海と空

天は高く、海は深し

3月26日(火)のつぶやき

2013年03月27日 | Myenzklo

「国家は自己を自覚している人倫的な実体である。国家は家族の原理と市民的な利益社会の原理との統合である。この統一の原理は、家族においては愛の感情としてあるものだが、それは国家の本質でもある。a(ヘーゲル『哲学百科事典』§535)」


※これからヘーゲル哲学について研究してゆく場合の姿勢としては、まず、原典を出来うる限り忠実に翻訳してゆくとしても、それだけではどうしても、ドイツ語と日本語の言語体系の相違のために、ヘーゲルのドイツ語における認識や思考の展開が、どれだけ忠実に翻訳を心がけたとしても、a


本来的に両言語の持つ認識表現の差異のために、完全に日本語としての認識表現に転換するには限界がある。そこで、私は方法論として、まず第一に可能な限り、原文に忠実に日本語への翻訳を実行するけれども(これが翻訳の第一相)、第二に、その第一相翻訳を踏まえた上で、


認識の本質的同一性を保持したまま完全に自己の私自身の日本語に 転換するという作業を行なってゆく。(第二相翻訳)この段階は従来は「意訳」と呼ばれるものかも知れないが、少なくとも、ヘーゲルの原文の趣旨を、同一の事柄をどのように認識しているかを、


私自身が母語である日本語において表現し確定してゆこうというものである。だから、この第二相の記述においては、少なくとも、ヘーゲルの叙述の同一の事柄を、私自身がどのように解釈し、また、認識しているかを、事実として記録してゆくことになる。このことは、講壇学者のように、単にドイツ語の


横文字を日本語の縦書きに転換することをもって完了とするのではなく、ヘーゲルの哲学大系の現実的な意義を、私自身の哲学と思想の構築に生かし切るためにヘーゲル哲学大系の読解を目指す者にとっては、当然の姿勢であり方法論でもあるはずのものである。早速に、先述の翻訳個所について実行してみる。


「国家というのは、自己のことを自覚している人倫としての実体である。国家は家族と市民社会の二つの原理を統合する存在である。家族の原理は愛であるが、国家の本質も愛である。」※「人倫としての実体」の原文は、sittliche Substanz であるが、「Substanz」 は「主体」


とも訳せる。担い手、支える物、有体物などの意味で、ここでは原動力を内在させている物、ぐらいの意味にとっている。私たちが、日本やイギリスやドイツ、アメリカなどの言葉で具体的に表象する事柄や内容と考えてよい。日本であれ、イギリスであれ、これらの国家は、兵役の義務や納税の義務など、


それぞれの国家に所属する国民は、国家に対して倫理的な義務を担う。このように、ヘーゲルなどは国家を「実体」として捉えるのであるが、ケルゼンなどの立場は、国家を、ヘーゲルのように実体として「客観的観念的実在物」としては認めない。


ケルゼンが国家の現象として存在を承認するのは、実証できる制定法においてのみである。これは、哲学上の認識論から言えば、「概念」の客観的実在を認識しない不可知論、もしくは唯物論の立場に事実上立っている。従って、ケルゼンは「自然法」を認めない。この立場は法実証主義と呼ばれる。


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