しかし、その真の意味を理解し、それに正当な位置づけを与えうるのはただ哲学があるだけである。というのも、これも一つの必然的な過程だからである。それは、神聖なものについての意識がまだ幼稚で素朴である場合には、どうしても一度はその意識の中に現れて来なければならない必然的な対立である。
精神がまだ自分の現在の姿を深く捉えることが出来ておらず、真理に対して精神が未熟な態度しか取り得ないような場合には、その真理が深いものであればあるほど、精神はその段階においては、自分自身が疎外された、背馳したものとして現れる。しかし、この疎外された型態を経ることによってはじめて、
〔6、都市〕a、序―世俗界の躍進と免罪符:我々は教会を現存の世界に対する精神の反動と見た。しかし、この反動はその相手を屈服させるだけで、これを改革しようとするものではなかった。そして精神的なもの(キリスト教)はそれ自身の内容の転倒という原理によって権力を獲得することになったが、
一方の世俗的権力もまた自分を強固なものに作り上げて、封建制度という組織的なものにまで発達してゆくことになる。人間はそこで孤立とともに個人的な力量と権力に頼むこととなった。そのために人間がこの世に占めるどのような土地も活力に充ち満ちたものとなった。個人はまだ法律によって保護される
ものではなく、ただ自己の努力に頼るしかなかった。そうして一般に活気が生じ、勤勉と努力の気風が生まれることになる。しかもその一方で、人間は教会を通じて永遠の祝福が保障せられのだが、そのためにはただ精神的に教会に服従さえすればよかったのである。だから世俗的な享楽に対する欲望が、
精神的な救済の障害にさえならなければ、その享楽への欲求が益々激しくならざるをえない。それに教会はどんなに勝手な振る舞いにも、どんなに非道な罪悪に対しても、求めに応じて免罪符を売ってくれたのであるから。b、都市の勃興:十一世紀から十三世紀にかけて一つの衝動が起こり、それが様々な
形で現われた。教団は広大な寺院を、教団の人々を全部を収容するに足る会堂を建造し始めた。いつでも建築は最初の芸術であって、それは先ず神の住居という非有機的な境界を造る。その後にはじめて芸術は教団の対象である神そのものを表現するという仕事に取り掛かる。(ibid s329 )