またか。また、余のブログにのっけから、人様に対する敬意の糞も皆無な人間から自棄にネチネチな厭味たらしいコメントが届いたのである。
しかし、今回は、これまでと少し違う。どこが違うかと言うと、今回少し、長文のコメントである。
これまでは人を小馬鹿にしたような短文厭味コメントばかりであった。
この長文ハラスメントコメントの中に、余は余に対する、この人物の執拗な強い執着を見た。
余はとにかく、絶対に負けるわけには行かないので、これからも余に対するハラスメントに、真っ向から闘いを挑んでゆく所存である。
まず、この人物はそのハンドルネームからして、どこかアホっぽい人物である。
・コメントを書いた人
不動明王っ子
不動明王とは、梵名アチャラナータ(अचलनाथ [acalanātha])、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊である。
この人物は、不動明王マニアであるのか、はたまた自分は不動明王の一人子であるという誇大妄想に取り憑かれた人間であるのだろうか。
どちらにしろ、どこか阿呆な自分を自分で馬鹿にしているかのような自虐的なハンドルネームである。
余は今日も、朝起きたときから落ち込んでいる。またも、6人もの尊き命が、国家によって惨殺されてしまったからである。
人間のすべてを愛する余は、ただただ悲しく、虚しい。
彼らの悲しみがどんなものであるのか、余は知りたかった。
それが知れないままに彼らが此の世を去ってしまったことに、深く虚しさを感じないではいられない。
そしてようやく酒を飲む為に夕方過ぎに起きてパソコンをONにしたら、このコメントだ。
さらに余は悲しくなり、ハートブレイクは、無礼キング♡に、なったのである。
なんと無礼なコメントであろう。
またも、「はじめまして」の挨拶すら言えない戯けた始まりで、敬意が微塵もない。
・コメント
たまに拝見させて貰ってますが
引きこもりの原因が
あまねさん自身の身勝手から生まれたんですね。
文章が幻想と理想像とビジュアルバンドが書いたような詩で美化し過ぎのような
気がしました。
仮にも本当だったとしたら
強烈な体験をされたと
思いますが
10年も引きずるのは
言い方が悪いようですが人生が
勿体ないような気がします。
ふざけてるなあ。ほんま。たまにしか覗きに来ないくせに、何を偉そうにネチネチと厭味を連ねているのか。
一人の人間の、死にかけるほどの苦しみを、この人物は「身勝手」としか解釈できないようだ。
例えば一人の人間が人を殺してしまったとき、あらゆる要因がそこには存在している。
たった一人の身勝手で、殺人が起こることはない。
そんなことは少し考えたらわかることである。
しかしほとんどの人間は、それすらも考えようとしない。
そこが人間が生きてゆく上で、一番に大事なことであるのに。
人の苦しみを想像すること。他者の悲しみを想像すること。
それが人間にとって、一番の大切なことである。
他者の苦しみ悲しみを共有、共鳴することこそ、人間の最も深い喜びである。
でもほとんどの人間はそれをしない。それができない。
他者の身勝手さを嫌悪し、責め、自分はそのような身勝手さはないと想って生きている。
自分はちゃんと生きてるのに、あいつは生きていない。ムカつく。
そして人が一生懸命に人と生きてゆく苦痛を共鳴したいと想って書いているブログに浅薄で厭味な感想をネチネチと連ねて送信する。
相手が傷つこうが、なんとも想わない。
何故なら「身勝手」な人間だから。
自らの身勝手さで破滅したような人間を傷つけても、どうだって良い。
敬意?そんなもの必要ないでしょう。身勝手な人間に。
「はじめまして」の挨拶?なんでそんなことを身勝手な人間に対して俺がしなくてはならないのか?
俺は不動明王っ子だぞ。ふざけとったらあかんどこらぁ。どらぁ。
まるで極道である。この自分は、自分がどれほど身勝手な解釈をして身勝手な言い分を言い連ねて来ているかも気付いていない。
言いたいことゆうて、ははは、すっきりしたわ。じゃあな。つって去ってゆく人間じゃねえのぉ?こいつもどうで。
こいつもどうで、人間を傷つけてもなんとも想わない人間なんじゃねえのぉ?
