リベラルくずれの繰り言

時事問題について日ごろ感じているモヤモヤを投稿していこうと思います.

「不自由展」への電凸攻撃の抜群の委縮効果のまた一例

2019-11-02 | 政治
三重県で「伊勢市美術展覧会」で、慰安婦を表現した少女像の写真を使った作品の展示が不許可になった(朝日新聞2019-11-1)。「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」の混乱を挙げて「会場の安全を最優先した」という。社会のこうした委縮は、「不自由展」への脅迫やテロ予告を含む卑劣な電話攻撃に屈するもので、残念ながら「不自由展」への電凸は大成功だったと言わざるをえない。
今回の場合、約70cm×50cmのグラフィック作品の左上に約20cm×10cmの少女像をコラージュした、花井利彦氏の「私は誰ですか」という作品。少女像がメインではないのにも関わらず、主催する市と市教育委員会は展示を不許可とした。黒の粘着テープで隠しても不許可は変わらなかったという。
社会にはびこる過剰な自主規制は今に始まったことではないが、「不自由展」での電凸でレベルが上がった気がする。

もちろん、どこかの政治家が煽って電凸が行われる可能性を考えると、その電話に応対するスタッフのことを考えると、私でもやはり申し訳なくて、展示するという結論が難しいのはわかる。「不自由展」の教訓の一つとして、電話応対するスタッフへの事前の研修がなかったことが挙げられていたが、そこまでしてあえて展示するというのはよほど勇気のいることだ。
やはり「不自由展」への電凸のうち行き過ぎた脅迫やテロ予告に対して厳正な処分をすることで、抗議のマナーを社会で共有していくことが、遠回りだが、必要なことだろう。(過去ブログの追記3で、その一人の裁判があったことを書いた。)

それにしても、私自身少女像のことは不愉快に思っているのに、それを擁護するかのような記事を書き続けていることにむなしさを覚える。つい先日米国ワシントン近郊でもあったように(朝日新聞2019-10-28)、海外で次々に少女像が設置されていることのほうがよほど問題だ。日本の外交は何をしているのか。電凸を行なう市民も、むしろこうした動きに対して(「攻撃」するのではなく)、日本の立場を説明する方向にエネルギーを使ってほしいものだ。

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追記:「KAWASAKIしんゆり映画祭」で慰安婦問題を扱った映画「主戦場」の上映予定が取り消されて中止となった。映画の出演者が上映禁止を求めて訴訟を起こしたため、共催者の川崎市が主催者に懸念を伝えたためという(朝日新聞2019-10-25)。だがさすがにこの中止には抗議の声が相次いで、一転上映が決まったという(朝日新聞2019-11-2夕刊)。もちろん中止に抗議する「電凸」ではない。是枝裕和氏ら映画関係者や市民から「表現の自由を殺す行為だ」といった抗議が相次いだのだそうだ。抗議行動というと右派の過激な言動ばかり注目されてしまうが、このような理性的な声が上がることに、まだ日本も捨てたものではないと思った。
ただ、今度は上映に対する抗議が予想される。抗議も言論の自由だとはいえ、行き過ぎた脅迫やテロ予告には毅然として対応してほしい(電話を記録するのは最低限必要)。対応するスタッフには申し訳ないが、悪いのはあくまで過激な抗議をする人々であって、ここで事なかれ主義に走るのはまさに「表現の自由の自殺行為」になる。なんとか踏みとどまってほしい。

追記2:「KAWASAKIしんゆり映画祭」での「主戦場」上映中止に関して抗議声明を発表した若松プロダクションは「川崎市が『訴訟になっている作品』への懸念を示したことは公権力による検閲、介入」「このようなことが続けば、表現する側の自主規制やそれを審査や発表したりする側の事前検閲により、表現の自由がさらに奪われていく」として、予定されていた2作品を上映しないと表明していた。そのうち1作の監督は「あいちトリエンナーレ」への補助金不交付や今回の問題は同根だとして「表現の自由の委縮ドミノを止めなければいけない」と述べた(朝日新聞2019-11-3)。
なお、「主戦場」に関する訴訟について、私も問題はあったとの心証をもっているが、だからといって作品全体の上映中止が必要かどうかは慎重に検討する必要がある。(参考:福井健策「不祥事×作品封印論 ~犯罪・スキャンダルと公開中止を考える」

追記3:「KAWASAKIしんゆり映画祭」での「主戦場」の上映前日には「上映を阻止するために実力行使する」との電話があったという(朝日新聞2019-11-5)。実行したわけではないようだが、これは明らかに脅迫ないし威力業務妨害に相当する犯罪だと思う。批判するのはいいが、テロ予告は言論の自由にはならない。厳正に対処してほしい。


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