いつものことである。土曜の夜にお酒を過ごして、相手がある限り土曜でなくとも過ごしているが、日曜のまだ早い時間に幾分脱水状態になって眼を覚ました。何時ごろまでだかはっきりとはわからないけれど、ほんの数時間前まで洋酒と日本酒とをかわるがわる飲んでいた。他に誰もいなかったからみんなきちんと帰って行ったのだろう、とは思うが、正直言ってこの際他人の事などどうでもいい。唇と喉とが干乾びたようになって、特に喉の内側がひっついてかさかさとこすれ合うような不快感がある。頭痛こそしないが頭の中がはっきりとしないのはまだ酔っ払っているからだろう。不自然に折れ曲がって眠っていたので体の彼方此方(あちこち)を寝違えたようになって、仰向けに体を伸ばすだけで呻き声が出る。
ちったぁ懲りるがいい。
とは毎度毎度思うことだけれど、それとてそう思うだけで性懲りもなく何度でも繰り返す。というのも、酒を呑みに我が家に集まる連中さんはこちらのそんな内省など一切斟酌しないまま入れ替わり立ち代り、よくもまぁやって来るものであるが、その度にお酒を持って来てくれるのでこちらとしては『汲めども尽きない』お酒の泉を持っているようなものだった。なんとも有難い話ではあるものの、こんな朝にはそれも有難迷惑にしか思われないというのも現金な話である。
千本下立売を東に入ったところに大きな銭湯があって、日曜は朝8時から営業している。その日は10時半に人と会う約束があったので、取り敢えずはこの酔いをどうにかせねばならん、ならば一風呂浴びることにするか。そんなことを考えてやっとのことで体を起こした。起こしたのはいいが起こしたなりに煙草を銜(くわ)え、しばらくぼんやりとディオニューソスとスクナビコナが手に手を取って踊り狂っているさまを思い浮かべている。前者はギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒と酩酊の神、後者は日本神話で色色なものに纏(まつ)わる中酒造にも関わる神であって、日日酒を呑み暮らしているものにとってはその両方が氏神さまのようなものである。氏子代表として敬意を払うべく酔いの抜けきらない頭の中で和洋二神にご活躍を願ったのだが、いかんせんスクナビコナは小さな神様なので手に手を取ろうにもバランスが悪いのではないか、などと心配しながらふかりふかり煙草をふかしている。眼を覚ましたのが6時過ぎだったが、ようやく立ち上がって共同炊事場でグラスを洗って洗面を済ませたときにはすでに8時になりかかっていた。
下宿を出てみると天気が好くて、太陽が妙に眩しい。手に下げているのは石鹸1個にタオルが1本、それすら重たく感じられる。あまりに消耗していると太陽が黄色く見える、というのはどうやら本当らしい、などとおかしな感心をしつつキシキシと節節の痛む体を引きずりながらうねくねと入り組んだ小路を曲がって六軒町通を南へ、下立売通で左に折れて千本通を渡る。千本通から少し東に入った北側に見えるのが目指す銭湯である。風呂銭を払って剃刀を買って、服を脱ぐのももどかしくようやくたどり着いた浴場は陽光をたくさん取り入れて明るい雰囲気で、色色な種類の浴槽がある。ひとまず体を洗って。頭と体中を縦横無尽に駆け廻る酒神を叩き出すべくサウナと水風呂を数往復して汗を流す。たまに行く日曜の朝風呂は結構入浴客が多いのにその日はまばらで、ちょっとした貸切り気分を楽しんでいるうちに頭がすっきりとしてきたようなので髭を剃ってもうひとっぷろ、泡風呂に揺蕩(たゆた)うていたら今度はのぼせてぼんやりとしてきた。ふらつくような眠たいような中で、なんとなく聞き知っていた安里屋(あさどや)ユンタを歌う声が聞こえた。
サー キーミィワァノナカノ イバラーノォハァナァカ