俺はブログで、本名も顔写真も大量に晒しているが、こいつは何一つ個人情報を晒していない。
安全圏から、何をゆうてけつかってこましてやがるんですかぁ?
しかもこの不動明王っ子なる人物、自分の年齢さえも書いておらない。
今時ビジュアルバンドを馬鹿にしたり、時代がおかしくないか?
何故ならこの世界は、美化しすぎているようなもので溢れ返っているではないか。
それに俺は詩を書いたわけじゃないからね。あ、俺っつっちゃったけどぉ。
余はその記事で、詩を書いてないからね。
しかも余は、本当のことを書くと言ったのに、「仮にも本当だったとしたら…」ってどうゆーことですかあ?
この人間はどこまで人を信用できないのか。
本当の体験やゆうてるやんけ。どこに耳憑いてますのぉ?
耳に憑いた目で、読んでましたん?
それならまあ、しょうがないですわなあ。
「10年も引きずるのは
言い方が悪いようですが人生が
勿体ないような気がします。」
って勿体無くないだろう?
あなたは、最も愛する恋人から腹や背中を何度と想い切り蹴られてボッコボコにされる経験をしても、十年は引き摺らないんですかね?
ははは、あなたはそうなら、それでいいじゃないですかあ。
なんでそれを余にも、当てはめてくるのですかあ?
あなたの人生じゃない。
余の人生は、余の人生だ。
なんであなたに人生勿体無いとか言われなくちゃならないんですかあ?
言い方が悪いんじゃない、言い方があなたは厭味すぎやしませんかあ?
言い方が、気色悪い。気持ち悪い。なんで人の人生、ちょっとブログ読んだだけで、人生勿体無いと、どの口がゆうてるんですかねえ?
わたしは絶対に、死ぬ迄引き摺りますよ。
本当に人間を愛しているからです。
愛しているのに、殺され掛けたんですからね。
あなたの感覚は、わたしは恐ろしいと感じます。
人が死に物狂いで苦しみ続けて生きてきたことに対して、「勿体無い」とか軽々しく平気で言えるんですからね。
あなたは相当捻くれてますよね。
虚無と良く似ています。
自分はこれこれこれだけの辛い経験を通して生きてきたが、自分はそれでも10年引き籠ることはなく頑張っている。
だのに貴女は何故頑張れないのですか?
貴女にも頑張れるはずじゃないですか。
そうあなたは言いたいわけです。
虚無の場合は、あからさまに働いていない人間に対する差別を向けてきましたが、あなたは「引き籠ることは人生の無駄である」と遠まわしにわたしに言ってるようなもんですよ。
なんでそんなことがあなたにわかるんですかね?
それは人の人生の価値を、浅はかな考えで決め付けてしまっているからです。
人はつらくとも、外に出て生きるべきだ。
多くの人はそれを遣ってるんだ。
あなたも遣るべきだ。
あなたはただの頭でっかちなんだと。
つまり他者を否定して、自分を肯定したいわけです。
そこが虚無と全く同じです。
自分を肯定して、わたしを否定する為にあなたはコメントを書き連ねて来たんです。
あなたの遣っていることが、本当に正しいと想っていますか?
わたしの苦しみが、あなたにも全く届いていないんだと想います。
ほんの幾つかの記事を読んだだけで、これほど偉そうに人にアドバイスしたり、人を馬鹿にするようなコメントを書いてくる人の言うことを、なんでわたしが聴かねばならないのでしょうか?
何故、人が一生懸命に生きていることを、「とにかく頑張れ。あなたの願う人生をがんばれ」と応援できないのでしょうか?
わたしは外に出たところで、何かが変わるわけではありません。
引き籠りを抜けたところで、何かが良くなるわけではありません。
何の根拠もないのに、そのほうが良いとあなたは決め付けています。
他者の人生を、自分の想う人生にしようと躍起になっています。
何故そうなってしまうのか、わかりますか?
