ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

出すこと

2013-02-13 09:48:37 | ひとの幸福
「軽く出す」という言葉を昔よく聞いたけど、

なんのこっちゃと思ったこともある。

表現することも出すことだ。出すと展開が変わってくる。

心や気持ちに在っても、それを出さないと展開が変わらない。

どうしてなんだろう???

グチなんかでも出すと出さないとでは違う。出すと展開が変わる。

その展開が長く拡がりを持つものと、その時だけに終わるものとはあるけれど。

それは聞く側の懐の深さと、出す側の出し方に関係する・・・?

それにしても、どうして出すと展開が変わるのか???

ウンコも出すと展開が変わる。出すことで身体の状態が変わる、

中にあったものが外に出るので、身体は軽くなる。

そんなふうに身体の状態が変わると気持ちの状態も変わる。

身体も気持ちも軽くなる。

どっちも“重いと感じる”のはあまりいい感じじゃない。

・・ということは“軽さ”が正常さの目安か・・

それは絶対的な体重の重さじゃなくて、

或る重さから或る重さに、軽く“なる”という相対的な軽さのことで。

そう、“なる”というのは“なってない”状態からでないと“なれない”もんだからね。

・・・これは脱線だった。


出すと何故変わるか?身体も気持ちも。

人に出さなくても変わる。こうして一人で文を綴ってもそのことで変わることは多い。

『やりとり』で変わる・・・そうか・・そうなんじゃないか・・!

出す自分とそれを聴く他者とのやりとり。書く自分と読む自分とのやりとり。

同じ自分であっても書くときとそれを読むときは既に時間がちがう。読むのは書いた後。

やりとり・相互作用で変化するもの。

考えてみれば当たり前という感じの結論になったなぁ。

日本人の知的風土を読んで・・という奴も、出してから、

読み返す度にあれ?と思ったりして書き換えてる。







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「自分を変える教室」著者・マクゴニガルさんに聞く

2013-02-11 19:37:07 | 新聞を読んで
こういう記事があるとつい紹介したくなる。

今朝の毎日新聞の『くらしナビ 生活 lifestyle』欄、

大きな見出しが「5分のお預け 意志力鍛え」

でも何でコレを大きな見出しにしたんだろう?とも思ったよ。

アメリカのスタンフォード大の心理学者ケリー・マクゴニカルさんが

大学で行なった公開講座をもとにした単行本「スタンフォードの自分を変える教室」の

日本での売り上げがいいらしい。

その人と経済評論家の勝間和代さんとの対談が載っていた。

科学者のように自分を観察すべきと云ってるがどういうことかという質問に

ケリーさんはこう云っている。

「・・自分の失敗や愚行を、道徳や倫理の基準で判断しないことです。

ダイエット中に食べ過ぎて「私ったらこんな失敗をして!」と取り乱すのではなく、

好奇の目で自分を眺めた方がいい。

善悪の判断から離れて、行動そのものを観察する。

それは科学者の態度です。

そうすれば自分を変えるのはスキル(技術)であって、道徳の問題でないことがわかってきます。」

なかに、意識しないようにすると逆に意識してしまう・・・といった、

逆説を論じている章もあるらしい。

「人は自分の心を変えようと努力しがち。

けれど、考えや欲求はコントロールできない。それをまず認めるべき。

それを受け入れて初めて、考えや欲求に従わない行動も取れる。

不安を止めようと思っても止まらない。

不安だけどやってみる。そうすることで不安になる必要は無かったということを

脳や体が学習する。経験する前に不安をコントロールしようとするのが間違い。

脳の変化は死ぬまで続く。

この本の内容を信じ込む必要はない。ただ、試してはどうか、ということ。」


・・・こういった本が特に日本でよく売れているということが興味深いなぁ。
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「日本人の知的風土」を読んで

