☆12月になりましたのでクリスマスに関連することを取り上げてみました!
=フランシスコ・ザビエル=
中国のジャンク船に乗ったフランシスコ・ザビエル一行は中国上川島を経て1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日にあたる)に鹿児島(現・鹿児島市祇園之洲)に上陸した。
その後平戸(長崎県)を経て、京の都まで足を運び、各地でその土地を納めていた領主に許可をもらってキリスト教の宣教活動を行った。
室町時代、当時周防(すおう、現在の山口県)周辺を治めていた大内義隆はキリスト教に理解を示し、山口に来たフランシスコ・ザビエルに対して宣教の許可を与えると共に宣教師を手厚く保護した。このため山口は日本で最初にキリスト教が根付いた地とされている。
初代の山口サビエル記念聖堂。1991年9月に惜しくも焼失してしまった。
その史実を踏まえた上で、フランシスコ・ザビエルが山口を訪問してから400周年を記念して初代の山口サビエル記念聖堂が1952年(昭和27年)に建てられた。
日本のクリスマス。その始まりはいつだったか。史料をひもとくと、キリスト教の伝来から3年後の1552年12月に周防の国、今の山口市で営まれたミサにたどりつく。
キリスト教を伝えたイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエル(1506~52)も、大内氏を頼った一人だ。
1549年、鹿児島に上陸後、山口、堺を経て入った都は混乱が続き、朝廷や幕府の布教許可を得られない。
滞在わずか11日で去り、山口に戻って大内義隆の許可を取り付け、1951年夏、本州西端に布教の拠点を築いたのだ。
ザビエルの一団は、与えられた大道寺という荒れ寺を教会として神の教えを説いた。
貧者に食事を分け与え、慈愛を注ぐ姿に心を打たれた民衆が、一人また一人と入信し、その数は2か月で500人に上ったと伝えられる。
山口で4か月を過ごしたザビエルは仲間の宣教師に後を託し、1951年11月に日本を離れた。
そして、翌年12月24日、この地で催されたミサの報告書簡が残る。〈降誕祭日……終夜デウスのことを聴きて過ごし、……鶏鳴のミサの時、歌い、福音書を読みたり〉〈キリシタンら熱心にミサに与りて大いに喜びしは我らの主に感謝すべきことなり〉
この国で初めてのクリスマスの記録。修道士の一人、ペロ・ダルカセバがしたため、ポルトガルの宣教師に送った。
神をめぐる夜通しの説話がなされた後、ミサは、早朝と翌朝に営まれたらしい。場所は定かでないが、おそらく大道寺ではなかったか。賛美歌が厳かに響き、信徒らは初めて知る神聖なる感激したことだろう。
※大道寺(だいどうじ)は、山口県山口市金古曽町に存在した寺である。大内義隆が、廃寺となっていた大道寺をフランシスコ・ザビエルに与えたことによりキリスト教布教の拠点となった。その後、建て直しが行われ、これが日本最初のキリスト教教会となった。 ...
日本のクリスチャン:
東大15代総長;
南原繁は、戦後間もなく第15代総長になった。在任中は法学部の教授を務め、政治哲学の分野において歴史的な学問業績を残した。また、理念だけでなく現実をしっかりと見定め、政治・教育の分野において的確な意見を語り、政策を実行してきた現実主義者でもあった。
一高で新渡戸稲造と出会っている。
自己確立のために、諸宗教の門を叩くなど精神の遍歴を経た南原は、やがて「生涯の師」に出会うことになる。それはクリスチャンで無教会主義の創始者である内村鑑三であった。
第16代総長 矢内原忠雄
矢内原は新渡戸稲造、内村鑑三から思想的に深い影響を受けてきた。矢内原のキリスト教を土台とした思想基盤、学問に対する見つめ方を決定的にしたのは、彼が17歳で第一高等学校に入学したときの校長であった新渡戸稲造に出会ったことであるという。
◆本と旅の世界(内村鑑三)