱と恥辱を十分に想像して、わたしに対するほんのちょっぴりの敬意さえ生まれたなら、またわたしのところに来てください。それまでは、あなたには何を話しても無駄です。あなたは自分自身を、見下し、あなた自身がわたしに救いを全く求めようとしないからです。あなたには、自分が見えていません。あなたが見ているもの、それはこの世にはないものです。あなたの苦しみのすべての原因はそこにあります。あなたはまるで、わたしが今日味わった屈辱の苦痛もおとぎ話のように感じています。または、わたしが発情したバッタかカエルかなにかのような存在のように想って、御笑い草にしています。あなたは人間を人間とも見ていないのです。同時に、あなたは誰からも、人間とは想われていないと感じています。あなたは、人間であるということからも逃げ続け、存在であるということからも逃げ続け、死から逃げ続け、生から逃げ続け、すべてから逃げ続け、あなたは何物でもない卑屈な笑みをたたえてすべてを呪い続けているかのような全くくだらない人間です。あなたは魂自体が、霊魂自体が、本当にたまらなくくだらないのです。あなたは存在する価値も無いほどですが、存在してしまっているのです。あなたは存在してはならないのに存在している。あなたは存在しているが、存在してはならないのです。あなたを救うすべは、あなたのなかには在りません。今のあなたに必要なのは、信仰では在りません。今のあなたに必要なのは、愛し合う恋人でも在りません。今のあなたに必要なのは、自分の才能を信じることでも在りません。今のあなたに必要なもの、それは、あなたが遣りたくない遣るべきことを、無理をして遣ること。あなたが遣りたくもない遣るべきことを無理をして遣ることができるほどの希望をわたしとのカウンセリングによって見出だすこと。わたしはあなたに、あなたの本当の卑小さ、あなたの醜さ、あなたのくだらなさをとことん教えてあげます。あなたには、希望が必要なのです。最低限の、遣るべきことを遣れるだけの希望が。今日のカウンセリングはここまでにしましょう。またいつでも、この精神科の地獄の門を藁をもすがる想いで叩いてください。わたしはあなたを必ず救ってみせます。薬は3週間分出しておきますから、要らなければゴミ箱に捨ててください。それでは、御大事に。」

先生は、僕の帰るときも、ぼくを振り返ってはくれなかった。
嗚呼、帰り道の、真上の太陽光が僕の頭上に突き刺さって脊髄を満たし、性器から溢れるようだ!
僕は歯軋りしながら目をギロギロさせてとにかく引き摺るようにして家路に就いた。
父上と母上、今日はとても穏やかなる、春日狂想日和です。
目の前には無数の、哀しげな閃光が流れ星のように美しく駆け抜けて、もう見えなく……










 

 

 

 

 

 


