カントに「純粋理性批判」というのがあって、
ちょっと読んだんだけど、
それを読む時に「批判」という言葉についての自分の解釈・意味を持ったままでいたら、
なかなか読み進めなかった。当然だと思う。
例えば、それは
「リンゴ」という文字を林檎だと解釈して読み進めていたら、
言っていることがわからなくて、
実はその「リンゴ」という文字は(みかん)という意味なんだった・・
ということがわかった・・・というようなこと。
「リンゴ」の文字を見たら、そうか、これは(みかん)の事なんだな、
と自分の頭で置き換えて読まなければ、読み進められない・・
そんな感じだった。
「批判」という文字のことだけじゃなくて、
いろいろと難しい普段は使わないような言葉があって、
それを私がわかる言葉に置き換えて解釈するということをずっとして読んだ。
謂わば変換ばかりしながら読んだ。
だいたいのことはわかった気がした。
この「批判」という文字は、
日本語にその原文を訳する時にこれにしようと、
数ある言葉の中から翻訳者が選んで決めたものなんだと思う。
今の日本では「批判」という言葉は
何か否定的なニュアンスがあるように感じる。
俺が正しいんだぞみたいなものも感じることが多い。
否定的なニュアンスで使われることがこの世の中で多いので、
知らぬ間にその字を見るとそう反応してしまうんだろうと思う。
実際広辞苑にもそういう否定的な意味合いもある、とも出ていた。
けど、「批判」 を英悟では「critic」というそうで、
この原義は「境界線にあるものがどちらか見分けられる」であるらしい。
「critic 」はギリシャ語の「krino」から来たもので、
その意味は良いものを選別する=吟味する ということらしい。
・・これは違いを明らかにするという意味だと思うけど、
例えば、赤ちゃんと大人は違うし、
赤ちゃんより大人のほうが選別能力はあるし、
いろいろな知恵もある。
けど、赤ちゃんが間違っているわけじゃない。
未熟なだけだ。未熟は間違いじゃない。
非難することじゃない。
通常使われてる「批判」はその違いである未熟さを、
非難するニュアンスが含まれているものが結構ある。
文字もそれをどう読むかで違うものを受け取る場合がある。
何をどう受け取ろうとそれぞれの勝手なのでそういうことが出来るんだけど、
その言葉を読む時に自分の経験による解釈をひょいと退けておかないと、
読みとれないことがある。
ちょっと読んだんだけど、
それを読む時に「批判」という言葉についての自分の解釈・意味を持ったままでいたら、
なかなか読み進めなかった。当然だと思う。
例えば、それは
「リンゴ」という文字を林檎だと解釈して読み進めていたら、
言っていることがわからなくて、
実はその「リンゴ」という文字は(みかん)という意味なんだった・・
ということがわかった・・・というようなこと。
「リンゴ」の文字を見たら、そうか、これは(みかん)の事なんだな、
と自分の頭で置き換えて読まなければ、読み進められない・・
そんな感じだった。
「批判」という文字のことだけじゃなくて、
いろいろと難しい普段は使わないような言葉があって、
それを私がわかる言葉に置き換えて解釈するということをずっとして読んだ。
謂わば変換ばかりしながら読んだ。
だいたいのことはわかった気がした。
この「批判」という文字は、
日本語にその原文を訳する時にこれにしようと、
数ある言葉の中から翻訳者が選んで決めたものなんだと思う。
今の日本では「批判」という言葉は
何か否定的なニュアンスがあるように感じる。
俺が正しいんだぞみたいなものも感じることが多い。
否定的なニュアンスで使われることがこの世の中で多いので、
知らぬ間にその字を見るとそう反応してしまうんだろうと思う。
実際広辞苑にもそういう否定的な意味合いもある、とも出ていた。
けど、「批判」 を英悟では「critic」というそうで、
この原義は「境界線にあるものがどちらか見分けられる」であるらしい。
「critic 」はギリシャ語の「krino」から来たもので、
その意味は良いものを選別する=吟味する ということらしい。
・・これは違いを明らかにするという意味だと思うけど、
例えば、赤ちゃんと大人は違うし、
赤ちゃんより大人のほうが選別能力はあるし、
いろいろな知恵もある。
けど、赤ちゃんが間違っているわけじゃない。
未熟なだけだ。未熟は間違いじゃない。
非難することじゃない。
通常使われてる「批判」はその違いである未熟さを、
非難するニュアンスが含まれているものが結構ある。
文字もそれをどう読むかで違うものを受け取る場合がある。
何をどう受け取ろうとそれぞれの勝手なのでそういうことが出来るんだけど、
その言葉を読む時に自分の経験による解釈をひょいと退けておかないと、
読みとれないことがある。