起きてほしくないことが起こるかもしれないと思うとき、
それが実際に起こった場合それを受け容れることが出来るか??
・・・・という問いを自分に向けることが多い。
これが癖になっている。
起きてほしくない・・と思うことは願いの一種。
その望みがかなわなくてもいい、になるまで、自分に問うわけだ。
望みをかなえたいと思うのが人の常だと思う。
思い通りにしたい。
あれをこうしたい、これをこうしたい・・・
それがあるから生きられる。
家族が元気でいてほしい、
仕事をこんなふうに進めたい、
部屋を快適に暖房したい、
美味しいものを食べたい、作りたい、
身体にちょうどいい衣服を着たい、
こう洗濯したい、こう掃除したい、こう片付けたい、・・どれもみな欲だし思い通りにしたいこと。
何か自分に都合の悪いことが起こったとき、
思い通りにならないとき、
この状態がずっと続いてもいいか?
・・・そう自分に問う。
本当に、いいか?いいか?それでいいか??
で、「望みがかなわなくてもいい」そこに行くまで自分に問う。
なんだかそういうことが自分の習性になっちゃったみたいで、
なんでこういうことをするようになったのか?
何がしたくてこういうことをしてるのか?
自分やひとが幸せにという欲も大きな欲の一つ、
けれど、その欲にとらわれることで人の不幸が始まる。
思い通りにならずに苦しむ・・・・
仏陀はこういうことを言ったんだと思うけど、
欲はあるのが当たり前だし、それがなければ人は生きられないし、進歩がない。
元々ひとは進歩進化するように出来ているもんだ。
その欲にとらわれることからの解放としてその時々の覚悟が有効なんじゃないかなぁ。
望みを放すと望みは叶う方向に動き出す・・・
たった一回覚悟したって、叶わないだろうけど、
覚悟することでその後の行為の元が変わるということはあるんじゃないかなぁ・・・
そんなふうなことで私はやっているのか・・
そうやってみて、生きることが軽くなったというのはあるかなぁ・・・
今になって頭を整理した自分でした。
それが実際に起こった場合それを受け容れることが出来るか??
・・・・という問いを自分に向けることが多い。
これが癖になっている。
起きてほしくない・・と思うことは願いの一種。
その望みがかなわなくてもいい、になるまで、自分に問うわけだ。
望みをかなえたいと思うのが人の常だと思う。
思い通りにしたい。
あれをこうしたい、これをこうしたい・・・
それがあるから生きられる。
家族が元気でいてほしい、
仕事をこんなふうに進めたい、
部屋を快適に暖房したい、
美味しいものを食べたい、作りたい、
身体にちょうどいい衣服を着たい、
こう洗濯したい、こう掃除したい、こう片付けたい、・・どれもみな欲だし思い通りにしたいこと。
何か自分に都合の悪いことが起こったとき、
思い通りにならないとき、
この状態がずっと続いてもいいか?
・・・そう自分に問う。
本当に、いいか?いいか?それでいいか??
で、「望みがかなわなくてもいい」そこに行くまで自分に問う。
なんだかそういうことが自分の習性になっちゃったみたいで、
なんでこういうことをするようになったのか?
何がしたくてこういうことをしてるのか?
自分やひとが幸せにという欲も大きな欲の一つ、
けれど、その欲にとらわれることで人の不幸が始まる。
思い通りにならずに苦しむ・・・・
仏陀はこういうことを言ったんだと思うけど、
欲はあるのが当たり前だし、それがなければ人は生きられないし、進歩がない。
元々ひとは進歩進化するように出来ているもんだ。
その欲にとらわれることからの解放としてその時々の覚悟が有効なんじゃないかなぁ。
望みを放すと望みは叶う方向に動き出す・・・
たった一回覚悟したって、叶わないだろうけど、
覚悟することでその後の行為の元が変わるということはあるんじゃないかなぁ・・・
そんなふうなことで私はやっているのか・・
そうやってみて、生きることが軽くなったというのはあるかなぁ・・・
今になって頭を整理した自分でした。