2013-02-10 15:39:21 | 本を読んで
先月末に、「思うという言葉」でちょっと書いたけど、

それに加えたのを著者のひと宛てに書いてみた。

出すかどうかまだわからないけど、もしよければ読んでみてください。

何度も読み直すと、書き換えたくなって何度か変えた。

今日は3月8日。又変わるかな。

第3章の「言葉と発想との関わり」の中に、「『思う』が論理力を破壊する」とあり、「思う」とか「思います」などの用法が私たちの論理的な思考の展開を邪魔してしまうのである。こうした表現を出来るだけ少なくするように努力することから、私たち一人ひとりが、あらゆる物事について論理的に思考できるようになるのだと推測しているのだが、いかがであろうか・・(92頁)
という文章があったので、自分の思うところを表現してみます。

「会議を始めたいと思います」という用法について、何故会議を「始めます」としないのか不思議だが・・(90頁)とありますが、この問いが発される前提には会議は~時から始めるということになっているというものがあるかと思いますが、会議は何日の何時からと決めたが、予定はなんらかの都合によっては幾らでも変わる可能性はあるものであるという含みがその言葉の用法に表われているのではないかと私は観ています。

「こういう言い方が謙譲の気持ちでなかったとしたら、個人的に思うだけだから、“始めたい”のなら、勝手にどうぞということになってしまう、」とありました。その通りだからこそ、その後に(思います)を付けるのかと思います。
なぜなら、個人的には始めたいが、(皆さんはどうか?)があるからこそ、(思います)を自然と付けたくなってしまうのかと思います。
日本語を日常的に使うことによって、日本人の潜在意識に(ひとは他と“共に在る”)という考えが根付くようになったのではないかと云う仮説を私は持っているのですが、あの震災後の日本人の在りようが世界的に話題になったことも、日本語という言語が思考に及ぼす影響をしめすものではないかと思っています。
それが謙譲の気持ちの現われという解釈もあるようですが、謙譲というより、
他と共に物事を進めるのは当然というような認識、会議はその場に居る全員で為されるものという認識が日本語の用法にあるのではないかと考えています。

実際にどんな物事も現象も一人の力で動くものではないのは事実です。
一人で大きな力を持つ人もありますが、その力でさえ、それに賛同する(反対しない)多くの人間が存在する事によって成り立つものです。

全ての現象が相互関連作用でなるものだという法則にこうした日本語の用法はマッチしているのではないかと思います。
 常に現象は止まることなく動き続けているものだという事実や、個人の考え一つで物事はなるものではないことを、“日本語の用法”は知っているかのようです。

また、・・・「思います」は不要であり、だが、さすがに書かれた文章にはこういう用法はほとんど見られない(90頁)ともありましたが、書き言葉と話し言葉は用法が違うものですので、それは当然かと思います。
書き言葉はそれを書いたその時の個人の認識を表現するものであり、その場で他者と何かを為そうとする場ではないからです。
他とのコミュニケーションのために書かれた文章はありますが、その書かれた文章自体はコミュニケーションの場ではないのは当然です。
コミュニケーションの場ではない論文を書くのに、これから論文を書こうと思います、などという場違いな表現はしないのも当然かと思います。

「そこに花が咲いている」という言葉があります。そこに花が咲いていても、それに何の関心も無ければ「そこに花が・・」という言葉は現われないという意味で、言葉は常に今ここという時空での認識を表わすものですが、この場合(思う)をつけないことで、それは自分個人の考えではないこと、その存在が存在していることを言っています。
「そこに花が咲いていると思う」は、それが今そこでの自分の思い・考えに過ぎず、事実はどうかわからない、その花は存在していないかもしれないということがその言葉遣いで示されています。こういった思いは後々変わるかもしれないという前提がそこにはあります。

