時と永遠の問題は古今を通じて哲学及び宗教の最も重大なる関心事に属する。それはまた最も困難なる問題の一つである。本書は旧著『宗教哲学』において展開されたる解決の試みに基づき、それを敷衍拡充を企図したものである。【波多野精一著『時と永遠』序】
国家が自給自足する体制が自立国家である証。小さな自給自足の単位を網の目のようにつなげて、分業体制や金融資本主義から離脱しよう、その後にそれを世界に広げて行こう、というのが目標です。あくまでも憲法の話はその手段でしかない。 wp.me/pKQj5-1eb
「永遠」は種々の意味において時乃至時間性を超越乃至克服する何ものかと考えられ得るゆゑ、「時と永遠」の問題は種々の形において種々の観点よりして取り扱われうる。吾々は今これを宗教哲学の観点より取り扱はうと思ふ。波多野精一著『時と永遠』(s 5 )
「永遠」の観念が宗教においてはじめてそれの本来の力と深みと豊富さとを発揮し得ることによって実質的にも要求される。「永遠」は宗教に本来の郷土を有する観念である。このことによって「時」乃至「時間性」の取り扱い方も一定の方向を指し示される。(ibid s 5 )
※宗教のみならず、もちろん芸術においても、又哲学自身においても「時間と永遠」とは深く係わりをもつものである。だが確かに宗教においてこそ、この観念が深められ発達せしめられたのも事実だろう。私がここで学び取るべきことは、私にとっての「永遠」の概念を私自身に明確にしてゆくことにある。
※それによって、宗教や芸術や哲学やその他の一般的な事象についての私の視点を深め確立するためでもある。たとえば、「西行」の芸術の永遠性を問題にする場合にも、この「永遠」についての概念をどの程度の深さにおいて認識しているかによって、大いなる際を生じることになるだろう。
この波多野精一氏の『時と永遠』は氏の時間論であり永遠論である。時間と永遠の概念が、本書によって明らかにされている。本書に学ぶ意義は、それによって私自身の芸術論、哲学論、国家論、憲法論を深めてゆくためなのである。「国家と永遠」なども私が書かなければならない本である。
特に「永遠」の観念が宗教においてはじめてそれの本来の力と深みと豊富さとを発揮しうることによって実質的にも要求される。「永遠」は宗教に本来の郷土を有する観念である。このことによって「時」乃至「時間性」の取り扱い方も一定の方向性を指し示される。表象の内容をなすだけの又は単なる
客観的存在者としての理論的認識の対象をなすだけの永遠は、宗教においてはほとんど無用の長物である。このことに応じて、吾々の論及は時乃至時間性に関してもそれの特殊の形に重点を置かねばならぬであろう。これは時と永遠との相互の密なる連関よりして当然期待される事柄である。(ibid s5)
吾々は体験の世界に深く探り入って、吾々自らその中にあり又生きる「時」、すなわち生の「時間性」の本来の姿を見究めなければならぬ。二吾々は、主体は、「現在」において生きる。現に生きる即ち実在する主体にとっては「現在」と真実の存在とは同義語である。(ibid s 7 )
現在が延長をも内部的構造も欠く一点の点に過ぎぬならば、この帰結は避け難いであろう。点は存在する他の何ものかの限界としての意義しか有せず、しかもこの場合現在によって区画さるべき筈の「将来」も「過去」も実は存在せぬ以上、時は本質上全く虚無に等しくなければならぬであろう。a
しかしながらかくの如きは体験における時を無視して客観的時間のみを眼中に置く誤った態度より来る誤った結論に過ぎないのである。時を空間的に表象することは、客観的時間の場合には避け難き事であり、従って現在を点として表象する事も許される事、b
又特に時を数量的に取扱はうとする場合には避け難き事であらう。しかもかかる考え方の覇絆を脱すべく努めることが、時の真の理解に達しようとする者にとっては、何よりも肝要なる先決条件なのである。現在は決して単純なる点に等しきものではなく、一定の延長を有し又一定の内的構造を具えている。c
体験においては、時は一方現在に存するともいひ得るが、しかも他方において、その現在は過去と将来とを欠くべからざる契機として己のうちに包含する。現在は絶え間なく来たり絶え間なく去る。来るは「将来」よりであり、去るは「過去」へである。c
将に来たらんとするものが来たれば即ち存在に達すればそれは現在であるが、その現在は成立するや否や直ちに非存在へと過ぎ去り行く。この絶え間なき流動推移が時である。かくの如く将来も過去も現在を流動推移たらしめる契機としてそれのうちに内在する。d
ここでは生じるはいつも滅ぶるであり、来るはつねに去るである。動き生きるということが現在の、また従って時の、基本的な性格である。時のある限り流動は続き従って現在はいつも現在であるが、これを解して時そのものは不動の秩序乃至法則の如きものであり動くは単に内容のみと d
考えるのは誤りである。内容に即して現在は絶えず更新されて行く。主体の生の充実・存在の所有として、現在は内容を離れて単独には成立ち得ない。むしろ内容に充ちた存在こそ現在なのである。内容と共に絶えず流れつついつも新たなのが現在である。(ibid s 8 )