これも「投影」です。
すべて「投影」です。
あなたの歩みたくない人生を、わたしが歩み続けているから、あなたにはわたしの人生が許せないのです。
わたしは自分の人生を愛しています。
だからこの今を、元恋人が与えてくれたことに心から感謝していることを記事にも書きました。
あなたにはそれが理解できなかった。
そんなはずはない。とあなたは想っているからです。
わたしが引き籠り10年歴、部屋も片付けられない、掃除もできないほどの鬱状態であるこの今を、在り難い想いで生きていることが、あなたは納得できないからです。
しかしわたしは本当に感謝しています。
この人生の御陰で、自分は完全菜食を続けることができている。
すべてに感謝しよう(感謝したい)という想いで日々苦しくとも喜びを感じて生きていられている。
ただ外に出て真っ当に働いていたなら、引き籠りを抜けたなら、それができていたとは想えません。
わたしは自分の、このわたしだけの人生を、否定したくないのです。
すべてを肯定したいのです。
それはこの世界の、すべてを肯定してゆくことに繋がってゆくからです。
あなたの言っているすべてが、本当に大きなお世話です。
ビジュアルバンドの人たちだって、一生懸命に自分の好きな詩を書いているのです。
あなたに馬鹿にする資格はありません。
人が一生懸命に頑張ってることを馬鹿にするあなたは哀れであると想います。
あなたはあなただけしか歩めない道を生きてゆけばいいじゃないですか。
わたしはあなたの娘でもないのに、なんでそんなことを言われなくてはならないのかわかりません。
何故、人と、あなたと同じようにわたしが生きてゆかなくてはならないのですか?
あなたが自分の人生に本当に満足していたなら、こんなことをいちいちわたしに言う必要はあったのでしょうか?
自分の人生に満足していないから、人の人生が気になるのではないのですか?
あなたはわたしの人生についてとやかく言うより先に、自分のすべてを肯定することに頑張ってみられてはどうでしょうか。
あなたは気が向かないのに、散歩に出たり外に出たりしているからわたしにもそれが良いと想うのでしょうか?
言っておきますが、人のそんな言葉で引き籠りが外に出られるなら、苦労もありません。
あなたのすべての言葉が、厭味でしかありません。
もっと人を、一人の人間をどこまでも深く知ろうとしてください。
すればそんな軽々しい言葉は到底相手に言えるものではありません。
わたしを悲しませる為だけに言ったのであるなら、わたしは確かに深く悲しんでいますし、あなたもこの悲しみが届くようにと願っております。
さようなら。
がんばって生きていってください。
しかし、今回は、これまでと少し違う。どこが違うかと言うと、今回少し、長文のコメントである。
これまでは人を小馬鹿にしたような短文厭味コメントばかりであった。
この長文ハラスメントコメントの中に、余は余に対する、この人物の執拗な強い執着を見た。
余はとにかく、絶対に負けるわけには行かないので、これからも余に対するハラスメントに、真っ向から闘いを挑んでゆく所存である。
まず、この人物はそのハンドルネームからして、どこかアホっぽい人物である。
・コメントを書いた人
不動明王っ子
不動明王とは、梵名アチャラナータ(अचलनाथ [acalanātha])、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊である。
この人物は、不動明王マニアであるのか、はたまた自分は不動明王の一人子であるという誇大妄想に取り憑かれた人間であるのだろうか。
どちらにしろ、どこか阿呆な自分を自分で馬鹿にしているかのような自虐的なハンドルネームである。
余は今日も、朝起きたときから落ち込んでいる。またも、6人もの尊き命が、国家によって惨殺されてしまったからである。
人間のすべてを愛する余は、ただただ悲しく、虚しい。
彼らの悲しみがどんなものであるのか、余は知りたかった。
それが知れないままに彼らが此の世を去ってしまったことに、深く虚しさを感じないではいられない。
そしてようやく酒を飲む為に夕方過ぎに起きてパソコンをONにしたら、このコメントだ。
さらに余は悲しくなり、ハートブレイクは、無礼キング♡に、なったのである。
なんと無礼なコメントであろう。
またも、「はじめまして」の挨拶すら言えない戯けた始まりで、敬意が微塵もない。
・コメント
たまに拝見させて貰ってますが
