その日まで、公立の小学校は、どこも似たり寄ったりだと思っていた。
学校教育に関するニュースには、明るい話題があまりないような気がする。教科書問題にしても、いじめ問題にしても、教育改革にしても、ニュースから受ける「学校」という場の印象は、「大変そう…」「大丈夫かしら…」「どうしよう…」そんな漠然としたものばかり。
だから、日本で子育てするのはイヤだなぁ~と、“タネ”のアテもないのに思ったりしていた。
その学校は大阪のど真ん中にある。
去年、外国にルーツをもつこどもたちを支援する日本語教室が大阪にオープンしたというニュースを見つけ、その学校の存在を知った。そこには「校長先生が地域の団体にSOSを求めたことがきっかけ」という説明が書かれてあった。
それはさぞかし困っておられるに違いない。
そしてその校長先生は、さぞかしアクティブな方に違いない。
そう思った。
その小学校は全校児童約190人のうち、42%が外国にルーツをもつこどもで、関係する国はなんと14にも及ぶ。一番多いのはフィリピン。次いで中国、韓国、ロシア、ガーナ、ルーマニア、インドネシア、ブラジル、アメリカなど…。
転入生も多く、中には日本語がほとんど分からないこどももいるという。
それで少人数制の日本語指導のほか、月に一度の国際学級や集会活動で国際理解教育を行っているのだそうだ。
ちなみに「外国にルーツをもつ」と表記するのは、中には日本国籍を有していたり本名が日本名の子がいるため。特別な配慮や支援が必要なこどもは、「在日外国人」に留まらなくなっている。
(校内には、各国語で書かれた貼紙が至る所に掲示してある)
それで、その「外国にルーツをもつこども支援」に真っ向勝負しているこの小学校の教育方針に、私はゾッコン惚れ込んでしまった。
まず、外国にルーツをもつこどもたちに必要なことは「アイデンティティの確立」であると掲げている点。
自分は何者か?という漠然とした不安を少しでも払拭できるように、自分の国のことを調べ、発表する時間を毎月つくっているという。それは一見、お手軽な国際理解教育のように聞こえるかもしれないが、限られた授業時間を割いて(しかも毎月!)先生方の指導エネルギーを注ぐには、それがこどもたちの成長に不可欠であるという確信がなければ続かないのではないかと私は想像する。
「たとえばフィリピンを知る集いをした時に、在日フィリピン人の方に来てもらってバンブーダンスを躍っていただいたんですよ。そうしたらフィリピンの子が生き生きと目を輝かせて喜ぶんです。こどもたちにとって、憧れの存在ができるというのは大きいですね」
と校長先生。その時のことを思い出しながら話す校長先生の目もまた、キラキラと輝いていた。
先生は更に、こどもたちの憧れを努力に結びつけられるよう、地区の生涯学習教室でこども対象のフィリピンダンス教室を開いてもらうことも望んでいるらしい。そうやってこどもたちの情緒は安定し、学習意欲が高まっていくという確信がそこにはあるからだ。
2つ目。
日本のことを好きになることも大切、ということで、和太鼓や琴、茶道などの日本文化体験も学校行事のひとつになっている。日本人のこどもたちにとっては「アイデンティティの確立」、その他のこどもたちにとっては「国際理解」になるのだが、そこに地元の大人たちが関わることで、単なる体験イベントではない住民同士の理解促進につながっているらしい。
というのも、これだけ外国にルーツをもつ人が多い地域だと、住民間で大小さまざまなトラブルが絶えないという切実な事情がある。
在日外国人の人たちの家庭事情も複雑で、女手ひとつでの子育てなど全く珍しくない。お母さんが夜間勤務の場合は、宿題を見てもらえないばかりか夜中一人で過ごすこどももたくさんいる。
そういった事情を勘案して、なんと、この小学校の先生たちは、始業時間までに遅刻欠席の連絡がないこどもを家まで迎えに行くという。
それを聞いて私はハッとした。朝9時過ぎに訪ねた時、校門から自転車で飛び出して行く若い男性が3人ばかりいた。こどもを送りに来た保護者かなぁと思っていたけれど、まさか先生が逆に迎えに行くところだったとは…。
学校がそこまでやるのには、もちろん理由がある。
「うちの学校は、生活指導について “スタンダード” をつくっているんです」と、校長先生は指を3本立てた。
1、あいさつをすること
2、時間を守ること
3、忘れ物をしないこと
「この3つは最低限守りましょう」と、こどもにも親にも徹底して伝えているのだという。
その心は。
「学校は学びの場ですから、まず、大きくなった時に困らないようにするのが大事な役目です」…と、言われてみればこれほど明瞭な答えはない。
