気が付くという言葉について以前も何回か書いた覚えがあるけど、
今の自分でまた考えてみたい。
何かを失くしたと思っていて、懸命に探してる時、
誰かがここにあるよ、と言ってくれたはいいが、
そこに置いた記憶がない場合、なんでそんな所に??ばかりが残り、
そこに在ったのかぁ!という感慨がない。
そこに在ったのかぁ!という思いが生まれるのは、
自分にそこに置いたという記憶が在ったからこそ。
「気が付く」という表現がいうのは、
そうそう、昨夜そこに置いたんだった、というようなものが“自分にある”こと。
『教えて貰う』というのは、小学校でこの地域は米を栽培してるとか、
1492年にアメリカ大陸が発見されたとかいうような知識、情報をであって、
そういうものは元々は自分の中には無かったもの。
教えてもらうとか、知識を得る、とかいうのは“自分に無いもの”を、だ。
小学校でこの地域で米を栽培してる、とかの知識を得ても、
あーそうですか、で終わりになることもある。
別のあの地域ではピーマンを多く栽培している・・・
あーそうですか、で終わることもある。
けど、あーそうですか、で終わらない場合もある。
どうしてその地域ではピーマンでなく、米なんだろう?というような疑問が生まれれば、
その地域が米を栽培するようになった経過を知りたく“なる”もんだ。
知りたくなれば、自分で調べたりする。
その土地の気候天候、土壌の種類、歴史的経過とかがいっしょくたになって、
そうするようになった、とか判明すると、
あーなるほど、そうなのか、というガッテンが生まれることもある。
そうした時にそれは知識じゃなく知恵になるんだろうと思う。
人が書いた本やひとの言葉という情報をただ、あーそうですか、
と聞くのは、知識を得ることになることもあるけど、
それを読んだり、聞いたりした時に、なんでここでそういうことになるのか、とか、
ここはわからないとか、
ここでその言葉を表現してる、その真意はどういうことなんだろう?
というような積極的な関心を持つことによって、
観察する、考えるということが始まることがある。
その言葉自身と自分の関心とが共鳴現象を起こして、
あー、そういうこと“な”のか、という気付きが生まれることもある。
知識を得るというのは共鳴現象じゃないと思う。
気付きというのは自と他の共鳴現象なのかと思う。
『相共鳴』と、わざわざ彼が「相」という字を「共鳴」に付け足したのもわかる気がする。
今の自分でまた考えてみたい。
何かを失くしたと思っていて、懸命に探してる時、
誰かがここにあるよ、と言ってくれたはいいが、
そこに置いた記憶がない場合、なんでそんな所に??ばかりが残り、
そこに在ったのかぁ!という感慨がない。
そこに在ったのかぁ!という思いが生まれるのは、
自分にそこに置いたという記憶が在ったからこそ。
「気が付く」という表現がいうのは、
そうそう、昨夜そこに置いたんだった、というようなものが“自分にある”こと。
『教えて貰う』というのは、小学校でこの地域は米を栽培してるとか、
1492年にアメリカ大陸が発見されたとかいうような知識、情報をであって、
そういうものは元々は自分の中には無かったもの。
教えてもらうとか、知識を得る、とかいうのは“自分に無いもの”を、だ。
小学校でこの地域で米を栽培してる、とかの知識を得ても、
あーそうですか、で終わりになることもある。
別のあの地域ではピーマンを多く栽培している・・・
あーそうですか、で終わることもある。
けど、あーそうですか、で終わらない場合もある。
どうしてその地域ではピーマンでなく、米なんだろう?というような疑問が生まれれば、
その地域が米を栽培するようになった経過を知りたく“なる”もんだ。
知りたくなれば、自分で調べたりする。
その土地の気候天候、土壌の種類、歴史的経過とかがいっしょくたになって、
そうするようになった、とか判明すると、
あーなるほど、そうなのか、というガッテンが生まれることもある。
そうした時にそれは知識じゃなく知恵になるんだろうと思う。
人が書いた本やひとの言葉という情報をただ、あーそうですか、
と聞くのは、知識を得ることになることもあるけど、
それを読んだり、聞いたりした時に、なんでここでそういうことになるのか、とか、
ここはわからないとか、
ここでその言葉を表現してる、その真意はどういうことなんだろう?
というような積極的な関心を持つことによって、
観察する、考えるということが始まることがある。
その言葉自身と自分の関心とが共鳴現象を起こして、
あー、そういうこと“な”のか、という気付きが生まれることもある。
知識を得るというのは共鳴現象じゃないと思う。
気付きというのは自と他の共鳴現象なのかと思う。
『相共鳴』と、わざわざ彼が「相」という字を「共鳴」に付け足したのもわかる気がする。