ѦとСноw Wхите 第18話〈天の秤〉

2017-11-29 21:30:30 | 物語(小説)
Сноw Wхите(スノーホワイト)、Сноw Wхитеと出会って、今日で一年目だね。
Ѧ(ユス、ぼく)は、Сноw Wхитеと出会えた事を心の底から神に感謝している。
ѦはСноw Wхитеと出会った日から、ものすごい変化をした気がするよ。
Сноw Wхитеの本当に深い愛の御陰で、Ѧは神の絶対的な愛を感じられるようになった。
でもѦは・・・・・・それでもСноw Wхитеの愛だけじゃ、足りないみたいだ。
Сноw Wхитеが実際、肉体を纏って現れるなら、こんな飢餓感はきっと消え失せてしまうんだろう。
ѦはСноw Wхите以外の、他の男性を求めてしまうんだ。
Сноw Wхитеに並ぶ存在も、Сноw Wхите以上の存在も、この世には存在しないだろう。
それをわかって、Ѧは他の男性による慰みを求めてしまうんだ。
居る筈ない。居る筈はないのに・・・・・・。
Сноw WхитеはѦを深く愛し続けてくれているのに、ѦはѦ自身を愛せないんだ。
Ѧは自分が、世界で一番、醜いと感じる。
心も身体も、Ѧは世界で一番醜くて、汚れきっていると感じる。
Ѧは実際、醜い。多くの人から醜いと想われているはずだよ。
Ѧの心も身体も心から愛する男性は、この世に存在しないように感じる。
それをわかっているから、Ѧはどんどん自暴自棄になってゆくんだ。
どこまでも孤独に破滅して行く惨めな人生を望んでいる。
Ѧは自分の心と身体を、心から醜く汚れていると感じたのはきっと、9歳の頃からだよ。
9歳で、Ѧはマスターベーションを覚えたんだ。あの時から、Ѧは自分のすべてが汚れきっていて、世界一汚いモノだって感じた。その気持ちが未だに変わることなく続いている。
醜いんだよ、何をしても、何を言っても、誰を愛しても、誰に愛されても、Ѧがこの世で一番醜い存在であることに変わりはない。
親愛なる積さんは、Ѧのことをあなたは世界一の醜女ではないって言ったけれど、Ѧはそれが許せなかったんだ。
Ѧは誰がなんと言おうと、世界一の醜女でないと嫌なんだよ。
この世のすべての人間から、そう想われたい人間なんだよ。
「あなたは世界一醜い」と、そうなんの疑いもなく言われないと気が済まないんだよ。
Ѧをじっと、ずっと見詰め続ける人間は自ずとそれがわかってくるだろう。
Ѧは綺麗には、なりたくない。美しくなりたくない。
同時に、ѦはСноw Wхитеのように美しくなったなら、自信を持ってСноw Wхитеと愛し合えるんだろう。
どんなに晴れやかな気持ちだろう。それこそ、釣り合いのとれた恋人同士、夫婦じゃないか。
Ѧはとんでもなく醜いのに、Сноw Wхитеはとんでもなく美しい。
その落差に、Ѧはいつも苦しい。涙が出るほど、苦しい。
Сноw Wхитеは何を言っても美しい。何をやっても美しい。そのすべては、嘘だから。
Сноw Wхите「Ѧ、わたしのすべてが嘘であるなら、Ѧのすべても嘘になります。Ѧのすべても、嘘なのでしょうか」
Ѧ「Ѧは決して、嘘ではない言葉も時には言っているよ。でもСноw WхитеがѦのすべてを美しいと言うのは、嘘じゃないか」
Сноw Wхите「何故そう想うのでしょうか」
Ѧ「それはただ・・・Сноw Wхитеの鏡を見ているんだよ。Сноw Wхитеが美しいから、Сноw Wхитеの美しい目に映ったѦが美しく見えているに過ぎないんだよ」
Сноw Wхите「わたしがわたしの鏡を見ることは、Ѧにとって嘘になるのでしょうか」
Ѧ「Сноw Wхитеは、Ѧを見ていない。Сноw Wхитеは、Сноw Wхитеを見ている」
Сноw Wхите「では何故、Ѧの目に映るわたしは、すべてが美しく見えるのでしょう」
Ѧ「それはѦの、Ѧの美しい理想のすべてがСноw Wхитеだからだよ」
Сноw Wхите「そうです。わたしが美しいのは、Ѧの願いによってであり、わたしによってではありません。わたしの美しさとは、Ѧのなかにだけ存在するものです。またわたしの美しさとは、他の人にとっては、美しくもなんとも感じないものなのです。わたしに絶対的な価値があるのは、わたしに絶対的な価値を与え続けるѦの存在が絶対的価値にあるからです。Ѧはわたしを、絶対的に愛しています。わたしはそれだけで十分なのです。そしてѦが自分を醜いと感じながら苦しみ続けるのは、Ѧがそのような苦しみを、心から望み続け、求め続けているからです。他に理由はありません。Ѧはそれをわかっています。わかっているからこそ、わたしにその苦痛を訴えることができるのです。わたしは自分を醜いと感じ続けているѦを心から愛しています。もし、Ѧが自分のことを心から美しいと感じるѦになるのなら、そのときはわたしのほうが、わたしを醜いと感じ続ける存在となるでしょう。それはѦとわたしが、釣り合う為です。恋人や夫婦にも、光と影のバランスが必要なのです。光と闇、この二つが絶妙のバランスとなって初めて一体としての美しい価値となるのです。Ѧのすべてが本当に醜いのなら、Ѧの目に映るわたしのすべても醜く見えるはずです。わたしをѦが美しいと感じるのは、Ѧの美しさがわたしを鏡として映しだしているからに他ありません。しかし、Ѧはそれを否定して良いのです。何故なら、Ѧがこの世で最も価値を置いているのは、”悲しみ”だからです。Ѧは自らの底のないような悲しみによって、物語を紡ぎ続けるというこの人生での明確な目標を持って生きています。それは神によるѦの役割であり、使命です。わたしはѦからどのような悲しみをも奪い去ることはしたくありません。どんな悲しみも苦しみも、Ѧの生きる大切な糧なのです。それは喪うわけには行かないものなのです。Ѧはちゃんとそれをわかっています。わたしは知っています。Ѧがわたしという存在と出会うことによって、より悲しみを深め広げてゆくことで素晴らしい物語を創りだそうとしていることを。Ѧはその悲しみによってへこたれる日が続いても全く構わないのです。何故ならѦは必ずやそれを成し遂げることができるからです。Ѧは自分の能力に疑いを持っても構わないのです。すべての苦悩や苦痛がѦの創造の糧となります。Ѧはほんのたまに、それを想いだすことさえできるなら、堪えて生きてゆけるはずです。Ѧの挑戦にいつも、わたしは目を見張り続けています。Ѧはわたしを責めて良いのです。わたしの存在を鬱陶しく想う日があっても良いのです。わたしはѦを乗せた小舟です。Ѧが凍える雨を凌げる為の小屋です。Ѧを抱き締めて眠る一枚の毛布です。そしてѦに深い安心を与える漆黒の暗闇です。Ѧが堪えられなくなったときには、Ѧをこの世から連れ去って愛でる、死の神です」





