だから、「遅刻はダメ」ということを先生が身を以てこどもにも親にも示す。
「忘れ物が多い」場合は親に学校まで来てもらい、持ち物の確認は親にも責任があることを説明する。
「親もどうしていいか分からない人が多いんですよ。そういう人に、いくら手紙を渡してもダメ、電話だけでもダメ。こっちは伝えたつもりでも、全然伝わってないんです。一番確実なのは、面と向かって話したり、一緒に選んだりすることですね」と校長先生は言う。
日本社会で生きていく上で、最低限必要なこと。
大人になった時に困らないように、今のうちに身につけておくべきこと。
学校がそれを教えるのは当然であり、それは回り回って日本社会全体のためになる―。
校長先生のその強い信念は、惚れ惚れするほど明快で清々しかった。
(校長先生が朝礼で出すクイズ「ミスターYからの挑戦」もこどもたちに大人気)
社会も教育も、どんどん成果主義に向かっている昨今。教育現場でポリシーをもって働き続けることは、むしろ大きな苦しみを伴う時代になっている。
校長先生は、「学びの視点」という言葉を何度か口にした。
「教育とは、今日やって明日成果が出るものではない」、だから「そこに学びの視点があるかどうかを見極めることが大切」だと。
現状は、他の学校と同様(もしくはそれ以上)に厳しい。
日本語教育の先生が圧倒的に不足している中で、勉強ができる子への個別指導やフォローも怠るわけにはいかない。
こども同士のトラブルも、ないわけではない。容姿の違いをからかう子、習慣などの違いから喧嘩になる子…。一方で自分のこどもの学習ペースを心配する声もあがる。
そんな時はどうするか。
「現場では、トラブルは必ず起きます。それを予め防ぐことが大事なのではなく、起きた時にどう対処するか、それをきっかけに何を伝えるかが大切やと思うんです」と校長先生。
たとえば文化や容姿の違いをからかう子には、「違いがあることは悪いことか?」と問いかける。「○○君は、君が知らないこともいっぱい知ってるんやで」と。
日本語指導が追いつかない現状に対しては、ITタブレットの活用を研究中だ。物語の音読速度を調整できたり、知っている単語からイメージを膨らませられたり、一人の時でも対話形式の勉強が可能になったり…。そんな便利ツールがあれば、言語の理解が難しいこどもに限らず、障がいがあるこどもにも、単に勉強が嫌いなこどもにも役に立つことは間違いない。
そして校長先生は再び目を輝かせる。
「本来、こどもたちを点数だけで評価するなんてナンセンスなんですよ。うちの学校の子たちは、点数はトップでなくても、社会性の伸びはものすごいと思う」
そこには、こどもたちが互いに助け合ったり、学び合ったりしている場面を目の当たりにしている現場の先生ならではの自信があった。
それほど自分の学校のこどもたちを信じ、愛する先生に私は今まで出会ったことがない。
いつか私にもこどもが授かったら、こんな学校で、こうした先生のもとで、是が非でも学校教育を受けさせたいと強く思った。
(いろんな国籍の人が息づくグローバルエリア・大阪ミナミ)
安倍政権は先月、建設分野を中心に外国人労働者を最長6年間滞在できる方針を出した。
それは災害復興とオリンピック需要が終わっても、次は福祉分野や農業分野で引き続き必要な労働力となる。有能な外国人女性が起用されれば、子育ても日本でと考える人が増えるかもしれない。
日本の学校教育現場は、確実に多国籍化すると山崎校長も予想する。
そのとき日本はどんな学校教育をし、日本の子にも、外国にルーツをもつ子にも、どんな学びを与えることができるだろう。
そう考えたとき、「この小学校が日本にあってよかった」と、私は率直に思った。
もしこのような公立学校が全国に増えたなら、その「多文化教育」で育ったこどもたちがつくる日本社会は、今よりもっと柔軟で包摂的なものになるんじゃないか?…と思うから。
そんな期待はあまりに淡く楽観的かもしれないけれど、そのためのモデルが既にあるのとないのとでは大きく違うはず。それに何より、私はそんな真のグローバル社会を見てみたいし、この小学校で育ったこどもたちが大人になる姿を想像するだけでもワクワクしてしまうのだ。
…とここまで書くと、きっと校長先生はおっしゃるだろう。「私たちの学校が完璧なわけではないですよ」と。
そのことも踏まえた上で、私は今後も各地の多文化教育を追いかけたいと思う。ワクワクするような近未来の教育モデルについて、「これだ!」という手応えが得られるまで。
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