アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

死刑について考える

2014-06-13 | 2014年たわごと

名古屋から東京に向かうバスの車窓から、大きくて真っ黄色の満月が見える。

ここのとこ溜め込んでいた鬱憤が、ほんの少し沈殿していくようで、しばしみとれる。

 

最近、堀川恵子さん著作の「教誨師(きょうかいし)」というノンフィクションを読み、死刑について思いを馳せた。

 

もし自分が、もしくは自分のこどもが何者かに突然殺された場合、自分は容疑者に対して何を望むだろうか。

何かをもって、赦すことができるか。

赦すとは何か。

死刑は仕方ないのか。

なぜ無期懲役ではダメなのか。

 

殺される側が被害者なら、殺す側も、被害者である可能性はある。

その事件に関してではなく、もっと長期的で広範な視座に立てば。

もし自分が殺されたら物申す口がなくなってしまうからどうしようもないけれど、それが自分のこどもや家族や恋人だったら、怒りに燃え盛ってそんなことなどどうでもよくなってしまうのだろうか。

 

そうしたらやっぱり、目には目を、死には死を、と私も思うのだろうか。

 

ここのところ仕事が立て込んだり、やるべきことができなかったり、なのに現実逃避して時間を無駄にしてしまったりで、ムシャクシャした感情を抑えられなくなっている。

「いっぱいいっぱい」という言葉そのもの。

こんな些細なことで、自分は自分をコントロールできなくなってしまう。

別に不幸感を背負っているわけでもないのに。

 

人間のもろさ、みたいなものを想うとき、私は無性に、大声で赤ん坊みたいに泣きじゃくりたい衝動にかられる。

この衝動は年を増すごとに頻度が増えて、自宅でパソコンをいじってる時なんかに、ふと涙となってこぼれてしまうことがある。一人では抱え切れない、そんな重たさを感じる。

 

明日、教誨師のお坊さん5人ほどが集まってくださり、話を聞かせてくださることになっている。

 

教誨師というのは死刑囚を含む罪人を、刑務所や拘置所で倫理教育する人のこと。

宗教教誨師と呼ばれる人たちは、仏教やキリスト教に従事している人たちが完全ボランティアで請け負っているらしい。死刑囚の教誨をする人は、最期にも立ち会って供養する。

 

「いっぱいいっぱい」の私は、満月を眺めながら、自分の小ささを知る。

 

深呼吸して、自分の役割を改めて考える。

 

また、泣きたくなってきたのを、堪える。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