目の前に花が咲いているのに、「そこに花が咲いていると思う」と言う人はまず居ないか、目の見えない人なら香りを感じてそう表現することがあるかもしれません。
また、「在る」と言い切る表現と、「在ると思う」という表現がありますが、実際在るかどうかわからないことでも、(思う)を付けずに「在る」と語気強く言う場合もあります。在るに決まっている、というような思考です。
そのような表現の仕方を聞いて、それを発したひとのその時の心境も覗えたりすることもあります。在るかどうかわからないことを在るとか無いとか言い切ることのナンセンスさがその言葉の調子でわかることもあります。
また、事実無いものを無意識的に在ると勘違いしている場合も「思う」を付けずに「在る」と表現する場合もあるものです。その場合は思い込んでいるそのことが「思う」をつけないことで現われています。

「あそこの鰻は美味しかった」という言葉でも、語尾に(思う)をつけるかつけないか、私たちはその場の相手の在りようによって無意識のうちに選択しています。
相手が「アンタがそう言ったから行ったけどちっとも美味しくなかったわ・・」
なんてことを言いそうな人には、「私は美味しいと思ったけど、あなたがどう思うかはわからないわ・・」などと付け加えたくなるし、そんなこと説明しなくてもわかっていると思われるひとには「美味しかったよ」だけで済みます。相手の認識レベルによって使い分けています。

「頑張りたいと思います」が「頑張りたいです」と「頑張ります」では何故いけないのかと、私は考えてしまう。“思います”がついたら個人的な感想を述べているだけだというふうにとられても仕方がないであろう・・・(91頁)という記述がありますが、
「頑張る」ということ自体個人的な感想、個人的な意志なのでそういうふうに受け取られて当然なのではと思いますし、言葉は表現であり、認識ですので、表現が違うということはそれを発する本人に自覚があろうとなかろうと、認識が異なるからだと思います。
「頑張りたいです」でもなく、「頑張ります」でもなく、「頑張りたいと思います」と発したのは、その表現を意識的にか無意識的にか、その人は選択したわけです。
 「思う」の前に動詞がある場合、例えば「歩く」だったら、「明日は遠足でたくさん歩くと思う」というように近い未来であっても今より時間的に後にすることを思うとき、「思う」を付けます。
「歩く」という動詞は形は現在形ですが文章の内容からいうと、未来の自分の姿を云っています。それに比べ「思う」はその言葉を発した今ここの自分の姿を云っています。
「頑張る」も「歩く」と同じことですので、明日頑張ることを今思っているということで、「頑張りたいと思います」でなんら問題はないと思うのです。
「思う」「在る」以外の動詞の現在形のその内容は全て未来を表わす言葉です。今ここという時空で未来のことについては「思う」としか言いようがないことを言葉が語っています。今ここという時空は「思う」と「在る」の動詞しか使えないという日本語の用法はとても哲学的です。
「頑張りたいと思います」という表現も実に事実に則している用法です。また、頑張りたいと思った瞬間より、その言葉を発した時点の方が時間的に後なので、「と思います」が後に付きます。
頑張りたいです、頑張ります、頑張りたいと思います、頑張るつもりです、頑張る予定です、頑張ろうと思います、頑張る!など、どれもみな微妙にニュアンスが違います。そういう言葉を発する時がどういう時なのか、場の様子はどんなものなのか、それをいう相手は誰なのか、どういった立場の人なのか、それを言う自分のたった今の認識はどんなものなのか、そういった全体を感じ取り、無意識のうちにそれに相応しい言葉が表現されます。幼い子供はそういった全体を見る目がまだないのでそれなりの言葉ですが。
このように「思います」を語尾につけるかつけないか、無意識のうちに日本人は選択していると思われます。
言葉の用法の豊かさ、きめ細かさは日本人の心の在りようが豊かであり、粗っぽくないことの証しかと観ています。それは日本語という世界に類を見ない言語によって培われたものと思われます。

 先生が仰られている日本人は“物分りがいい”ということも、そういう日本人の在りようを表わしているように思います。「大は小を兼ねる」ように、認識という許容量が大きいと物分りはよくなってしまうものです。

