もともと人は誰でも幸福を願ってしまう存在だ。
自分も他人も良くしたいと無意識的に思ってしまう。
どのときもそう。
幸福を願わずにはいられない存在だ。
なので、自分が (良くない)と捉えるところの行為を見ると、
それを(よくしたい、変えたい)と無意識のうちに思ってしまう。
そしてそれが行為に移る。
(良くない)と捉えてることに自覚がない場合が多い。
(変えたい)と思ってることに自覚がない場合が多い。
(良くない)と観なければ、変えようとは思わない。
(変えよう)と思わなければそういう行為も起こらない。
ずっとこのブログを使って考えて来たけど、
行為というものの成り立ちが見えて来たように思う。
その行為は境地から自動的に起こる。
やったその行為がどういう現象を生んだのか。
それを見ても見ていない。
無自覚な場合が多い。
けれど、それが悪いわけじゃない。
幸福という目的地に着くのが遠回りなだけのことで、
いつかは必ず目的地に着く。
どうしてかって言えば、
ひとは誰でもどんな時も幸福を望んでしまう存在だから。
望むところに行けないことは絶対無い。
ひとは不可能なことは望めないものだから。
今すぐ火星人になりたいなんて事は望まないように。
自分も他人も良くしたいと無意識的に思ってしまう。
どのときもそう。
幸福を願わずにはいられない存在だ。
なので、自分が (良くない)と捉えるところの行為を見ると、
それを(よくしたい、変えたい)と無意識のうちに思ってしまう。
そしてそれが行為に移る。
(良くない)と捉えてることに自覚がない場合が多い。
(変えたい)と思ってることに自覚がない場合が多い。
(良くない)と観なければ、変えようとは思わない。
(変えよう)と思わなければそういう行為も起こらない。
ずっとこのブログを使って考えて来たけど、
行為というものの成り立ちが見えて来たように思う。
その行為は境地から自動的に起こる。
やったその行為がどういう現象を生んだのか。
それを見ても見ていない。
無自覚な場合が多い。
けれど、それが悪いわけじゃない。
幸福という目的地に着くのが遠回りなだけのことで、
いつかは必ず目的地に着く。
どうしてかって言えば、
ひとは誰でもどんな時も幸福を望んでしまう存在だから。
望むところに行けないことは絶対無い。
ひとは不可能なことは望めないものだから。
今すぐ火星人になりたいなんて事は望まないように。