スウェーデンの公共放送SVTが、
ノーベル文学賞を選考するスウェーデン・アカデミーの委員の一人は、莫言(モーイエン)氏の作品の翻訳を手がけたヨーラン・マルムクイスト氏だったとのことで、莫言氏と親しい友人だった、ということから、
選考の公正さを疑問視する声が出ているんですね。
アカデミー委員は、賞の有力候補と個人的な関係がある場合は選考議論に関わるべきではないとされているとのことですから、だとすると、これは問題化も・・
ところで、日本には過去に、
賀川豊彦(かがわ・とよひこ)という人がいました。
明治21年(1888年)7月10日に、神戸で回漕業を営む賀川純一と芸妓との間に次男として生まれました。
彼が4歳の時に父が病死。、母もその後まもなく病死。
それで、徳島の父の正妻に引き取られ養育されたのですね。
徳島中学在学時にローガンとマイヤースという二人のアメリカ人宣教師と出会いました。
マイヤース夫妻から受けた影響が大きく、生涯精神的かつ財政的な援助を受けたそうです。
1903年(明治36)に兄の放蕩から賀川家が破産し、叔父の家に引き取られたそうです。
このような窮地の中でキリスト教信仰に導かれ、賀川豊彦はマイヤース宣教師から洗礼を受けました。
明治学院高等部神学予科に入学。図書館に所蔵されていたあらゆる本を読破したそうですね。
その後、新設の神戸神学校に転校したのですが、重度の肺結核を患い入院。
医師から二度も死を宣告されたそうです。
そこで、
「どうせ死ぬのなら、自殺する勇気をもってすべてに向かって行こう」
と、貧民に伝道と奉仕をしようと決心(21歳)したそうです。
神戸市茸合区新川のスラムに住み込み、路傍伝道を始め、
以後、関東大震災救援のため東京に移住するまで、10年余り、新川のスラムで、伝道と貧民救済などの活動をしたそうです。
この間に、米国プリンストン大学に留学し、生物と神学を学んだとのこと。
そして、
スラム貧民のことを著した『貧民心理の研究』が出版されました。
帰国して友愛会に参加。
個人的慈善的事業ではなく労働者の組織的社会運動によるために、鈴木文治らと友愛会関西労働同盟会を結成して、理事長になりました。
消費者と生産者の互助をはかる消費組合共益社を設立。
これがわが国の生協の始まりとなったのですね。そして牧師の資格を得て、
『死線を越えて』(自伝小説)を出版しました。
私も20歳頃、この小説を読みました。
1年間で100万部、通算400万部の大ベストセラーとなり、大正時代最も売れた本だったそうですよ。
この本で得た印税は、なんと、生活困窮の労働者らとその家族のために回したそうです。
賀川豊彦(かがわ・とよひこ)は、
昭和35年 (1960年)4月23日天に召されましたが、
2009年9月、スウェーデンのノーベル財団がホームページ上で、
文学賞は1950年まで、平和賞は1956年分までの候補者リストを公開、
賀川豊彦が1947年と1948年の2年連続でノーベル文学賞候補、
1954年~1956年の3年連続でノーベル平和賞候補になっていたことが判明しました。
ノーベル賞の選考過程や候補者名は非公開で、50年以上たって公開されることになっており、今回はそれにより判明したんですね。
日本人のノーベル文学賞受賞者は川端康成氏(68年)、大江健三郎氏(94年)の二人がいますが、他の候補者が公式に明らかになったのは初めてですね。
賀川豊彦(かがわ・とよひこ)は、
「東洋の聖者」として欧米で最も知名度の高い日本人で、
『一粒の麦』『死線を越えて』などの小説はスウェーデン語に翻訳され、
北欧で賀川ブームが巻き起こったこともあったそうです。
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