昨日こう書いた。
相対性の中に在る自分なのだと知っているもう一人の自分が在ること。
覚醒してる心。
それが「不動心」という言葉の意味する内容なんじゃないかな。
動き続けている自分の心と常に共にいて、
だから、動いているけど、動いてないという感じのもの。
この「不動心」とは 観察する心 なんだろうか。
以前に書いたけど、アダム・スミスの「道徳感情論」にこういう文章があるという。
「観察力とは『人間の内部にいる者』で、
そのおかげで、自分の感情を外部から観察するように見ることができる。
自分の行為を検討しようとするとき、
わたしは自分を二人の人間に分ける。
検討し判断する『わたし』は、
行為を検討され判断される者としての『わたし』とは別人格である。
前者は観察者、後者は実行者で、
こちらは『自分自身』と呼んでいいだろう。・・」以上。
検討し判断する『わたし』これをアダム・スミスは観察者と云っている。
『わたし』という実行者の行為を、
もう一人の『わたし』という観察者が検討し、判断する・・
行為をどう検討し判断するのか・・といえば・・
検討し、判断するには何かの物差しが要る。
それがないと検討出来ない。判断できない。
それが理、真理なのかと思う。
理、真理 とはどういうものなのか・・・
真理って湯川博士の文章にこうあった。
「真理というものは日本も外国も、地球の外でも、
どんな宇宙のすみずみまでも貫徹するところの真理を探究しているのである。」
私は平たく、
いつでもどこでも誰にでもどんな場合にでも当てはまるもの、
例外の無いもの・・って解釈してる。
それは「絶対」
「絶対」は比較・対立を絶していることだし。
それはかなり正確な物差しになる。
この一番上に書いたけど、
相対性の中に在る自分なのだと知っている・・・(下手糞な表現だけど)、
相対性の中に在る自分なのだと知っているのは、
絶対の自分 しかいない。
相対性の中に在る自分なのだと知っているもう一人の自分が在ること。
覚醒してる心。
それが「不動心」という言葉の意味する内容なんじゃないかな。
動き続けている自分の心と常に共にいて、
だから、動いているけど、動いてないという感じのもの。
この「不動心」とは 観察する心 なんだろうか。
以前に書いたけど、アダム・スミスの「道徳感情論」にこういう文章があるという。
「観察力とは『人間の内部にいる者』で、
そのおかげで、自分の感情を外部から観察するように見ることができる。
自分の行為を検討しようとするとき、
わたしは自分を二人の人間に分ける。
検討し判断する『わたし』は、
行為を検討され判断される者としての『わたし』とは別人格である。
前者は観察者、後者は実行者で、
こちらは『自分自身』と呼んでいいだろう。・・」以上。
検討し判断する『わたし』これをアダム・スミスは観察者と云っている。
『わたし』という実行者の行為を、
もう一人の『わたし』という観察者が検討し、判断する・・
行為をどう検討し判断するのか・・といえば・・
検討し、判断するには何かの物差しが要る。
それがないと検討出来ない。判断できない。
それが理、真理なのかと思う。
理、真理 とはどういうものなのか・・・
真理って湯川博士の文章にこうあった。
「真理というものは日本も外国も、地球の外でも、
どんな宇宙のすみずみまでも貫徹するところの真理を探究しているのである。」
私は平たく、
いつでもどこでも誰にでもどんな場合にでも当てはまるもの、
例外の無いもの・・って解釈してる。
それは「絶対」
「絶対」は比較・対立を絶していることだし。
それはかなり正確な物差しになる。
この一番上に書いたけど、
相対性の中に在る自分なのだと知っている・・・(下手糞な表現だけど)、
相対性の中に在る自分なのだと知っているのは、
絶対の自分 しかいない。