ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

気が付く

2012-09-10 11:04:06 | 言葉
気が付くという言葉について以前も何回か書いた覚えがあるけど、

今の自分でまた考えてみたい。

何かを失くしたと思っていて、懸命に探してる時、

誰かがここにあるよ、と言ってくれたはいいが、

そこに置いた記憶がない場合、なんでそんな所に??ばかりが残り、

そこに在ったのかぁ!という感慨がない。

そこに在ったのかぁ!という思いが生まれるのは、

自分にそこに置いたという記憶が在ったからこそ。

「気が付く」という表現がいうのは、

そうそう、昨夜そこに置いたんだった、というようなものが“自分にある”こと。

『教えて貰う』というのは、小学校でこの地域は米を栽培してるとか、

1492年にアメリカ大陸が発見されたとかいうような知識、情報をであって、

そういうものは元々は自分の中には無かったもの。

教えてもらうとか、知識を得る、とかいうのは“自分に無いもの”を、だ。

小学校でこの地域で米を栽培してる、とかの知識を得ても、

あーそうですか、で終わりになることもある。

別のあの地域ではピーマンを多く栽培している・・・

あーそうですか、で終わることもある。

けど、あーそうですか、で終わらない場合もある。

どうしてその地域ではピーマンでなく、米なんだろう?というような疑問が生まれれば、

その地域が米を栽培するようになった経過を知りたく“なる”もんだ。

知りたくなれば、自分で調べたりする。

その土地の気候天候、土壌の種類、歴史的経過とかがいっしょくたになって、

そうするようになった、とか判明すると、

あーなるほど、そうなのか、というガッテンが生まれることもある。

そうした時にそれは知識じゃなく知恵になるんだろうと思う。

人が書いた本やひとの言葉という情報をただ、あーそうですか、

と聞くのは、知識を得ることになることもあるけど、

それを読んだり、聞いたりした時に、なんでここでそういうことになるのか、とか、

ここはわからないとか、

ここでその言葉を表現してる、その真意はどういうことなんだろう?

というような積極的な関心を持つことによって、

観察する、考えるということが始まることがある。

その言葉自身と自分の関心とが共鳴現象を起こして、

あー、そういうこと“な”のか、という気付きが生まれることもある。


知識を得るというのは共鳴現象じゃないと思う。

気付きというのは自と他の共鳴現象なのかと思う。

『相共鳴』と、わざわざ彼が「相」という字を「共鳴」に付け足したのもわかる気がする。




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