 桜井先生の文章に、日本人が書いた英文の論文をアメリカ人にはわからなかったが、先生が読んでみたら何をいいたかったのかわかったという箇所がありましたが、そのことも先生の物分りのよさ、許容量の大きさを示すものかと思います。
その論文を書いた日本人本人が英文に翻訳したのか、別の人が翻訳したのかわかりませんが、本人がしたのだとしたら、英語が日本語と同じくらいのレベルでなかったということでしょうし、別の人が翻訳だけしたのだったら、その人はその論文の主旨がわかってなかったことか、やはり英語に堪能ではなかったかのどちらかなのかと思います。

同じ日本人であっても、微妙な、けれど確かにそこに存在するニュアンスを感じ取れない人もあるでしょうし、「文は人なり」という言葉が日本にありますが(外国にもあるかどうかは無学な私は知らないのですが)広辞苑には人柄が知れるとありますが、人柄だけが文からわかるのではないと私は思っています。やはりその人の認識のレベルが出てしまうということもあると思います。 
 
日常の暮らしの中でも、存在と認識の相異を私たちは言葉で表わしています。
そのような日本語という言葉、その用法は、かなり高度なものではないかと私には思えます。
「思う・思います」のある無しには深い洞察が潜んでいると私は思っています。

論理的な展開の仕方に納得が行かない、論理的に説明してほしいと先生が話した時に「ここは日本なのだということを忘れないでほしい」という注意があったようですが、その発言を通して伝えたかったことはその人の中にあるのだろうけれど、それをそのまま観察し、言語に変える力を持ってない未熟さがそういう言い方をさせたのかと思いました。

先生の仰る通り、論理的に一点の不備もないような日本語での論理の展開の仕方、導き方というものはあり得ると私は思っています。行間を読めというような表現が日本語にはありますが、その行間をも論理的に説明することは可能だと私は思います。言わぬことで言っている、ということは確かにあるからです。
考えるとは言葉で考えると云うこと以外ないもので、この世にある全ての言葉は相対的なものである以上、言わぬ事で言っているということがあるのは当然です。それは言葉という相対性の場での哲学的思考であり、それは論理的思考といえるものかと思います。

日本人なら通じるという思考停止をしてはならないのである(145頁)の言葉は全くその通りと思います。それは怠慢の一言につきます。論理はいつでもどこでも辻褄が合ってこそ論理ですから。

ここは日本なのだ、というような理由で誤魔化してしまうことがなくなるには、日本人の中にある“物わかりの良さ”というものがどういう思考の展開でそのようになっているのかを観察できてこそ論理的に説明することもできるのかと思います。そして、それが出来るようになるまで、今のような状態は続くのかと思います。

それにしても、論理に至る前の最初の取っ掛かりは感覚や感情であると私は思っています。

日本人がアメリカ人に比べて論理的でないという指摘はあまりに大雑把で一面的であるように思います。私は日本語という言語で表現する世界は深いと思っています。
思ったことを書きました。ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。

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川柳「窒息も・・」

2013-02-09 20:36:56 | 新聞を読んで
「窒息もゼリー有罪モチ無罪」

今朝の毎日新聞の『仲畑流万能川柳』に載ってた一句、コレ。

この欄が新聞で一番好きなんだけど、今朝のコレ、凄くいい。

お菓子のゼリーで窒息すると、そのお菓子を作った会社は糾弾されて、

餅で窒息死しても、餅のメーカーは糾弾されない。

何故か?・・・

餅が喉に詰まって窒息死する老人は多いそうだけど、次に窒息死する食べ物はおかゆだそうだ。

餅で窒息死するのはある意味当然とされていて、

ゼリーで窒息するのは当然じゃない、という見解がこの世にあるということか。

餅ならば、窒息する方が注意を怠ったからで、

こんにゃくゼリーならば、作った方が注意を怠ったから、ということになるのか・・・

こんにゃくゼリーが餅のようにポピュラーな存在になったら、

ゼリーで窒息するのは注意を怠ったからだ、ということになるんだろうか・・
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死ぬならガンに限る

