日本には「世間がどう思うか」とか「ひとさまからどう思われるか」
・・というような言葉がある。
若い頃は(少し前まで若かった^^)こういう言葉に反発があった。
世間やひとがどう思おうとそんなこと関係ない!っていうのが強くあったので、
こういう言葉に抵抗があった。
やっと、こういう言葉が日本には在るということが受け入れられるようになったよ。
受容とは在るものを在ると受け入れることだからね~
少し前に「癖」というのを書いた。
自分の癖、自分のニオイ、自分の姿・・は自分では見えない。
ひとからの方がよく見える。当たり前かも。
自分というものの一部に目が付いているから、見えないものの一番は自分の目だ。
自分の脚や手なら見えるけど、目は絶対見えない。
そういう意味で「ひとさまからどう思われるか」という言葉は有効かなと思う。
「世間がどう思うか」というのも同じようなものか・・
自分を見るのにはひとさまや世間の方が相応しい・・面もある。
この「見る」というのは客観的に見ることが出来るということ。
客観の最たる視点は天だけど。
ひとさまから見えるのはひとの地(じ・痔じゃないよ)のようなものが見える。
地でやればいい・・とかいう、その地。
意味を調べると「加工する前の材料や土台」というような意味もあるみたいだ。
取り繕ったりしてもそれはひとからはよく見えると思う。
全体の“感じ”が見える。自分からは自分の部分しか見えないけど。
あの日あの人はなんかちょっと不自然だった・・・なんてのもある。
ここがどうってはっきり言えないけど・・なんて。
なので「ひとさまからどう思われているか」は大事かも。
自分では出来ない事をひとさまはしてくれてる。
でも、ホント、おちょくって「ひとさま」っていう言葉が日本に在るわけじゃないんだから、
日本の言葉は深いね~
・・というような言葉がある。
若い頃は(少し前まで若かった^^)こういう言葉に反発があった。
世間やひとがどう思おうとそんなこと関係ない!っていうのが強くあったので、
こういう言葉に抵抗があった。
やっと、こういう言葉が日本には在るということが受け入れられるようになったよ。
受容とは在るものを在ると受け入れることだからね~
少し前に「癖」というのを書いた。
自分の癖、自分のニオイ、自分の姿・・は自分では見えない。
ひとからの方がよく見える。当たり前かも。
自分というものの一部に目が付いているから、見えないものの一番は自分の目だ。
自分の脚や手なら見えるけど、目は絶対見えない。
そういう意味で「ひとさまからどう思われるか」という言葉は有効かなと思う。
「世間がどう思うか」というのも同じようなものか・・
自分を見るのにはひとさまや世間の方が相応しい・・面もある。
この「見る」というのは客観的に見ることが出来るということ。
客観の最たる視点は天だけど。
ひとさまから見えるのはひとの地(じ・痔じゃないよ)のようなものが見える。
地でやればいい・・とかいう、その地。
意味を調べると「加工する前の材料や土台」というような意味もあるみたいだ。
取り繕ったりしてもそれはひとからはよく見えると思う。
全体の“感じ”が見える。自分からは自分の部分しか見えないけど。
あの日あの人はなんかちょっと不自然だった・・・なんてのもある。
ここがどうってはっきり言えないけど・・なんて。
なので「ひとさまからどう思われているか」は大事かも。
自分では出来ない事をひとさまはしてくれてる。
でも、ホント、おちょくって「ひとさま」っていう言葉が日本に在るわけじゃないんだから、
日本の言葉は深いね~