山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集
注)文中の「右大将」は、宮中の警固などを司る右近衛府の右近衛大将(うこんえのだいしょう)で、略して「右大将」
光源氏が玉鬘の処遇を思いあぐねていたその年の十二月、折しも冷泉帝が大原野に行幸することとなり、六条院の女房たちはその見物にでかけた。玉鬘も見物し、光源氏にそっくりの冷泉帝に胸をときめかせた。
帝に比べれば、初めて見る実父・内大臣は見劣りがする。まして求婚者の一人である右大将など、色黒の髭だらけ(髭黒大将)で問題外である。
玉鬘の心は、かねて光源氏から示唆されていた冷泉帝への出仕に傾く。翌日玉鬘の意向を察した光源氏は、玉鬘の尚侍就任を実現させようと動き出す。
まずは、玉鬘の正式な成人式・裳着を行わなくてはならない。光源氏は、その儀式の重要な役割である「腰結」を内大臣に頼み、これを機会に内大臣に玉鬘の所在を知らせようと企てた。そこで姑である大宮を仲介として内大臣と会見し、かつては親友でありながら、それぞれが源氏と藤原氏の筆頭となってからは対抗する立場ゆえに疎遠になったことを、自らわびた。加えて玉鬘のことを打ち明けると、内大臣の頑なな心は氷解し、二人は涙のうちに和解した。かくして玉鬘の裳着は華やかに執り行われた。
玉鬘が光源氏ではなく内大臣の実娘(じつじょう)だったと知り、人々はそれぞれに内心で思いを交錯させた。そんななかで一人、内大臣の別の落胤である近江の君だけは、露骨に反応した。対抗心を燃やし「自分も尚侍になりたかった」というのである。そんな近江の君は父・内大臣からもからかわれ笑い者にされる始末だった。
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ヒゲ面はもてなかった
ヒゲと一口に言っても形も呼び方もいろいろあるが、古典作品では特に使い分けていない場合も多い。平安貴族にとって、当然のことだが、ヒゲは第一にいわゆる「男性性」を意味した。「栄華物語(巻十三)」は、三条天皇(976~1017年)の御子で御年二十四歳の敦明(あつあきら)親王の顔かたちを、
「盛りにめでたう。髭なども少し気配づかせ給へる (男盛りで素敵で、髭なども少し生えかけている)」と言い、「あなあらまほし、めでたや (ああ理想的、素敵だわ)」と繰り返している。これによれば、うっすらと生えたヒゲは、決して悪くなかったのだ。
現存する最古の絵巻で、十二世紀前半の作とされる国宝「源氏物語絵巻」を見ると、光源氏はにも夕霧にも匂宮にも、鼻の下や唇の下に薄く口髭が描き込まれている。十二世紀後半の作と考えられる「年中行事絵巻」にも、ヒゲを蓄えた公卿たちが見える。同じ図の中には車副(くるまぞい)や馬丁などでヒゲ面の者もいるが、彼らのヒゲにはもじゃもじゃしたものが多いのに対し、公卿たちのそれはすっきりと整えられている。
ヒゲはあくまで薄く、きちんと手入れさえすれば、おしゃれだったのだ。
さて、「髭黒大将」である。これは後世の人がつけた呼び名で、「源氏物語」-「行幸」巻の本文が彼を描く言葉は「色黒く髭がち」、地黒の顔がヒゲだらけというものだ。玉鬘はそれを、「いと心づきなし (絶対受け付けない)」と感じた。おそらく生理的な感覚であろう。玉鬘の目には、彼は度を越して毛深かったのだ。
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