海と空

天は高く、海は深し

11月11日(日)のつぶやき

2012年11月12日 | Myenzklo

しかし、そうではない。がんらい物質について重さのないものは何もなく、物質とは重さそのものだからである。重さが物体を構成するものでありかつ物体なのである。自由と意思についても同様である。がんらい自由なものとは意思であるからである。自由のない意思とは空なる言葉に過ぎず、b


また、自由とは単に意思として、主観としてのみ現実的であるのである。しかし、意思と思考との関連については次のことが注意されなければならない。精神とは思考一般であり、かつ人間は思考によって動物から区別される。c


ところで第三の契機は、自我がその制限の内にありながら、すなわちこの他者のうちにありながら自己自身に安らっているということ、自我が自己を規定しつつしかもなお自己に安らい、かつ普遍者を確保することを止めないということであるが、この第三の契機はかくて、a


上に述べた二つの契機が徹頭徹尾抽象的かつ一面的なものと見られているのに反して、自由の具体的概念である。しかし、この意味の自由を我々はすでに、例えば友情や愛として、感覚の形式で持っている。友情や愛においては我々は本来一面的ではなく、むしろ喜んで他者に関して自己を制限するが、  b


しかもこの制限において、自己を自己自身として自覚する。この規定性においては人間は自己を規定されたものとして感じるはずもなく、かえって他者を他者として考察することによって、そこにはじめて自己感情を持つのである。(ibid §7補遺)


したがって自由とは無規定性のうちにも規定性のうちにも存せず、この両者なのである。一つのこのものというようなものにまったく制限されている意志は利己主義者の意志であり、利己主義者は自己がこのうような意志を有しないとき不自由だと考える。けれども意志はある制限されたものに拘束されず、a


さらにこれを越えて進むものでなければならない。“けだし意志の本性はこのような一面性や非拘束性にあるのではなく、自由とはある規定されたものを意欲すること、しかも、この規定の内に安らい、かつふたたび普遍性と還帰することであるからである。”b(法の哲学ibid s 7補遺 )


※ここにヘーゲルの言う「大人の自由」がどういうものであるかがよく示されてる。またこの個所を読んでも、ヘーゲルの言う、個別、普遍、特殊がどのような意味で用いられているかが明らかである。このように哲学のその現実的な意味を読解しながら読むことが大切だろう。


また同時に、ヘーゲルの叙述の仕方をよく学んでゆかなければならい。とくに概念の叙述の自己展開させて、それを観望するのみというのが哲学の立場であるはずである。「普遍」→「特殊」→「個別」という展開である。とくにこの§5と§6の個所は熟読吟味すべきところであろう。


思考と意志の関係を述べた§4も重要である。ヘーゲルは言う。「思考と意志との区別は単に理論的態度と実践的態度との区別にすぎない。」(ibid s 22)※とすれば、理論的態度と実戦的態度とはどのように違うのか。それは以下のように説明している。a


「しかし決して二つの能力があるのではなく、意志は思考の一種特殊な仕方、すなわち自己を定在へと移すものとしての思考、自己を具体化しようとする衝動としての思考である。」・・・がんらい思考においてはじめて私は私であることを体得するのであり、概念的把握にしてはじめてはじめて対象の b


洞見的把握であり、そのとき対象はもはや私に向かって存在しておらず、それが私に対して持っていた、対象だけに固有のものを私はそれから奪い取っているからである。アダムがエヴァに汝は我が肉中の肉、我が骨中の骨なり、というように、精神は、これ我が精神中の精神にして未知なるもの c


すでになし、というのである。すべて表象とは一個の普遍化であり、そしてこの普遍化とは思考に属するものである。あるものを普遍化するということは、あるものを思考するということである。“自我は思考であり、かつ同様に普遍者である。”に私が自我というとき、私はそこに性格、素質、識見、d


年齢という一切の特殊性を除去している。自我とは全く空な、点のような、単一なものであるが、しかも、この単一性において活動せるものである。(ibid s 22)※自我にについての研究は、今日に至るも最もヘーゲルが卓越しているように思われる。この哲学を研究するとは自我を研究すること。


世界の色とりどりの絵姿が私の前にある。私はそれに向かって立ち、この普遍化という態度によってその対立を破棄し、この内容を私のものとする。“自我は世界を知っているとき、世界に安らっている。が、世界を概念的に把握したとき、なおいっそう世界に安らうのである。ここまでが理論的態度である。”


意志は(α)純粋無規定性、換言すれば自我の純粋自己内反省という要素を含んでおり、一切の制限、すなわち欲求、欲望、衝動などのような自然的性質によって直接に存在する内容、もしくは、何によってであれ、与えられ規定された一切の内容は、この自己反省中で溶解してしまっている。a


それはいわば絶対的抽象、もしくは一般性という無制限な無限性であり、自己自身の純粋思考である。【法の哲学§5】この節に、フランス革命の結末のように、ルソーやマルクスの系譜にある革命が、往々にして、カンボジアや中国の文化大革命のような破壊的な結末に至るのか、その理由が論証されている。


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