〔5、中世国家の矛盾〕a、帝権の矛盾:教会の味方となり、教会の世俗における片腕になった帝権については、教会の世俗化として明らかにした。しかし、この帝国権力もその中に矛盾を抱えている。それはこの帝権がもはや空虚な尊称にすぎず、皇帝自身にとっても、a
また皇帝を利用して自分の野心を遂げようとしている者にとっても、もはや本気になって相手にされるものではなくなっているという矛盾である。というのも、今や野心や暴力が一本立ちしており、もはや単なる普遍にすぎないような観念(帝国)によって押込められることもなくなっているからである。b
b、忠誠の矛盾:第二にまた、中世国家の要であるところの忠誠(Treue)と呼ばれるものが、心情の浮薄に魂を売り渡してしまって、もはや客観的な義務などというものを一向に承認しないようになってしまったことである。そのために、この忠誠こそがもっとも不忠なものとなってしまったことである。
中世期におけるドイツ人の誠実(Ehrlichkeit)は諺にまでなっている。しかし、これも歴史にてらしてよく調べると、本当はカルタゴ人やギリシャ人の忠誠と同じものだったと言わねばならない。というのも、諸侯も皇帝の臣下も、ただ自分の我欲、
自分の利益と野心にのみ忠誠であり誠実だったからである。国家とか皇帝とかに対しては全く不忠であった。それは、忠誠そのもの中には彼らの主観や気まぐれに対する考慮はあるが、国家はまだ忠誠を基礎に人倫全体として組織されてはいなかったからである。
c、個人の矛盾:第三の矛盾は個人自身の中に
潜む矛盾である。すなわち、個人は一方では敬虔であり、極めて麗しい熱心な信仰を持つが、しかしその他面において粗野な意志と知性をもつという矛盾である。普遍的真理に関する知識もあるが、それにも拘わらず、世俗においても、教会のいずれにおいても甚だ粗野な観念が見られる。
荒々しい情欲の狂騒乱舞が見られる一方で、一切の地上的なものを断念して、一身を聖なるもののに捧げ尽くすキリスト教的神聖も存在した。中世というものはこれほどに矛盾に充ちたものであり欺瞞の巣窟だった。それにもかかわらず、今日において中世を卓越したものと見る者の存在するのは奇怪である。
剥き出しの野蛮、山猿の不作法、幼稚な空想などを見ると腹が立つよりもむしろ、却って哀れみを催す。(ibid s228 )