しかし、ヘーゲルは実体としての国家の客観的な実在を認めている。ヘーゲルの「国家」の体系的な位置は、第三篇、精神哲学の第二部、客観的精神のなかの人倫の項目である。ヘーゲル哲学の他に増して独自である点は、その哲学の体系性にあることは言うまでもない。ニーチェやショーペンハウエルなどの
愚劣な哲学に比して、ひときわ卓越せる点も又、この体系性とその論理的な完結性にあることは言うまでもない。そうした性格は科学哲学として、必然的なものである。そして、ヘーゲルは国家を論証し、それが近代においては具体的には「立憲君主国家」型態を取ることを論証したのである。
我が国の政治家や大衆は歴史的に、伝統的に我が国の国家体制が、皇室を中心とする「立憲君主国家」体制であることを承認し、又その優越性を理解しているようであるけれども、それはいわば、本能的な、あるいは直観的な、あるいは感性的な理解であって、決して哲学的な論理科学的な確証のある
理性的な理解にまでは立ち至ってはいない。私の知る限り東京大学の哲学教授でさえ、ヘーゲルが自身の哲学大系の中で論証した「立憲君主国家観」を理解していない。だから、日本の政治家の中でも誰一人として、哲学的確信をもって我が国の「立憲君主国家体制」を理解している者はいないとしても
おかしくはないのである。ただ、しかし彼らの国家観が哲学的でなく、感性的であり、直観的であることの欠陥や不完全性はやはり免れないのであって、それは、立憲君主国家を承認する者においても、その歴史観は「皇国史観」レベルに止まっていることに現れている。論理的な「絶対的国家観」として
の自覚を持ち得ないというところに現れている。評論家の西尾幹二氏らにしても、直観的に我が国の国家体制として、皇室を中心とする「立憲君主国家体制」の優越についての信念は持っている。しかし、ニーチェ学者でヘーゲルをやらない西尾幹二氏にとっては、
その国家体制の正当性についての確信は、決して論証された科学哲学的な信念であるというものではない。それはヘーゲルの『法の哲学』を通じて初めて獲得されるものだからである。