引きこもりの原因が
あまねさん自身の身勝手から生まれたんですね。
文章が幻想と理想像とビジュアルバンドが書いたような詩で美化し過ぎのような
気がしました。
仮にも本当だったとしたら
強烈な体験をされたと
思いますが
10年も引きずるのは
言い方が悪いようですが人生が
勿体ないような気がします。
ふざけてるなあ。ほんま。たまにしか覗きに来ないくせに、何を偉そうにネチネチと厭味を連ねているのか。
一人の人間の、死にかけるほどの苦しみを、この人物は「身勝手」としか解釈できないようだ。
例えば一人の人間が人を殺してしまったとき、あらゆる要因がそこには存在している。
たった一人の身勝手で、殺人が起こることはない。
そんなことは少し考えたらわかることである。
しかしほとんどの人間は、それすらも考えようとしない。
そこが人間が生きてゆく上で、一番に大事なことであるのに。
人の苦しみを想像すること。他者の悲しみを想像すること。
それが人間にとって、一番の大切なことである。
他者の苦しみ悲しみを共有、共鳴することこそ、人間の最も深い喜びである。
でもほとんどの人間はそれをしない。それができない。
他者の身勝手さを嫌悪し、責め、自分はそのような身勝手さはないと想って生きている。
自分はちゃんと生きてるのに、あいつは生きていない。ムカつく。
そして人が一生懸命に人と生きてゆく苦痛を共鳴したいと想って書いているブログに浅薄で厭味な感想をネチネチと連ねて送信する。
相手が傷つこうが、なんとも想わない。
何故なら「身勝手」な人間だから。
自らの身勝手さで破滅したような人間を傷つけても、どうだって良い。
敬意?そんなもの必要ないでしょう。身勝手な人間に。
「はじめまして」の挨拶?なんでそんなことを身勝手な人間に対して俺がしなくてはならないのか?
俺は不動明王っ子だぞ。ふざけとったらあかんどこらぁ。どらぁ。
まるで極道である。この自分は、自分がどれほど身勝手な解釈をして身勝手な言い分を言い連ねて来ているかも気付いていない。
言いたいことゆうて、ははは、すっきりしたわ。じゃあな。つって去ってゆく人間じゃねえのぉ?こいつもどうで。
こいつもどうで、人間を傷つけてもなんとも想わない人間なんじゃねえのぉ?
俺はブログで、本名も顔写真も大量に晒しているが、こいつは何一つ個人情報を晒していない。
安全圏から、何をゆうてけつかってこましてやがるんですかぁ?
しかもこの不動明王っ子なる人物、自分の年齢さえも書いておらない。
今時ビジュアルバンドを馬鹿にしたり、時代がおかしくないか?
何故ならこの世界は、美化しすぎているようなもので溢れ返っているではないか。
それに俺は詩を書いたわけじゃないからね。あ、俺っつっちゃったけどぉ。
余はその記事で、詩を書いてないからね。
しかも余は、本当のことを書くと言ったのに、「仮にも本当だったとしたら…」ってどうゆーことですかあ?
この人間はどこまで人を信用できないのか。
本当の体験やゆうてるやんけ。どこに耳憑いてますのぉ?
耳に憑いた目で、読んでましたん?
それならまあ、しょうがないですわなあ。
「10年も引きずるのは
言い方が悪いようですが人生が
勿体ないような気がします。」
って勿体無くないだろう?
あなたは、最も愛する恋人から腹や背中を何度と想い切り蹴られてボッコボコにされる経験をしても、十年は引き摺らないんですかね?
ははは、あなたはそうなら、それでいいじゃないですかあ。
なんでそれを余にも、当てはめてくるのですかあ?
あなたの人生じゃない。
余の人生は、余の人生だ。
なんであなたに人生勿体無いとか言われなくちゃならないんですかあ?
言い方が悪いんじゃない、言い方があなたは厭味すぎやしませんかあ?
言い方が、気色悪い。気持ち悪い。なんで人の人生、ちょっとブログ読んだだけで、人生勿体無いと、どの口がゆうてるんですかねえ?
わたしは絶対に、死ぬ迄引き摺りますよ。
本当に人間を愛しているからです。
愛しているのに、殺され掛けたんですからね。
あなたの感覚は、わたしは恐ろしいと感じます。
人が死に物狂いで苦しみ続けて生きてきたことに対して、「勿体無い」とか軽々しく平気で言えるんですからね。
あなたは相当捻くれてますよね。
虚無と良く似ています。
自分はこれこれこれだけの辛い経験を通して生きてきたが、自分はそれでも10年引き籠ることはなく頑張っている。
だのに貴女は何故頑張れないのですか?
