4才の孫が母親に甘ったれる様子が目に余るというか、
忌々しい・・・よくそういう気持ちになる自分なんだけど、
その日はそうは思わずに明るい笑顔を向けられた。
ひどいよね、幼児のそういう可愛ったらしい様子を忌々しい・・なんてね。
でも、私はそういうふうに感じることが多いんだよ。
やだねぇ。こういう自分て。
調子に乗ってる様子とか、甘ったれてる様子とか、そういうのに弱い。
弱いというか見ていられない・・見たくない、というふうになるんだ。
夫と二人の限界集落暮らしの時は
幼児なんて見ることも付き合うこともなかったから、
こういう自分に遭遇していなかっただけなんだろうと思う。
四つ年下の弟が調子に乗っておどけたり、甘えたりするのを
見ていられない小さな頃の自分だったことを思い出す。
そのことをずっと忘れていたけど、この暮らしになって思い出す。
思うに、小さかった頃の私は弟のように、
甘えたり調子に乗ったりすることが出来なかったから・・
・・なんじゃないかと思い当たったんだ・・・
いや、勝手な推測だけどさ。
小さな頃、私はほとんど毎晩泣きながら眠りについていたことをよく憶えている。
その頃はなぜ自分が泣くのかなんてわからなかった。
小学校低学年か、幼稚園の頃のことだったんじゃないかな・・・
布団に入る前も暗い庭に出て
大きなツツジの植え込みの下に隠れて泣いていたことも
鮮明に憶えているんだよ。
なんか、書くと悲しいね。可哀そうな子供だったなぁ。
けれど、その時は何故泣いてしまうのかわからない自分だったと思う。
なんで泣いてるの?と聞かれたとしても何にも答えられなかったと思う。
でもほとんど誰も探しには来てくれなかったし、
どうして泣くのか、なんて聞かれたこともない。
子供って、何故泣くのかという?は持たない、持てないのだろうなぁ。
そうだよなぁ。子供だもの。
どうして自分は今こうなのか?なんて原因を探ったりしない。
悲しみのわけを探っても悲しみが消えるわけじゃなし、
そういうことを子供は知っているんだろうな。
そして知っていることを知らないんだろう。
・・・今以って私が僻みっぽいのも無理ないんじゃないかなと
少し自分を甘やかそう。
これは長い脱線でした・・・
そう、4才が食卓で甘えんぼうになっているのを見ても、
その日は笑っていた私だった。
どうしてそう居られたのかは今、思い出してもわからない。
で、そう、これが言いたかったんだ・・
明るい私でやればいいんだ。その時その時の今を。
調子に乗って甘えてる4才児を前にして忌々しいと思わなかった自分は
なんて気分がいいんだろう。
わからない明日のことなど考えずに。
その時、なんでだか、そう思ったのだ。