サーユイユイ ― つい何の気なしに合いの手を入れた。とたんに歌声がふっつりと途切れたのではっとしてあたりを見回すと広い浴場の洗い場におじいさんが一人だけ。タオルを持って体を洗いかけた格好のまま丸い眼をして不思議そうにこちらを見ている。温かい泡風呂で身も心もグニャグニャになって何も考えてなかったが、自分の鼻歌に見ず知らずの者が合いの手を入れてきたらそれはびっくりするだろう、なんだか悪いことをした。どことなく極まりが悪くなってちょっと頭を下げたら、おじいさんもほぼ同時に少し照れたように咲(わら)って頭を下げられた。もう出るつもりでいたのだが、そのおじいさんの歌う声がまた渋く落ち着いた好い声なので、なんとなく気になってもう一度水風呂に浸かって体を冷ますことにした。水から出て湯船の縁に腰をかけていると、体を洗い終えたおじいさんは薬風呂の浴槽に浸かりながら小さな声で続きを歌いだした。
暮れて帰れば ヤレほんに引き止める
マタハーァリヌ チンダラ カヌシャマヨー ― ここも続きの合いの手を知っていたので小さな声で合わせてみた。最初はお互いに牽制し合うような感じだったが、終わるとおじいさんはこっちを見て微笑しながら二番を歌い始めた。『サーユイユイ』と『マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ』を合わせる。離れた浴槽でそっぽを向いたまま歌っている二人ともそれほど大きな声ではないのだが、広い浴場に木霊してなんだか荘厳極まりない。元元の歌が何番まであるのか知らないけれど、またそのときに何番まで歌ったのか覚えないけれど、入浴客が入ってきたので途中にうやむやで終わってしまった。最後に掛け湯をして薬風呂のおじいさんと会釈を交わして浴場を出る。
来たときの沈欝な気分とは打って変わって晴れやかな気分で銭湯を出て、あまりにも晴れやかなので帰りがけにビールを買って、足取りも軽やかに下宿に戻ってビールを飲んでいたら電話が鳴った。取ってみたら待ち合わせの相手で、ふと時計を見る。
すでに11時を回っているではないか、これはイカンと正直に事情を説明した。前夜の飲みすぎを解消するために入った朝風呂が大変に気持ちよかったということ、風呂の中で老人が安里屋ユンタを歌いはじめ、それがどれだけ心地の良い歌であったかということ、それに聞き惚れてついつい長湯をしてしまって現在に至る。これで納得するとも思わなかったが「そら、しょうがないわな」と納得されてしまった。ただし居酒屋1回分のペナルティつきではあるけれど。
ユンタのおじいさんとはその後何度か朝風呂で顔を合わせたが、入浴客でにぎやかな中歌を歌う訳にもいかないのでお互い照れたような会釈を交わすだけに終わったのは今思い返しても残念なことである。もう一度、今度はお酒を呑みながらじっくりと聴いてみたいと思う歌声であった。
ちったぁ懲りるがいい。
とは毎度毎度思うことだけれど、それとてそう思うだけで性懲りもなく何度でも繰り返す。というのも、酒を呑みに我が家に集まる連中さんはこちらのそんな内省など一切斟酌しないまま入れ替わり立ち代り、よくもまぁやって来るものであるが、その度にお酒を持って来てくれるのでこちらとしては『汲めども尽きない』お酒の泉を持っているようなものだった。なんとも有難い話ではあるものの、こんな朝にはそれも有難迷惑にしか思われないというのも現金な話である。
千本下立売を東に入ったところに大きな銭湯があって、日曜は朝8時から営業している。その日は10時半に人と会う約束があったので、取り敢えずはこの酔いをどうにかせねばならん、ならば一風呂浴びることにするか。そんなことを考えてやっとのことで体を起こした。起こしたのはいいが起こしたなりに煙草を銜(くわ)え、しばらくぼんやりとディオニューソスとスクナビコナが手に手を取って踊り狂っているさまを思い浮かべている。前者はギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒と酩酊の神、後者は日本神話で色色なものに纏(まつ)わる中酒造にも関わる神であって、日日酒を呑み暮らしているものにとってはその両方が氏神さまのようなものである。氏子代表として敬意を払うべく酔いの抜けきらない頭の中で和洋二神にご活躍を願ったのだが、いかんせんスクナビコナは小さな神様なので手に手を取ろうにもバランスが悪いのではないか、などと心配しながらふかりふかり煙草をふかしている。眼を覚ましたのが6時過ぎだったが、ようやく立ち上がって共同炊事場でグラスを洗って洗面を済ませたときにはすでに8時になりかかっていた。