貴女にも頑張れるはずじゃないですか。
そうあなたは言いたいわけです。
虚無の場合は、あからさまに働いていない人間に対する差別を向けてきましたが、あなたは「引き籠ることは人生の無駄である」と遠まわしにわたしに言ってるようなもんですよ。
なんでそんなことがあなたにわかるんですかね?
それは人の人生の価値を、浅はかな考えで決め付けてしまっているからです。
人はつらくとも、外に出て生きるべきだ。
多くの人はそれを遣ってるんだ。
あなたも遣るべきだ。
あなたはただの頭でっかちなんだと。
つまり他者を否定して、自分を肯定したいわけです。
そこが虚無と全く同じです。
自分を肯定して、わたしを否定する為にあなたはコメントを書き連ねて来たんです。
あなたの遣っていることが、本当に正しいと想っていますか?
わたしの苦しみが、あなたにも全く届いていないんだと想います。
ほんの幾つかの記事を読んだだけで、これほど偉そうに人にアドバイスしたり、人を馬鹿にするようなコメントを書いてくる人の言うことを、なんでわたしが聴かねばならないのでしょうか?
何故、人が一生懸命に生きていることを、「とにかく頑張れ。あなたの願う人生をがんばれ」と応援できないのでしょうか?
わたしは外に出たところで、何かが変わるわけではありません。
引き籠りを抜けたところで、何かが良くなるわけではありません。
何の根拠もないのに、そのほうが良いとあなたは決め付けています。
他者の人生を、自分の想う人生にしようと躍起になっています。
何故そうなってしまうのか、わかりますか?
これも「投影」です。
すべて「投影」です。
あなたの歩みたくない人生を、わたしが歩み続けているから、あなたにはわたしの人生が許せないのです。
わたしは自分の人生を愛しています。
だからこの今を、元恋人が与えてくれたことに心から感謝していることを記事にも書きました。
あなたにはそれが理解できなかった。
そんなはずはない。とあなたは想っているからです。
わたしが引き籠り10年歴、部屋も片付けられない、掃除もできないほどの鬱状態であるこの今を、在り難い想いで生きていることが、あなたは納得できないからです。
しかしわたしは本当に感謝しています。
この人生の御陰で、自分は完全菜食を続けることができている。
すべてに感謝しよう(感謝したい)という想いで日々苦しくとも喜びを感じて生きていられている。
ただ外に出て真っ当に働いていたなら、引き籠りを抜けたなら、それができていたとは想えません。
わたしは自分の、このわたしだけの人生を、否定したくないのです。
すべてを肯定したいのです。
それはこの世界の、すべてを肯定してゆくことに繋がってゆくからです。
あなたの言っているすべてが、本当に大きなお世話です。
ビジュアルバンドの人たちだって、一生懸命に自分の好きな詩を書いているのです。
あなたに馬鹿にする資格はありません。
人が一生懸命に頑張ってることを馬鹿にするあなたは哀れであると想います。
あなたはあなただけしか歩めない道を生きてゆけばいいじゃないですか。
わたしはあなたの娘でもないのに、なんでそんなことを言われなくてはならないのかわかりません。
何故、人と、あなたと同じようにわたしが生きてゆかなくてはならないのですか?
あなたが自分の人生に本当に満足していたなら、こんなことをいちいちわたしに言う必要はあったのでしょうか?
自分の人生に満足していないから、人の人生が気になるのではないのですか?
あなたはわたしの人生についてとやかく言うより先に、自分のすべてを肯定することに頑張ってみられてはどうでしょうか。
あなたは気が向かないのに、散歩に出たり外に出たりしているからわたしにもそれが良いと想うのでしょうか?
言っておきますが、人のそんな言葉で引き籠りが外に出られるなら、苦労もありません。
あなたのすべての言葉が、厭味でしかありません。
もっと人を、一人の人間をどこまでも深く知ろうとしてください。
すればそんな軽々しい言葉は到底相手に言えるものではありません。
わたしを悲しませる為だけに言ったのであるなら、わたしは確かに深く悲しんでいますし、あなたもこの悲しみが届くようにと願っております。
さようなら。
がんばって生きていってください。