2013-02-08 16:01:39 | 実例体験観察
「死ぬならガンに限る」というネーミングだったかなぁ、

中村仁一さんという医師と近藤ナンタラさんという医師の対談本をこの前読んだ。

それぞれの他の本を読んだことがあるので、

ちょっと予想はしてたけど、やはり・・という内容だった。

殆どのガンは切らずに放置すると死ぬまで痛みがほとんど無いし、

切らないことで快適に過ごせ、生きる時間も長いようで、

ガン検診はこの二人とも受ける気はさらさらないそう。

予防医学が最近盛んだけど、アレは患者を“呼ぼう医学”だという文章もなかにあって、

読むとなるほどと納得した。

この本のことを夫や友人にしたとき、

自分に随分力が入っている、と感じた。

なんかムキになっていた自分だった。

今の時代でガンは切らないで放置したらいいなんて言うと無視されることが多いとは思う。

なので、自分がそういう内容を夫や友人に納得“させたい”、

というのが強くあった。それで力説してしまったなぁと思った。

でも、なんでそんなに力説したんだろう???

なんで本の内容を納得してもらいたいと思ったんだ???

と、布団に入ってから自分を観た。

夫がガンと宣告されたり、そうかもしれないとなったとき、

夫はかなり不安状態になるのではないか、という不安が私にある。

そんな不安に怯えるようになってほしくない、という願いが私にあることに気づいた。

ひとを思える自分だということに気づいたことは嬉しかった。

けど、実際夫がどうなるかはわからない。

夫が不安に駆られて心が苦しむことのないように願ってしまったけど、

苦しむかもしれないし、苦しまないかもしれないし、

苦しんだとしても、それが良くないとも言えないと思った。

私も娘のことで、心配や不安で心が破裂しそうになった経験があるけど、

それがあったからこそ、不安の無い心になれた。心配の無い心になれた。

そんなふうに思いが行ってから、

夫のことは夫に委ねよう、となった。

友のことは友に委ねよう、となった。

実際は委ねることしか出来ないのに、委ねられない自分を発見した。

委ねられない自分が在ってよかった。

委ねられる自分を見つけられた。

そして、夫や友が不安で心が苦しいことがあったら、そのとき、それに寄り添える自分で居たいと思った。

ま、これは今の心境で、実際そんなふうになったとしたら、どうなるかはわからないけど、

こういう思いを経験できたことはきっと悪くないだろうな。

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自然と人間

2013-02-08 14:04:34 | ひとの幸福
日本は自然に恵まれているので、人が自然と共に生きている、と言われる。

穏やかな優しい自然。緑豊かな自然。春夏秋冬と美しい自然。

他の国と比べると格段と自然に恵まれているといえる。

自然が人を豊かにしてくれる、と感じている。

そのせいで自然に対抗するというより、自然と共にという思考が育つ、とも言われる。

それに比べ欧米は人間と自然は対立するものと捉える。

自然を克服するものと捉える。

荒くれた自然の中でそうなったのも当然なんだろうな、と思う。

けど、日本も地震という自然の脅威は世界一だ。

それに対しても日本人は荒ぶれない感じがする。

津波状態になった海をそれが治まればやはり愛してしまう。

それは人間を自然の一部と実感していることから来るのかと思う。

どう考えても人間は大自然の一部だ。

他の動物、植物たち、と一緒に存在してることをわかっている。

人間対自然という見方はちょっと驕っているね。



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旅にて・・

2013-02-08 10:39:55 | 日々の暮らし・思い出
昨夜、自宅に戻った。

今回、長女と初めての二人旅をした。

この娘は今まで身体が不調なことが多く、こういう機会がなくて、

娘からのたっての希望もあり、二人で箱根へ。

二人で話した時、娘が「お母さんが私の母親じゃなかったら絶対友だちにならないタイプ」と言い、

私も以前、娘だから付き合うけど、他人だったら絶対好き好んで付き合わないタイプと思ったことがあるので、びっくりした。

それは娘には言わなかったけど。

いろんなことが正反対で、でもそれが互いにとてもよく作用していると今は思う。