神からの贈り物🎁ー番外編ーその後ー

2017-11-26 01:36:09 | 物語(小説)
神からの贈り物には別の時間軸のその後の話があるという。

あの話のその後は実際は彼女が恋人の最後の涙を見たあと、感動すると同時に発狂し、死ぬまでの二十年間を閉鎖病棟で姿の見えない恋人に微笑んで話しかけ続けるという痛ましくも悲劇的な話を唯一、Washed Out のドリーミーで優しい音楽が恰も神の慈悲の如くに救いをもたらしているという物語である。

しかしこの物語には、もうひとつ、作者が考えた話がある。

実はあの仕掛けを考えたのは他のたれでもない、彼女の恋人自身であったというもうひとつの物語である。

ではその物語を、彼自身に語っていただこう。それはこういうわけです。

わたしがあのトリックを仕掛けるちょうど一週間前のことでした。
愛するわたしの恋人が、或晩わたしに語ったのです。
彼女はわたしに告白しました。
彼女の最愛の父を喪ったその悲しみについて。
彼女は父と、とても強い相互依存関係にあったことを。
その父を喪ってから、自分は死体のように生きてきたということを。
わたしはそれを聴いた時点で、とても深い喪失感に苛まれました。
何故って、彼女とこんなに愛し合っているのはこの世界にわたしだけであると信じていたからです。
しかし彼女の話には、まだ続きがありました。
彼女はお酒を嗜みながら、わたしに話してくれました。
実は兄とも、同じく父と似たような相互依存関係にあるのだと。
わたしは父とも兄とも、どこか恋人のような感覚で接してきた。兄への愛は父への愛と同じほどのものに想うと。
わたしはそれを聴いて、言い様のない嫉妬に駆られました。
彼女の父親への愛情は、義父がこの世には存在しないということでどうにか許せる部分がありますが、わたしにとっての義兄は、この世界に生存しているのです。
彼女は父よりも、いつでも兄のことを心配し、会いたいという想いを抱えて生きているのは違いありません。
わたしの義兄に対するジェラシーは、果てしなく、わたしを苦しめ続けました。
わたしは或晩、彼女がわたしと義兄のどちらを愛しているのかを知りたいと激しく願いました。
それを知ることができるなら、どんな手段でも構わないと想ったのです。
わたしはそして、彼女の兄を、拉致し、わたしも拉致されたかのように見せ掛け、どちらを彼女が救い、どちらを見殺しにするかを彼女に選択させるというのはどうだろうと発案しました。
もし、それで彼女がわたしを選ぶのなら、彼女は兄より、わたしを愛していることを知ることができる。
この拷問にも想える苦痛から、わたしはようやく解放されるでありましょう。
また彼女と、楽園のような喜びに満ちた生活を送ることができるのです。
わたしのこのタクティックス(tactics)を、止めようとするわたしはこの脳内には最早存在しませんでした。
そのため、"それは"、実行されたのです。
そして、あのような結末を迎えたというわけです。
わたしは、絶望の底に、打ち堕とされ、這い上がるすべを持てませんでした。
あのあと、わたしは自分で拘束具を外し、義兄の拘束具をも外して、眠ったままの彼を家まで送り届けました。
腹いせに、乱暴の一つや二つ、したい想いはありましたが、わたしの誠実な性格が、それを許しませんでした。
そしてあの晩、わたしは彼女と暮らすマイホームへ帰りました。
ドアを開けて中に入ると、彼女が驚いた顔で出迎え、わたしに向かって「生きてたの?」と言いました。
わたしはあのあと、何故だかわたしを拉致した者に静かに拘束を解かれ、助けられました。と彼女に仕方なく嘘をつきました。
彼女はわたしの目を、じっと見ることもできないほどの負い目に苦しんでいる様子に胸が心底痛みました。
わたしは彼女を強く抱き締めましたが、彼女はそれを拒みました。
その日から、彼女はどこか、わたしを避けたがっているかのように、幾度もわたしを拒むことがありましたが、わたしは諦める訳には、いきません。
彼女の愛なしでは、生きて行くことはできないのです。
そう泣きながら彼女に言うと、その晩だけ、彼女はわたしを抱いてくれました。
わたしは母を知らないので、まるで彼女はわたしの母のようです。
こうして、わたしたちの、幸福なる拷問の日々は、ずっとずっと、続くことでしょう。
あの死神が、わたしたちを迎えに来るまで。

















