あまねのにっきずぶろぐ

1981年生42歳引き篭り独身女物書き
愛と悪 第九十九章からWes(Westley Allan Dodd)の物語へ

鬱憤は、君を安らかにするだろう。

2017-10-03 20:35:44 | 日記
今日はコンビニと、郵便局と、市役所へ行って参ったのであるけれども、一体何年振りに外を歩いたかを俺は憶えちゃおらないのだ。
ぱはは、なんでか急に、今日は外に出れそうな気がしたので、出たのだけれども、実につまらなかったし、また面白くもあった。

まず俺は、何年振りかに電車に乗ったのだが、切符を買う方法を忘れかけているんではないかと想ったものの、それはなんとか買えた。
エスカレーターが何やら故障でもしたのか、通れないようになっていて、エレベーターを使ってくれと言われたので、俺はエレベーターに乗った。
するとおばちゃんが、すいませ~んとかなんとか言って入ってきて、エレベーター内で二人になった。
俺は無意識に、「ここでエレベーター乗るの初めてや、へへっ」と言って笑うと、おばちゃんもそれに合わして、別段ちくともおもろくもなんともないはずなのに、一緒に「へへっ」と笑うてくれたのである。
しかし俺は知らぬおばちゃんと二人で「へへっ」と笑ったものの、一体なにが面白いのか、さっぱりわからなかった。

そして俺は電車に乗った。代わり映えの全くしない風景たちを窓から眺めながら。
たった一駅先の駅に降りなければならんところを、俺は阿呆なことに、二駅乗り継いで、そこで降りたらば、市役所がどこにもありまへんやんけ。
阿呆か、なんで俺は二駅乗ってきてしまったのだ、と呆れ帰り、自嘲の笑みを浮かべながら疲れた身体でまたもや切符150円を買いさらし、一駅戻ったのである。
そしてこんだ、間違えずに駅に到着し、俺は見覚えのある商店街を歩き腐ったのであるが、実に、厭だった。
何が厭かって、色んな臭いがぷんぷんしているところを歩かんければならんのがひっじょおに俺は苦痛であった。

何故なら俺は完全菜食者(Vegan)であって、畜肉やら魚介類やらの焼いたり煮たりした匂いを嗅ぐのが気持ち悪くて、気色悪くて仕方ないからである。それに咥えて、って誰が何を咥えてんねん。
それに加え、卵や乳製品の匂いなんかも嗅ぐのが苦しい。
その匂い=虐待と拷問と虐殺の匂いだからである。
も、畜肉の焼いた匂いとか、人肉を焼いた匂いにしか感じられないのだよ。
考えたら気持ち悪いでしょう。串焼きの大きな写真の看板があったが、人肉串焼きにしか見えなかったからね。
だから俺は外に出るのだけで苦痛でならないからもうみんな早く完全菜食者になってほしいと切に願う次第である。

そして商店街を通り抜け、俺は市役所へ参った。
そして期限が切れた障害者手帳を見せ、更新したいという旨を伝えた。
すると、これはもう三ヶ月を過ぎてるから、また一から病院で診断書を書いてもらって、新しい写真を貼って、という実に面倒なことをしなくてはなりませんと言われ、俺はげんなりとした。
あと三日早く来てたらば、こないなことにならんかったのに、なんで俺は三ヶ月を過ぎてから来てしまったのかあ、しまったあっ、と後悔してももう遅い。
俺はどこまでも阿呆んだらで、馬鹿者であることは承知だと納得し、潔くその旨をこんだ担当の○○○さんという男性に伝え、○○○さんは今度一人でうちへやってくる、部屋にも上がらせてもらうということを言ったが、男一人で女(それも熟女だぜ?だぜって俺はだれやねん)の部屋に上がるとは何事か?絶対、なんか、善からぬことを考えとるんやろなあと想いながらも笑顔で承諾し、俺はあっさりと市役所を後にしたのだった。

市役所の地下に、ローソンが出来たという看板があったが、アレは本当なのだろうか?
もし本当なら、握り飯のひとつでも買ってこまして、この激しい疲弊を和ませたかったが、俺はもう探すのも人に「ローソンどこですかね?」などと問い質すのも面倒だったので、もうええわ、帰りまっさ。と潔く諦め、俺はまたぞろ来た商店街を戻って歩いたのだった。

途中の本屋さんの前に「エバンゲリヲン 日本刀展」という訳のわからない看板が見えた。
なんなんやろう、この国って。
俺はますますこの日本の国というか、この町のわけのわからなさ、この町のめちゃくちゃなやっつけ仕事感で作られた町の感じに深い吐息を漏らし、ヨーロッパの田舎とかに住みたいなあと想うのだった。
確かに町田康の小説的な面白さはあるにはあるが、俺はとにかく朝起きてバナナココアスムージーだけ飲んで約20分以上歩いて来たので、その疲労から最早、厭世観をも超えて、ある一点をじっと見詰めながら歩く、みたいなロボットのような人間離れした存在感と成り果てていた。

