あまねのにっきずぶろぐ

1981年生
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

映画「ベニーズ・ビデオ」普遍的な殺害、豚の死なんて、なんてことない。

2017-01-18 07:41:29 | 映画
我が愛する監督ミヒャエル・ハネケ監督の1992年の映画「ベニーズ・ビデオ」を観ました。








あらすじ

父親の農場で豚がスタンガンでと殺(屠畜)される映像を撮った少年ベニーは、そのビデオを日に何度と巻き戻してはコマ送りにしたりして観ている。
ある日少年は見知らぬ少女を自分の部屋へ招き、××××××う。













面白かったな、この映画はすごく。
今までハネケ監督の映画では「ピアニスト」がいっちゃん好きだったが、これは超えたかも知れないん。

愛するハネケ監督ですが、この映画について笑いながら話すハネケ監督はちょっとこえーなと想いました。
で、この映画を観て、殺人シーンで興奮してしまった自分もちょっとこえーなと想いました。

この映画は特に、ハネケ監督の自分に対する自己憎悪と自罰の深さを感じました。
相手がいたいけな少女だったからかもしれません。
自分も自己憎悪、自罰、自責といったものが激しい人間なので、ハネケ監督の暴力性や人をこれでもかというほどに傷つける表現はだいたい
「ざまあ」という感じで観てしまいます。
もっともっと痛めつけてやりたいという人間をあえてハネケ監督は選んで、傷つけ、痛めつけています。
たぶんオーディションなんかで今回の少女役の子を選んだとしたら、ハネケ監督は無性に痛めつけたくなるような子を求め、選んだはずです。
それはまぎれもないハネケ監督の純粋な愛だと想うのですが、自分を殺したくなるくらい憎みつづけている人間以外は、その愛は届きにくいものだと想います。

残酷性や冷酷性、異様さや利己的な部分に焦点を合わすと後味の悪いだけの作品になりかねません。
でもわたしはこの映画はとてもすっきりしました。
非常に、胸のつっかえが取れたなという感じです。

それは自分が女であるからかもしれません。
どこかむかついてしまう少女と自分を重ね合わせ、そこに救世主ベニー少年が現れ、これでもかというほどに苦しめて殺してくれてどうもありがとうという気分です。
たぶんハネケ監督自身もこの映画を観ていつもすっきりしているのでしょう。
豚の屠殺の映像を何度も観せるところなんかも、ハネケ監督は豚と自分を同一視して、自分が無残に殺されるところを喜んで観ている人だと想います。

でなければ、まず、撮れないでしょう。この映画は。
むしろ喜んでも観られないのに何度も執拗に映しているなら、それは偽善になってしまいます。

ハネケ監督は自分の異様さを喜んで表現してそれを観たい人間であるはずです。
だから観る人によってこの映画はとってもすっきりする映画になるわけです。

ハネケ監督は人間の汚さ、残酷さ、無機質さ、滑稽さ、醜さを表現するなかに自分を見つけて、ああわたしだ、わたしじゃないかと納得しては絶えずホッとしたい人間なんだと想う。
それは間違いなくハネケ監督の世界に対する深い関心と愛であるし、自分への受容なんだと想う。
好きな他者と好きな自分だけを認める人間ではないことは確かだ。
だからハネケ監督の愛は本当に深い。


もし本当にハネケ監督が、自分と少女、また自分と豚を同一視することなく、他者として撮っているなら、インタビューで笑って話すのは、これは人間としてどっか飛んでってると想います。
芸術作品のためといえども、尊い命である豚一匹犠牲にしているわけです。

ハネケ監督が笑ってるのは、「豚の死なんてなんてことない」と笑ってるのではなく、「自分の死なんてなんてことない」と笑っているのです。
だから最強の監督と言えます。

そうでないというなら、わたしはこの映画は撮って欲しくない。
そうでないというなら、それは、偽者だからです。

でもハネケ監督は、本物です。
確信します。
この映画を真面目に撮って、笑って話すハネケ監督は本物であり、その愛を、わたしは受け止めました。
是非同じテーマで、わたしは物書きなので、小説でバトンを繋げていきたい。
それだけ非常に面白いテーマです。

そしてハネケ監督のそんな苦しみは今の時代において、とても普遍的なものなのです。
気づいているか、まだ気づいていないかの違いがあるだけで。





映画「天地創造」 神は不完全を愛する

2017-01-18 01:32:11 | 映画
1966年のジョン・ヒューストン監督の映画「天地創造」を観た。
たぶんこの「天地創造」や「十戒」「ベン・ハー」などの映画はテレビで放映されていたときに亡き父と一緒に観たことがあるはずだが
まったく覚えていなかった。







カイン役を演じたリチャード・ハリス。冷酷な人類最初の殺人者というイメージはここにはありませんでした。
純粋で臆病で清らかな青年のイメージです。







ジョン・ヒューストン監督はノア役の人であったと観た後に知りました。
動物をすごく愛する監督であるようで、方舟の中で象と戯れていたりとノアのイメージにぴったりでした。











