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スタンダードやボサ・ノバなどを歌って録音したり、美しい景色などを撮影して動画を作っています。美術展にもよく行きます。

黒田清輝展

2014-07-16 | 絵画

今年は、あの芦ノ湖のほとりで涼む女性を描いた《湖畔》
で有名な黒田清輝画伯の没後90年にあたります。

外光派と呼ばれる印象派に影響を受けた戸外制作での
明瞭な光の表現を探求した表現手法を国内で確立し、同
時代随一の画派として画壇に君臨した黒田清輝画伯の
代表作が160点も展示されている「黒田清輝展」を先日、
観覧しました。

デッサンやスケッチなども数多く展示してありました。
又、黒田画伯がアトリエで使っていたパレットやイーゼル、
椅子などの遺品も展示されていました。

今月の21日まで京都文化博物館で展覧されています。

私は、展示作品の多さに驚きましたが、1897年の作品
《湖畔》は、素晴らしい絵で初めて実物を見たので感動
しました。

《湖畔》は重要文化財に指定されています。
モデルは黒田画伯の奥様、照子夫人です。

箱根の芦ノ湖と彼岸の山を背景にして涼をとるこの婦人
の像は現在では《湖畔》の題名でひろく知られていますが、
明治30年の第2回白馬会展では《避暑》の題で出品され、
1900年のパリ万国博に《智・感・情》などとともに出品され
ました。

明治30年夏、黒田画伯は照子夫人を伴って箱根に避暑
のため滞在、そのときに描かれたものです。

のちに、照子夫人はその時のことを回想して「私の二十三歳
の時で、黒田画伯が湖畔で制作しているのを見に行きましたら
そこの石に腰かけてみてくれと申しますので、そう致しますと、
よし明日からそれを勉強するぞと申しました。雨や霧の日が
あって、結局一ヶ月ぐらいかかりました」と語っておられます。

日本の夏の高地のくすんだ風景、湿潤な大気を淡い色調
と平滑な筆致により、スナップショット的な構図のなかに
見事に描きだしている作品ですね。切手にもなっています。

 

黒田画伯の経歴

1866年、鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士黒田清兼の子として
生まれ、その後、伯父の子爵黒田清綱の養子となる。

1872年上京、1881年に共立学校(現在の開成高校)を卒業後、                                                                                    1884年から1893年まで渡仏。当初は法律を学ぶことを
目的とした留学でしたが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、
美術商の林忠正に出会い、1886年に画家に転向することを
決意。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて同国で活躍した外光派
のフランス人画家、ラファエル・コランに師事。以後、師の下で
外光派様式の絵画を学びながらサロン(官展)に出品するなど
精力的に活動。

1893年、10年ぶりに帰国、美術教育者として活躍。

1894年には芳翠の生巧館を譲り受け久米桂一郎と共に
洋画研究所天真道場を開設し「稽古は塑像臨写活人臨写
に限る事」と規定をもうけ、指導方針とした。
印象派の影響を取り入れた外光派様式を国内で提唱。

1896年には明治美術会から独立する形で白馬会を発足。
また同年には東京美術学校の西洋画科の発足に際して
教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた。

西洋美術の伝統に基づき、人体を描くことを重視し、裸体
デッサンを絵画制作の基礎として定着させ、解剖学と実際
の裸体モデルを使った人体デッサンを大学の教育課程に
組み入れたなどの美術界への功績も大きい。

1909年には洋画家として最初の帝室技芸員に選出、また
帝国美術院院長などを歴任。1920年、貴族院議員に就任。

後半生は美術教育者・美術行政官としての活動が中心と
なり、多大な影響を美術界に与えた。

1924年、狭心症により東京で死去。享年58歳。


                                               婦人図(厨房) 1891年

                         

                  

                                                   赤髪の少女 1892年

                 

 

黒田清輝画伯の作品をスライドでみれる動画を作成しました。