〔c、政権と教権との抗争の結果〕一方ではドイツ皇帝がイタリアにおいて神聖ローマ皇帝の称号を自分のものにしようとしたが、他方イタリアの政治の中心はドイツにあった。これら二つの国は繋がりあっていたが、決して一つになることはできなかった。ホーエンシュタウフェン家の盛時には、
フリードリッヒ・バルバロッサ Friedlich ・Barbarossa のような英傑が王位の威厳を保っていた。皇帝の権力は彼によって輝かしい光を放った。彼はその人格によって臣下の諸侯を心服させることができた。しかし、ホーエンシュタウフェン家の歴史がどんなに輝かしいものであっても
その歴史は結局のところ、この王家とドイツ帝国との悲劇に終わり、また教会との争いも精神的には何ら偉大な成果をも挙げることなく終わった。確かに、各都市は皇帝の権威の承認を強いられ、都市の代表者たちはロンカリア会議の決議の遵法を誓った。しかし、彼らがそれを守ったのも、
彼らに圧力が掛けられていた間だけだった。その義務はただ剥き出しの圧力によるものだった。話によると、皇帝フリードリッヒ1世(バルバロッサ)が都市の代表者に、君らは平和条約に誓いを立てたではないかと詰問したとき、彼らは「確かに、しかし我々はこれに遵うことを誓ったわけではない」と
答えたとのことである。その結果として、コストニッツの平和会議(1183年)においてフリードリッヒ1世は、彼らにドイツ帝国に対する臣下の義務だけは破らないという条項を認めさせることはできたが、都市住民たちに相当の独立を認めなければならなかった。――皇帝と法王との間の叙任権争いは、
1122年にハインリヒ5世(HeinrichⅤ)と法王カリクストス2世(CalixtusⅡ)との間に次のような妥協が成立した。すなわち、叙任については皇帝に王笏を、法王は指輪と法杖を持つことになったのである。また、司教の選挙には皇帝または皇帝の使節の臨席のもとに司教評議会の手で
行われることとなった。そしてまた、皇帝は司教を期限付きの世俗の封建領主に任命するが、僧籍上の位階の叙任については法王の手でこれを行った。こうして世俗の王と聖界の法王との長い間の抗争は終決したのである。(ibid s 236 )