永遠なものであり、神的なものだからである。道徳(Moralität)、人倫(Sittlichkeit)、信仰(Religiosität)がそれである。s62 ※よく言われることだけれども、ヘーゲル哲学には「個人」がないなどと言った、とくに実存主義からする批判がどれだけ的はずれの
ものであるかが、この個所のヘーゲルの論述からも良く分かる。ヘーゲルは続けて言う。「個人を通じての理性目的の実現ということを述べた際にも、その個人の主観的な側面、個人の関心、すなわち欲望、衝動、主張、洞察というようなものの関心は、たとえ形式的な面ではあるとしても、それ自身は
充たされなければならない無限の権利を持つものである事は述べておいた。」「普通に手段という時には、それはさしあたって目的に対して本質的な関係を持たないところの、目的に対しては単に外面的なものと考えられている。けれども実際は、手段として利用されるものは自然的な事物一般でも、
否、最下等の無生物さえも、目的に適合するという性質を持ち、目的と共通な何かを中に持っているのでなければならない。人間がこういうような全く外面的な意味で理性目的の手段になるということはまずない。人間は理性目的を充たすと同時に、またこの理性目的を切っ掛けに、内容上は理性目的とは異なる