主は輸出入品にことごとく高い関税を課し、道路通行の安全保障の代金として通行税を課した。ところがやがて、これらの自治体が強力になるに連れて、自治体はこれらの一切の権利を領主から買い取るか、あるいは強引に奪い取った。都市はこうして自分の裁判権を手に入れ、また租税、関税その他の
課税から解放された。しかし、皇帝や地方の諸侯のために接遇のための費用を負担するという制度は長く続いた。商工業者たちは様々に異なる権利義務を持つ同業組合に分かれていった。また司教選挙の際にはそうして組織された様々な党派が諸権利を獲得するのに役だった。しかし後には市民と教会の間に、
つまり司教や修道院長との間に多くの争いが起きた。いくつかの都市では僧侶が主権を握り、他の都市では市民が主権者となって自由を獲得した。ケルンでは司教の支配から解放されたが、マインツでは未だ司教の支配を受けていた。しかし多くの都市は次第にその勢力を増して、ついには自由共和国となった。
こうしてこれらの都市は貴族に対して独自の関係に立つことになった。貴族たちははじめは都市の団体に加入し、例えばベルンの場合のように自分たちも組合に入っていた。そうして貴族たちはこれらの都市のなかで特権を主張し、その支配権を握ることになった。これに対し市民たちはそれに反抗して
統治を自分たちの手中にしてしまった。今では富裕な市民たちが貴族たちを押しのけてそれに代わった。しかし貴族の間にも党派の分裂があり、特に皇帝に属するギベリン党と法王に味方するグェルフ党との分裂があったように市民の間にも分裂が起きた。勝利を得た党派は破れた党を政権から追い出した。
また門閥貴族に対して現われた都市貴族も一般民衆の参政権を奪ったし、民衆の福祉を考えることの無かった点では本来の貴族と何ら変わらなかった。都市の歴史は政権を担った党派が市民のどの部分を代表しているかによって、政治組織の絶え間ない変更の歴史となった。
はじめの間は市民からなる委員会が市の役人を選挙したが、このやり方では選挙に勝った方の勢力が強大であったから、不偏不党の役人人事を実現するためには他の土地の者を裁判官や行政官に選ぶしかなかった。時には他国の諸侯を市の主権者に選んでこれに統治権を託するということもあった。
しかしこうした制度も長くは続かなかった。それらの諸侯はやがてその主権を自己の野望や情欲の満足のために乱用し、またその権力何年も経たないうちにも剥奪されてしまう。このように都市の歴史は、一方では悪らつな人物や実に公明正大な人物が入れ替わり立ち替わり現われて、尽きない興味を与えるが、
他方ではあまりにも定石通りの年代記にも成りすぎて退屈な面もある。こうして都市にはその内部にそうした不安と転変萬化の波乱があり、党派の間に抗争がありながら、他方では産業と海洋貿易の隆盛を見るとき、我々は驚かざるをえない。ここにあるものは実に、
ともに同じ一つの生き生きとした生命の原理であり、こうした内部の争乱に揉まれ養われてこそ、都市のそうした繁栄も外に現れ来るのである。
(ibid s 233 )
〔7、教権と政権との抗争〕a、教会と都市とに対する諸侯の抗争―神聖ローマ帝国:今我々はすべての国々の上にその権力を拡した教会と、合法的な組織をようやく手に入れはじめたばかりの都市とを、諸侯と豪族に対する反動勢力と見た。そして今度は、この二つの新興勢力に対して諸侯の反抗が起きた。
すなわち、皇帝が法王と都市との闘いに参戦するようになったのである。皇帝はキリスト教世界の元首ということになっていたが、それに対して法王は教会的権力の元首と見られていた。(ibid s233 )