山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
光源氏が世を去って以来、光源氏を継ぐ人物は世に現れなかった。明石中宮と今上帝(きんじょうのみかど)の間の三の皇子・匂宮(におうのみや)と、光源氏の次男で妻・女三の宮が生んだ息子・薫とが際立っているが、光源氏ほど輝かしい訳ではない。だが光源氏が母の身分に左右されたのに比べ、彼らは血筋の威光に助けられて世評が高いのだ。
かつて光源氏と紫の上が住んだ二条院には、紫の上からこの御殿を相続した匂宮が住んでいる。また光源氏が建設した豪邸・六条院で紫の上が住んだ春の町には、匂宮と同じく明石中宮が産んだ女一の宮が紫の上を偲んで住んでいる。
どちらの御殿も結局は明石の君一人の末裔が住むことになり、当の明石の君はたくさんの孫の世話をしつつ老後を送っている。また光源氏のその他の妻たちも、今は右大臣となった夕霧の庇護を受けつつ、それぞれに日々を過ごしていた。
そんななか女三の宮の息子・薫は、物心ついて以来、自分の出生に秘密のあることに感づいていた。十九歳で宰相中将に昇進という出世をよそに、憂い多き薫の心は出家に向かっていた。不思議にも彼は身体から芳香を発し、対抗して匂宮も香りに執着したので、彼らは世から「薫る中将」「匂ふ兵部卿」と呼ばれる。
夕霧は妻・藤典侍(とうのないしのすけ:実は光源氏の乳母兄弟惟光の娘)の産んだ姫・六の君を薫か匂宮に嫁がせたいと望み、落葉の宮の養女として磨きをかけた。やがて薫は二十歳となり、その美と香りは女たちをときめかせる。
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血と汗と涙の「源氏物語」
「源氏物語」の本文が、平安時代の末にはもう相当乱れてしまっていたことは、前に記した。そうしたなかで、もう一度「源氏物語」の本文を見直そうとしたのが、池田亀鑑である。彼が追い求めたのは、「源氏物語」のできるだけ確実な本文だった。紫式部が書いた原点に辿り着けないなら、せめて純粋な「青表紙本」、または「河内本」がないか。きっかけは三十歳の時、東京帝国大文学部に就職して「源氏物語」関連プロジェクトを任されたことである。彼は日本全国の旧家や寺などを訪ね回った。
ところがプロジェクトがようやく成果をまとめようとする段階で、佐渡の旧家から突如として「お宝」が現れた。「源氏物語」の、「浮舟」を除く五十三帖揃いだ。売り手の希望価格は一万円という当時にしては一軒家が買える巨額とされ、買い手がつかない中、亀鑑はその情報を得た。とりあえず蔵書家で知られた大島雅太郎に購入してもらい、それを借り受ける形で亀鑑は解読し始める。
そしてやがて、その本が現存する四帖分の定家自筆本と九帖分のその模写本に次いで古い「青表皮本」の写本であることに気づくのである。奥書には文明十三(1481)年の書写とある。しかも書道の名家・飛鳥井雅康の自筆だ。「その数量において、またその形態・内容において稀有」(「源氏物語大成」)。
亀鑑はプロジェクトで書いた「校本」を書き換えると決めた。基準となる本はこの「大島本」でいく。七年の血と汗と涙の成果である原稿をなげうち、書き換えに要した月日はさらに十年。亀鑑がようやく「校本」の刊行にこぎ着けたのは、第二次大戦下の昭和十七年であった。