神の使者を演じたピーター・オトゥールです。
とても目が美しく、嗚呼この人は是非ほかの映画でイエス役もやってほしかったなぁと残念な想いです。







ここから感想というよりわたしの聖書論、神論となります。


クリスチャンの母を持ち、中学に上がるくらいまでずっと聖書を学んできた自分にとって、聖書とは特別なものなのですが
まだ完読もできていないし、ほとんどは忘れてしまっているので、こうやって映画なんかで映像として観ると
改めて聖書の面白さの魅力に感動します。

自分が特に常に意識して生きてきたからなのかはわかりませんが、聖書の神はものすごい魅力に満ちていると思います。
自分はギリシア神話やシュメール神話、日本の天照大御神とかに対しては、さほどの魅力を感じないのですが
聖書に登場する神々と、そしてイエス・キリストをほんとうに愛しているのです。
宗教に属することはなくても、聖書(外典も含み)の魅力にとりつかれている人はとても多いと思います。
聖書が世界一のベストセラーでありつづけるのは、世界にキリスト教徒が多くて無料で配布され続けているからという理由では決してないはずです。

何故こんなにも聖書は人々を魅了しつづけるのだろう?と考えると
内容は確かにどの神話よりも素晴らしいものだと思いますが、それ以上に、神々の持つ魅力の「バランス性」が素晴らしいからではないかと感じました。
聖書に登場する神々とイエス・キリスト、どの存在も、なにか異様な闇を背負っている存在に思えてならないのです。
「光」と「闇」の魅力をとてもバランスよく持ち合わせた神ではないだろうか。
人間を超越した存在であることをひしひしと感じるのに、同時に人間じみた感情的な存在でもあるというはかりしれない魅力。
人間の理解を超えたところにいて、何を考えているのかわからないというような存在ではなく、人間のものすごい近くまでやってきて
人間に忠告したり、生贄(犠牲)を求めたり、怒りを示したり、人を試したり、親しい存在が死ねば涙を流したり、滅ぼした後には自らを省みて、もう二度と同じことはしないと人間に約束したりと
その心の内はとても人間に理解できる存在であるというところに、人々は魅力を感じないではおれないのかもしれない。

神にとって、またはイエスのような覚者にとって、他者の存在はどういう存在であるかというと
それは自分たちの愛する子供たちのような存在であり、同時に自分自身の分身たち、自分の違う姿という感覚で我々を感じているはずだと思うのです。
そんな存在たちを滅ぼしたり、苦しめたりするということが、どれほど苦しいことであるか。

神々とは、絶えずそんな苦しみのなかにわたしたちを眺めつづけている存在たちではないだろうかとわたしは思うのです。
そして神々もまた、我々と同じに、完全ではなく、共に成長しつづける存在たちではないだろうか。
創造主も、聖者も、ほんとうに完全であるなら、わたしたちにどのような干渉もする必要はないのではないか。


「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

(『マタイによる福音書』5章48節)


イエスが言ったこの「完全」という意味は、何の変化も必要はないという意味の「完全」を意味しているのではなく
わたしはすべてがほんとうの「自由」であることを知りなさい。という意味があるのだと思います。

「自由」であるという完全性があるからこそ、みずから欠けることを望むことができます。
みずから思い悩んで生きるということを完全性によって選択することができます。
たとえば今日は喜びを感じたなら、明日には苦しむことをみずから選択して苦しむことができるという「自由」はそれは変化を必要とする「完全性」であるわけです。

「自分のなりたいものに自由になれる力が十分に備わっていることをあなたがたも知りなさい」という意味をイエスは言ったんだとわたしは思うのです。

だから話を戻すと、神々が「完全」ではないのは、それは「完全」であると知るがゆえに、みずから「不完全」であることを望んでいるのではないだろうか。
すべてがほんとうに「完全」であるために、「不完全」になれるのではないだろうか。
そのために神々は、われわれを嘆くこともあれば絶望的な思いを抱くこともあるかもしれない。
それは「不完全」であることの喜びを知っているから、「不完全」であるがゆえの苦しみをも知るからではないだろうか。


イエスが、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と言ったのは
われわれがもともと完全ではないのに完全な者になりなさいというような無茶を言っているのではなく、
「あなたがたはすでに完全であるのだからそれを認めなさい」と言っているのだと思うのです。

そう考えると、神々やイエスが何故わたしたちの近くに降りてきて、共に嘆き悲しんだりするのかという理由が理解できてきます。
彼らはほんとうにわたしたちを愛しているからです。
共に喜び、共に悲しめること以上の喜びは、どこにもないのです。
彼らはわたしたちを喜ばせるためにも、同じようなことで喜んだり悲しめるようになるためにも、「不完全」で在ることを
みずから望んでその「不完全」のなかでわたしたちを見つめつづけている存在なんだと感じる。

「不完全」であるがゆえに、共に成長していけることのとても深い喜びを一緒に感じることができるというものです。

そんな神々の存在を、わたしは聖書からいつも感じるのです。

神はいつでも、生命の喜びに目を向けている。
それが、神の存在です。
自分のなかに存在していると感じられる、神の愛です。
神をほんとうに失うなら、生命は生きる喜びをもうけっして感じることもないのです。