ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「問いから始まる仏教」を読んで②

2016-02-28 20:22:32 | 本を読んで
仏教の基本教説に「四諦(したい)」というのがあり、それは

「この世は苦しみであり、苦しみには原因があり、苦しみは滅することができ、

滅する方法がある」という四つの真理を言う、とあった。


心が苦しいとき、何故苦しむのか?という問いを自らに問うことがある。

考えてみれば、

何故苦しむのかという問いを持つこと自体、

苦しむことが当たり前じゃないからだろう。

人間の深い深い深い本質は『楽』だからこそ、

『楽』の反対の『苦』が生じること自体ヘンなのだ。おかしいのだ。

ヘンだからこそ、問いが浮かぶのだ。

『楽』が当たり前だから、

何故楽しいのか、なんて問いは浮かばない。

なので、苦しみは錯覚だ。


苦しんでいるのにその問いを持つことが出来ない、これはそのとき、

苦しんでいるのに、それを観てる自分が消えてるから。

で、その問いを問えないことも多い。

著者の南さんは錯覚・解毒・再建のサイクルは生きている限り続く、と書いている。

本当にそうだなぁと思う。

そして苦しいという錯覚に気付いて解毒されても、

又別の錯覚に陥る。

この世とセットの自分だから、錯覚は免れない。

錯覚に気付いて解毒し、再建し、又錯覚し・・・

でも宇宙もサイクルだろうし、気楽にそれをやろう。

坐禅という方法の解毒は私には出来ないけど、

上に書いた自分への問いは出来るし、有効だよ。


釈迦と気が合うと言った山岸さんは

人間社会が幸福になるために三つ巴の機構を設けることを考えた。

学校と試験場と釈迦のいう無所有が顕されている実際の社会の三つ。

・・・このあと、何を書くというのか・・・わたし。



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「問いから始まる仏教」を読んだ

2016-02-28 17:55:00 | 本を読んで
南直哉さんというお坊さんの名を知って、アマゾンで本を買った。

「問いから始まる仏教」

理屈っぽかったけど、伝えたいことが伝わって来たように感じた。

自分が存在する・・そのことを自分に問えと書かれてた。

「仏教は自己を問うものに示す道を持つ」

「仏教は教え自体が『問い』でもある」


自分というものが在る、なんて言えないこと。

『自分』というものは常に関係性の中にある。

個としての自分なんて無い。事実として有り得ない。

他(ひと。もの)と離れて自分はない・・・ 

時を離れて自分はない・・・ 

さっき昼ごはん食べたけど、アレを食べてなかったら、

物理的な身体は今の身体(自分)と違う・・どの私が本当の自分なのか???

まぁ、そういうことだ。

人間ではなく、物も、

そういった形をしている或る物にご飯をよそって食べるという行為をして、

それにご飯茶碗という言葉をつけてみんなで茶碗と呼ぼうということになった。

その物はご飯との関係が出来たからこそ「ごはん茶碗」になる…そういうようなことも書かれてあった。


たくさんの他人、物、出来事と関係して今の自分という流動体が在る。

すべて在るものは関係性の中にある。

在る、とは、なって来た ということだからね。

自分が自分が、という自我なんて何の根拠もないよ・・

そういったことが書かれてあったよ。

その通りだね。

この世は“私”という自我があるから、そこに欲望が生じ、所有が生じる・・

自我がナンセンスだということがわかれば、所有もナンセンス、ということになる。

自分が存在するとはどういうことか・・という問いを持ち、考えることをしないから・・・

この世はいつまで経っても変わらない・・のか・・


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