被害者の、同意を得て殺したと供述しておけば罪が軽くなったかもしれないものを、
何故彼はそれを言わなかったのか、それは彼自身が己れの罪に最早耐え切れないものを感じ、
本当のことを言って死刑になるほうがよっぽど楽だと想えるほどに彼は苦しかったからではないかと俺は想像してみる。
そこまでの良心を持ちながら何故人を殺す経緯に至ったかというところが今回の事件の一番の闇となるところである。
「人を殺したいという感覚、衝動は昔から人間の中にある」と某霊能者の言った言葉が、俺はこの闇を見詰め続けるにあたり、必要なる概念であると想ったわけ。
これは快楽殺人的欲望が、誰のなかにも潜んでいる。ということを言っているのである。
その欲望を、では一体何によって多くの人間は抑え続けていられているのか。
・理性
・親の愛情
・周りの人間の愛情
・友情
・大切な恋人
・大切なもの
・利害得喪を計算した自衛、保身本能
これらのものが、まず欠けているのかもしれないね。
死刑を望む人間たちに。
彼らは快楽殺人者と、何一つ変わりない。
人を殺すということに、快楽を覚えているのは確かだろう。
そうでなければ、何故人が殺されるということを望むことが出来るのか。
俺は死刑は望まないよ。
俺は快楽殺人者じゃないからね。
死刑を望む人間たちの考えが、俺は理解しがたい。
これは死刑を望む人間たちが、快楽殺人者の考えが理解しがたいと感じるのと同じなんだろう。
彼らは何故そうなってしまうのだろう。
快楽殺人者は少数派だが、死刑賛成者はこれはまだ多数派に上る。
一体どちらの問題のほうがこの世界において深刻であるのか。
彼らは確かに、自分の手で人を殺しはしない。
他者の手によって、人を殺させようとしているからね。
そっくりだろう?肉食者と、と殺(屠畜)者の関係とね。
彼らは自分の手を決して汚したくはないんだ。
そう、かつての俺もそうだった。
一体、快楽殺人者と、俺の違いとは何なのか。
快楽の為に、何をどれだけ殺してきたのか。
悲痛な悲鳴を上げ、命を請う生命に対し、他者の手によって、俺は何をさせてきたのか。
俺は彼らに拷問をずっと与え続けてきたよ。
彼らの拷問を、俺は快楽に変えて生きてきたよ。
”快楽殺人者”、俺はずっとそう言われ、恐れられてきた。
彼らに。