下宿を出てみると天気が好くて、太陽が妙に眩しい。手に下げているのは石鹸1個にタオルが1本、それすら重たく感じられる。あまりに消耗していると太陽が黄色く見える、というのはどうやら本当らしい、などとおかしな感心をしつつキシキシと節節の痛む体を引きずりながらうねくねと入り組んだ小路を曲がって六軒町通を南へ、下立売通で左に折れて千本通を渡る。千本通から少し東に入った北側に見えるのが目指す銭湯である。風呂銭を払って剃刀を買って、服を脱ぐのももどかしくようやくたどり着いた浴場は陽光をたくさん取り入れて明るい雰囲気で、色色な種類の浴槽がある。ひとまず体を洗って。頭と体中を縦横無尽に駆け廻る酒神を叩き出すべくサウナと水風呂を数往復して汗を流す。たまに行く日曜の朝風呂は結構入浴客が多いのにその日はまばらで、ちょっとした貸切り気分を楽しんでいるうちに頭がすっきりとしてきたようなので髭を剃ってもうひとっぷろ、泡風呂に揺蕩(たゆた)うていたら今度はのぼせてぼんやりとしてきた。ふらつくような眠たいような中で、なんとなく聞き知っていた安里屋(あさどや)ユンタを歌う声が聞こえた。
サー キーミィワァノナカノ イバラーノォハァナァカ
サーユイユイ ― つい何の気なしに合いの手を入れた。とたんに歌声がふっつりと途切れたのではっとしてあたりを見回すと広い浴場の洗い場におじいさんが一人だけ。タオルを持って体を洗いかけた格好のまま丸い眼をして不思議そうにこちらを見ている。温かい泡風呂で身も心もグニャグニャになって何も考えてなかったが、自分の鼻歌に見ず知らずの者が合いの手を入れてきたらそれはびっくりするだろう、なんだか悪いことをした。どことなく極まりが悪くなってちょっと頭を下げたら、おじいさんもほぼ同時に少し照れたように咲(わら)って頭を下げられた。もう出るつもりでいたのだが、そのおじいさんの歌う声がまた渋く落ち着いた好い声なので、なんとなく気になってもう一度水風呂に浸かって体を冷ますことにした。水から出て湯船の縁に腰をかけていると、体を洗い終えたおじいさんは薬風呂の浴槽に浸かりながら小さな声で続きを歌いだした。
暮れて帰れば ヤレほんに引き止める
マタハーァリヌ チンダラ カヌシャマヨー ― ここも続きの合いの手を知っていたので小さな声で合わせてみた。最初はお互いに牽制し合うような感じだったが、終わるとおじいさんはこっちを見て微笑しながら二番を歌い始めた。『サーユイユイ』と『マタハーリヌ チンダラ カヌシャマヨ』を合わせる。離れた浴槽でそっぽを向いたまま歌っている二人ともそれほど大きな声ではないのだが、広い浴場に木霊してなんだか荘厳極まりない。元元の歌が何番まであるのか知らないけれど、またそのときに何番まで歌ったのか覚えないけれど、入浴客が入ってきたので途中にうやむやで終わってしまった。最後に掛け湯をして薬風呂のおじいさんと会釈を交わして浴場を出る。
来たときの沈欝な気分とは打って変わって晴れやかな気分で銭湯を出て、あまりにも晴れやかなので帰りがけにビールを買って、足取りも軽やかに下宿に戻ってビールを飲んでいたら電話が鳴った。取ってみたら待ち合わせの相手で、ふと時計を見る。
オーマイガアァァァーッ!
すでに11時を回っているではないか、これはイカンと正直に事情を説明した。前夜の飲みすぎを解消するために入った朝風呂が大変に気持ちよかったということ、風呂の中で老人が安里屋ユンタを歌いはじめ、それがどれだけ心地の良い歌であったかということ、それに聞き惚れてついつい長湯をしてしまって現在に至る。これで納得するとも思わなかったが「そら、しょうがないわな」と納得されてしまった。ただし居酒屋1回分のペナルティつきではあるけれど。
ユンタのおじいさんとはその後何度か朝風呂で顔を合わせたが、入浴客でにぎやかな中歌を歌う訳にもいかないのでお互い照れたような会釈を交わすだけに終わったのは今思い返しても残念なことである。もう一度、今度はお酒を呑みながらじっくりと聴いてみたいと思う歌声であった。