この娘を産んだ瞬間に「分身だ」という言葉が自分の内からやって来た。

凄く凄くびっくりした。

親と子が分身だなどという考えを持ったことなどそれ以前に一度もなく、

それは私の普段の思考と全く異なっていたので、

自分の考えではないものが自分から出て来たことに全く全く驚いた。

私というパーソナリティとは関係ない言葉だった。

こういう経験は人生初だった。

二度目の出産、次女を産み落とした時はこういうことはなかった。

こういう経験が誰にもあるのかないのか知らないのだけど、

娘もこれと同じような経験があるらしく、中学生の時に、

全く自分の思いではない声が自分の内からやってきて、それは「自分の声に従え」だったという。

すごくびっくりしたらしい。

中学生の娘は神の声と思ったと言っていた。

当時の娘の様子から思うと、その声の内容が娘には必要だったのかと思う。


「分身」という言葉が何を語っていたのか、当時には全くわからなかったけれど、

今はわかる気がしている。

分身の意味は一つの身が二つ以上に分かれることらしいけど、

私と長女は一つのものに表と裏がある、その、表裏一体という感じがする。

多くの正反対なことが私の心の成長には必要だった。

これからもまだ続くと思うけれど、この娘の存在が私を揺すぶり、

私を打ちのめし、私を幸福な境地に誘ってくれる。

そして、それは娘にとってもそうであるかのように思う。





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ことば

2013-02-01 16:20:06 | 言葉
「思う」という言葉が存在できるのは「思わない」が存在するから、と思う。

「こういう」という言葉が存在できるのは、「あーいう「そういう」が存在するから。

西という言葉が在るのは東という言葉が在るからこそであり、

北という言葉が在るのも南という言葉が在るからこそ。

私という言葉が在るのはあなたという言葉が在るから。

コーヒーを入れたカップが今この机の上に在る。

「コーヒー」という言葉は「コーヒー」という言葉以外の言葉があるから、

コーヒーでいられる。変な表現かな。

入れたという言葉も入れてないという言葉があるから存在出来る。

「カップ」もそうだ。カップ以外はカップと言わないから。

「が」という助詞もそうだ。「が」以外の助詞があるから。

「は」「と」「も」「に」「を」という助詞が在るから、「も」が「も」でいられる。

「今」もそうだ。今以外の時があるから。

「在る」もそうだ。「無い」があるから

言葉は認識。

観念動物である人間が世界を認識するにはそういう方法しかない。

認識というモノは相対的にならざるを得ないのは仕方が無い。

論理・認識というのは相対的。事実・存在は絶対。

地球が在る そのことは絶対。だけど、その認識は相対。

「無い」という言葉があるからこそ「在る」という言葉があるのだから。

言葉を思うと、言葉の最初はどういうふうに現われたんだろう????と思う。

聖書によると初めは言葉は一つだったらしいが、

なにかで幾つもに分かれた・・らしい。

勉強不足でそれくらしか知らないんだけど。

言葉の始まりの始まりの始まり・・を思うとこの世に居ないような気分になる。
 







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寒いなぁ

2013-02-01 15:53:09 | 日々の暮らし・思い出
明日から出かけるので、しばらくこのブログ更新しないと思う。

うちに居てこんなんを書いたり、手芸したり、洗濯したり、掃除したりしている暮らしも大好きだけど、

出かけて人に会うのも大好き。

寒いなぁ。東京はもっと寒いかな~。

でも家の中と外では違うし、家の状態でも気温は全然違うからね~

よく北海道の人が内地は寒いと言うけど、場所によってだろうな。

うちは義父の居る居間はファンヒーターがほぼ一日ついているけど、

それ以外は無暖房。寒い日の台所はとても寒い。

自分で身体を動かして自家発電であったかくなってから台所仕事をすることもある。

明日からの六日間、自分の心に何が起こるだろう?

どんな自分が現れるだろう。超楽しみ。



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