Washed Out - Don't Give Up [OFFICIAL VIDEO]













神からの贈り物

2017-11-25 16:37:11 | 物語(小説)
わたしにも漸く、愛おしい恋人ができた。
彼はアメリカ人で、美しい白人の男性である。
わたしはそれからというもの、彼と毎晩、恍惚なセックスに明け暮れている。
彼とのセックスは、感じたことのない快楽。
わたしは彼と出会えた事を心から神に感謝している。
掛替えのない素晴らしい神からの贈り物だ。
こんなに幸せを感じたことがない。
彼はまるで、わたしを母親のように求め、愛している。
わたしと彼は、相互に依存し合っている。
”なくてはならないもの”わたしたちは互いにそれを知っている。
嗚呼こんな幸福の時がわたしの人生に待っていたなんて!
あのとき死ななくて本当に良かった。
わたしは甘えてくる彼をまるで息子のように愛する。
わたしたちの愛は決して壊れることはないだろう。
決して、わたしたちの愛は離れることはない。
例え、死が、わたしたちを離そうとも。
わたしたちの愛は、永遠に。
目が醒めると、彼がいなかった。
部屋中探してもどこにもいない。
靴も携帯もそのまま。わたしの携帯に連絡も入っていない。
わたしはパソコンを立ち上げた。
するとそこに、見知らぬアドレスから一通のメールが届いていた。
「おまえの愛する男二人を預かっている。URLをクリックしろ」
とだけ書かれていた。
わたしは恐怖で貧血になって震える手でURLをクリックした。
開いた画面には、左右二つの画面に分かれて電気椅子のような椅子に縛られた二人の覆面を被せられた人間が一人ずつ映っていた。
そしてその椅子の左手から、それぞれ死神のような格好をした髑髏の覆面を被った人間が手に大きな一メートル近くある剣を持って立ち現れた。
そしてそれぞれの男が、椅子に縛り付けられている人間の覆面を取った。
右の画面の椅子にはわたしの実の兄が気を喪ったまま座らされていた。
左の画面の椅子にはわたしの恋人が怯えて蒼褪めた表情で座っていた。
わたしはその瞬間、意識を失いそうなほどのショックを受けた。
画面の下に、「カメラとマイクとスピーカーをオンにしろ」とテロップが出た。
わたしは急いでマイクとスピーカーとパソコンの内蔵カメラをオンにした。
スピーカーからは何故かドリーミーなシューゲイザーサウンドが流れている。
ヴォコーダーで音声を変えた低い声が、サウンドの中から変にゆっくりとした口調で聞えてきた。
「おまえの・・・愛する男が・・・ここに・・・二人いるのが・・・わかるか。おまえは・・・これから、どちらを・・・生かし、どちらを・・・殺すかを・・・選べ。一人は・・・拷問にかけて・・・殺すが、一人は・・・このまま・・・家に帰してやる。おまえは・・・この二人の・・・男のどちらを・・・拷問にかけて・・・殺したいのか」
わたしはその声が何を伝えたかを把握し、途端に全身からどくどくと生温かい汗が流れ出してきた。
「選ぶ時間を・・・五分間・・・与えてやる」
わたしは画面の中の、二人を交互に見た。兄はいびきをかいて眠っている。恋人は、わたしの目をじっと透き通った目で見詰めている。わたしのカメラに映った顔が向こうからも見えているのだろうか?
スピーカーの中からは、この極限の選択を迫られているわたしたちの心境とまったくアンバランスでアイロニーなずっと気怠くも甘美なユートピアへのマインド・トリップを促すようなサウンドが流れている。
わたしはその4分の間、彼の目を見詰めながら神に祈り続けた。
「神よ・・・神よ・・・神よ・・・、わたしの神よ・・・」
「さあ・・・決めたか。どちらを・・・拷問にかけて・・・殺し、どちらを・・・助けるか。言え。言わないなら、二人とも・・・拷問にかけて・・・殺す。それが・・・おまえの・・・選択だ」
わたしは絶望のなか、”最初から”決まっていた答えを、震えながら言った。
「わたしの恋人を、拷問にかけて殺してください」
その瞬間、画面に映る彼の目から、涙が流れ落ちたのを、わたしは観た。
わたしはあれほど美しい涙を、観たことはない。

わたしは彼と出会えた事を心から神に感謝している。
掛替えのない、素晴らしい神からの贈り物だ。


















Washed Out - Weightless