しかしここにきて、俺はまたもや、乗り過ごしたのではなくて、こんださっき間違えて乗り過ごした駅へと乗り間違えてしまったのである。
俺の間抜け加減にはもう、悟りを開いた誠実な空虚の眼が現れていたことだ。
ぅでも、俺はうきうきとしていた。
なんでか。それは今からもう帰るからである。
このうきうき感のなかに、行きしなの憂鬱感は霧消していたんだ。
俺はまた電車に乗って、やっと最寄駅について、そして駅のすぐ傍の100均店に入った。
そして約25点ほど籠に入れ、レジで計算してもらうと俺の所持金が300円ほど足りなかったので、「すんません、買い過ぎちゃったので減らします」と言って俺は、可愛いブラウンのふかふか便座カバー二つと、アパートが建ち並んだ絵が表紙の可愛いメモ帳を泣く泣く減らし、お店の店員の女性は気前が良かったが、「あれ、これどないなってるんや・・・」と計算がわけわからんくなったようで、「すいません、もう一度打ち直しますね」と言って、申し訳ないことにもう一回、彼女に打ち直させねばならないことになったのである。
たぶん後ろに並んではったおばちゃんは、「んもぉ、まだぁ?ちょっとぉ、買い過ぎよぉ、あなたぁ、ちゃんと暗算して少なめに買えばええもんを、ばかね、おほほ」と潜在意識で考えていたことであろう。

そして俺は無事、100均店を出て、いよいよ我が家に向けて歩き出したのであった。
向かい風がケッコー、強かった。
それでも俺は、負けなかった。
何年振りかに外を長距離歩いた為、足が棒のようだった。
それでも俺は、歩いた。
歩き続けた。
俺の居場所、俺の家、俺の楽園、俺が最も幸せを感じる場所、マイホームに向けて。
俺は家に着き、俺の旅は終ったと感じた。
短い旅であったが、色々なことを俺は見たつもりだ。
でも俺は想うんだ。プラットホームの床にひっくり返って死んでいた緑色のカメムシ。
ミナミアオカメムシって奴なんだろう。
マンションの階段でしょっちゅう見つけては下の植木に逃がしてやっている奴らだ。
あいつが今日は、ひっくり返ったまま死んでいた。
あいつは、ひょっとして、俺じゃないのか?
俺はそいつの死体を、人に踏まれないようにと掴んで端に置いた。
あいつは、俺じゃないのか?
なんで死んでいたんだろう?
見ればプラットーホームには、幾つものあいつらが、ぺしゃんこに踏み潰されていた。
みんな地面をもっと見て歩けばええのにな。
みんなもっと、下を、見て歩いてもいいんじゃないのか。
小さな命が、地面にうじゃうじゃいるよ。

でもそれは、俺だよ。

なんてね。

















The Most Sad World

2017-10-03 08:43:17 | 
6時間眠って、目が醒めるとみちた(うさぎ)の寝息が聴こえていた。
ああ良かった。彼は今日も生きているんだ。
あとどれくらい一緒に生きていられるのかはわからない。
わたしはふと想う。
一緒にわたしとみちたは眠っていた。
同じ眠りの時間を過ごしていたんだ。
それはもしかしたら、同じ時空の世界を過ごしていたのかもしれない。
向こうの世界ではわたしとみちたは起きていて、違う世界を過ごしていたのかもしれない。
違う関係を過ごしていたのかもしれない。
わたしはこの世界では、本当に彼にとって酷い飼い主かもしれない。
彼を喪うことを日々恐怖しながら、彼を大事にしてやることができない。
サークルの中はひどい有様で彼を一度すら撫でずに寝る日も多い。
誰かはわたしのことを動物虐待者と呼ぶかもしれない。
それでもわたしは彼の頭を数回撫でる元気すらない毎日を送っている。
もし、存在は無数の時空を生きているのならば、わたしの生きるこの世界は、
最も苦しくひどい世界であらねばならない。
彼がわたしに一度も撫でられずに眠るこんなに哀しい世界以上の、
わたしと彼の世界があってはならない。
わたしと彼の生きるこの時空世界は、わたしのなかのわたしの生きる世界のなかで、
一番不幸な世界であらねばらない。
誰かはこの世界で、人を殺し、人を拷問にかけている。
誰かはこの世界で、動物を殺し、その死肉を喰らって生きている。
そんなに悲しく苦しい世界は、彼らの生きる世界のなかで一番悲劇的な時空世界であらねばらない。
でも他の世界では、彼らは殺した人間と微笑み合って、
その肉を食べた動物たちと家族となって、広い野原を駆け回って遊んでいるのかもしれない。
眠りの世界では、すべての時空が繋がっていて、わたしたちはそれを知るので、
わたしたちはどうしても眠らなければならないのかもしれない。
わたしたちは、別のわたしたちを生きる為に、眠りに就くのかもしれない。
死ねばその一つの眠りは醒めないというのならば、
わたしたちはここよりは幾らか安らかな世界を生きる為に醒めない眠りへと就くのだろうか。
そしてまたいつか、本当に苦しく哀しい世界を生きるとき、
わたしたちはまた、心から生きているという実感をもって、
ここ以上の苦しく哀しい世界はないようにと願って、生きるのかもしれない。
生きる感覚をどこまでも求めるのならば、わたしたちは苦しく哀しい世界からは
逃れられないではないか。
最も苦しく悲しいわたしたちの生きる世界が現実で、
それ以外の時空間は、すべてを幻想とわたしは呼ぼう。
そしてわたしは、この世界が最も苦しく、悲しくないというのならば、
ここ以上に苦しく悲しい世界を創造し、その世界をわたしは生きよう。
そしてこの世界は、幻想と呼ぶに相応しい。
あちら(物語の世界)がわたしの現実であるのだから。













Ricky Eat Acid - Séance for a Dead Pet