小池龍之介さんの「超訳ブッダの言葉」にある章から・・・
「褒めてもらえて、脳内に快感物質がビュンビュン放出されたとしても、
その快感は一瞬で終わる、つかのまの自慰のようなもの。
心の安心感を得るには役立たない。
言い張ることことの成果はしょせん、「いやがられること」と
「褒められて自慰すること」のたった二つだけ。
この法則をわきまえて、人と張り合わないことこそ安らぎと知ったなら、
言い合いなんかしないように。」
(経集896))
・・以上。
人と接しているその時、今、張り合ってるなんて気づかない。
・・こう書けるのは後になってやっと、張り合ってたと気づくから。
後でその時のことを振り返ったとき、なんかくすんだ気分がみつかった。
相手のその時の考え(現れた言葉)を
そんなのおかしいよと否定してた。
だから、その時、聞かれもしないのに自分の考えを言った。
思い出すと恥ずかしい。
もし、相手がその時「あなたの考えの方が正しい」というようなことを言ったなら、
私は生意気な気分になっていただろう。
その本にこういうのもあった。以下。
『生意気さは苦しみを増幅させる』という章。
「生意気さは、君の苦しみを、知らず知らずのうちに増幅させる。
自分の意見を押し通すことに成功してその味をしめてしまうと、
君は以前より一歩ほど、さらに生意気な言い方をするようになるだろう。
このように自分の意見を押し通そうとするなら、
それに失敗するとイライラするうえに、
成功しても生意気な性格に変わってゆくのだから、
ろくなことはない。心が濁ってゆくだけのこと。
この道理を知ったなら、むやみに意見を言い張ることから離れるように。」
(経集830)
・・・経集830というものもブッダその人が書いたものではないし、
この本はそれを読んだ小池さんの目を通して彼が編集したもので、
ブッダの言葉ではないけれど、
最後の「むやみに意見を言い張ることから離れるように」という表現は心にしみるね~
言い張るのはやめなさい、でもなく。
言い張るのはよくないですよ、でもなく。
『離れるように』。
「褒めてもらえて、脳内に快感物質がビュンビュン放出されたとしても、
その快感は一瞬で終わる、つかのまの自慰のようなもの。
心の安心感を得るには役立たない。
言い張ることことの成果はしょせん、「いやがられること」と
「褒められて自慰すること」のたった二つだけ。
この法則をわきまえて、人と張り合わないことこそ安らぎと知ったなら、
言い合いなんかしないように。」
(経集896))
・・以上。
人と接しているその時、今、張り合ってるなんて気づかない。
・・こう書けるのは後になってやっと、張り合ってたと気づくから。
後でその時のことを振り返ったとき、なんかくすんだ気分がみつかった。
相手のその時の考え(現れた言葉)を
そんなのおかしいよと否定してた。
だから、その時、聞かれもしないのに自分の考えを言った。
思い出すと恥ずかしい。
もし、相手がその時「あなたの考えの方が正しい」というようなことを言ったなら、
私は生意気な気分になっていただろう。
その本にこういうのもあった。以下。
『生意気さは苦しみを増幅させる』という章。
「生意気さは、君の苦しみを、知らず知らずのうちに増幅させる。
自分の意見を押し通すことに成功してその味をしめてしまうと、
君は以前より一歩ほど、さらに生意気な言い方をするようになるだろう。
このように自分の意見を押し通そうとするなら、
それに失敗するとイライラするうえに、
成功しても生意気な性格に変わってゆくのだから、
ろくなことはない。心が濁ってゆくだけのこと。
この道理を知ったなら、むやみに意見を言い張ることから離れるように。」
(経集830)
・・・経集830というものもブッダその人が書いたものではないし、
この本はそれを読んだ小池さんの目を通して彼が編集したもので、
ブッダの言葉ではないけれど、
最後の「むやみに意見を言い張ることから離れるように」という表現は心にしみるね~
言い張るのはやめなさい、でもなく。
言い張るのはよくないですよ、でもなく。
『離れるように』。