あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

「復元」から。。道に尽す心

2021年12月21日 21時20分52秒 | 正文遺韻抄

今日、『復元』12号最後のページ、「短話」をグループへ投稿した。

「正文遺韻」からのものであるが、「正文遺韻抄」にも掲載されているので、それを投稿しておく。

そして、読みやすく書き換えたものも掲載しておく。

参考になれば幸いです。

※追記;冒頭の「一度話の理を聞いて、なるほどと思いかけ、二度聞いては、得心を、三度聞いては、理を聞き分け、それ、聞くたびに、少しずつでも、理を治めて、それ結構という。」が「正文遺韻抄」にはありませんでした。
「正文遺韻」と「正文遺韻抄」とでは、削除されている部分ありますが、ここに出て来たので、記しておきます。(2021.12.23)

道に尽す心 (『正文遺韻抄』p216現代文に書換)

 そこで一つ、尽くそうと思うが初め、それにおいがけや、それおたすけやと言って、人のために、世界のために、身を尽くす。初めは結構な心で、神様へご恩返しと思って、それ尽くして来るなれど、一年、二年、三年と、だんだん尽くすうちに、初めのことも、初め身を尽くし掛けた時の心も、忘れてしまい、いつしか、高慢と言うか、うぬぼれと言うか、それ心に持つともなしに、持っている。
 それゆえに、内々が治まらぬとか、または、家内の内に誰か病み煩いでもあるとか言うと、「わしの家は、三年も前から信心をして、わしはもう、においがけを仕掛けてから二年にもなる。それなのに、どういうものであろう。家に難儀がかかってきて、身に不足がかかってくる。これだけ尽くしているのにどういう事や。わしは、これだけ信心しているのに、なんでだろうなあ」と、それ不足の心を持って、神様へたんのうの心を供えず、不足ばかりの心を供えるから、そこでなお不足という理が湧いてくる。
 よって、そのような間違いの無いように、神の話というものは、何度でも、我が身を下げて、話を取り次ぐその人を、ずっと立てて、十分に話を聞きとり、それ聞きわけねばならんという。
 身上が危ういときや、または、何か一つこういう事を叶えてもらいたいと思うときの誠は、真の誠とはいわれない。
 そういう時には、いかなる者も、どんな者でも、それ誠が湧く。真実が出る。また、いかなる心も定めるであろう。なれど、これは一時の理。それ一時の心定め、一時の誠で、真の誠、真の心定めでは無い。それ日々という、常という。一度定めた精神は、日々常に変わらないのが真の誠、それ真の心が定まったというであろう。
 これは第一、聞いた上にも話を聞き、理を治めるによって、日々常に変わらない心が定まる。それ話は台というであろう。道を尽くす効能によって、「早く結構を見たい。早く結構になりたい」と、心を急いて無理をしたならば、いかなる理が湧くやもしれない。早死にしたり、弱ったり、夜の床を離れられんような事があっては、結構も何もあろうまい。無理というはならぬもの。ものというは旬という。それ時節ともいうであろう。急くでない。急ぐでない。これも一つの理であろう。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これからおぢばへ行きますが。。誠ということ。

2021年12月07日 17時40分02秒 | 正文遺韻抄

支部例会が終わり、これからおぢばへ出かける。

その前に、今日の『復元』11号最後のページをアップしたら、「誠という事」というお話だった。

昔、書き換えをしたものがあったので、それと共にアップしておく。

参考になれば幸いです。

・・・・・・

誠ということ (『正文遺韻抄』p222現代文に書換)

 誠というは、口と心と手と、この三つが揃って、真の誠という。それ、いかほど口で、誠の話をするとしても、真の誠が治まれば、行いもそれに添って、それすること、なすこと、日々常に、いかなる事も、みな誠のようになるであろう。けれども、心に誠が治まらないと、それどうもならん。
 日々のすることなすことが、口で話した事と違うから、世界から「それ、あの人は口先ばかりうまい人や、言うことだけは、誠のようだけれども」などと言って、それ話の理を用いてくれないようになる。
 そこで、口と心と手と揃って、人々より「ああ成程の方やなあ。どうも感心な人やなぁ。頼もしい人やなぁ。」と言われるだろう。真の誠で、通ろうと思えば、そこで、一つたんのうという理を心に治めて、「我はどうでも、人さえよければ、わしはもう、これで結構や。たとえ、この上どのようになろうとも、人さえ助かってくれれば、それでよい。何でも、人に助かってもらわねばならん。」という心を定めねばならん。

・・・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い方が違っていました。。。修理と肥について。。

2021年11月25日 13時00分43秒 | 正文遺韻抄

『復元』をグループへアップしており、今(2021.11.25)で10号が終わった。

この10号の最後に以下の記事が掲載されている。

これは、『正文遺韻抄』では、「信心するは、立毛作るもおなじ事」という題名で掲載されている。

題名が違うだけで内容は同じなのである。

これまでこれは何度も読んでいた。ところが、『復元』に掲載されたものを読んで、自分がこれまで勘違いをしていた事に気が付いたのである。

何という事か!!

と思い、ここに記録しておく。

信心するは、立毛作るもおなじ事 (『正文遺韻抄』p228現代文に書換)

 信心するは、立毛作るも同じ事。今、立毛作るには、種を蒔いても、修理せねば、外の草がしこって(14)(茂って)、訳もわからないようになり、また、肥をしなければ、成人もない。成人なければ、花も咲かない。実もなりそうなことはない。
 今、話を聞いて成程と、心を留めるのは信心の始まり。立毛なら、種を蒔くようなものや。「だんだんと、話」という。聞いた上にも聞いて、おいおいと、理を治めるのは、修理のようなもの。理を聞きわけて、道を尽くすは、それ、肥という。肥を置くようなもの。
 そこで尽くすだけの、効能は、天より与えて下さる。立毛なら、実がなったようなものや。

 そこであるからして、たとえ、二十年、三十年前に、信心をしかけたというても、その間、聞かぬ上にも話を聞かず、また、道を尽くさんと言うばかりではない。話を聞かんから理がわからずに、天の理に適うことはなく、よこしまな道に、踏み被りているようであれば、二十年、三十年やない、たとえ、百年、二百年経とうとも、花の咲きそうな事もなければ、実のなりそうなこともない。年限経つほど、枯れるばかり、くさるばかりであろう。

とある。

これまで、修理や肥をする人を、おたすけをする人とばかり思って、この話を読んでいたのである。

ところが、今回読んでみて、おたすけをする人ではなく、される人、信仰する人本人が行う事だと思えたのである。

書き換え文であるが、その思うところを示してみる。

まず、

信心するは、立毛作るも同じ事

といわれている。ここには主語が無いのである。

この修理や肥という言葉は、丹精という言葉と共に良く使われる。

この丹精という言葉は、「信者さんを丹精する」などと、会長やおたすけ人が、まだまだ信仰・信心が未熟な方に対して行う言葉として使われる。

そこで、この修理・肥もその丹精と同じように、まだまだ、信仰・信心が未熟な方への行いの言葉と思い込んでいたのである。

ところが、

今言ったように、この言葉には主語が無い。

そうした時に、「信心するのは誰か?」という事が浮かんできた。

信心するのは、神様を信じた人すべての人間である。

おたすけをする人とは限らない。と思えたのである。

すると、目の前が途端に明るくなった感じがした。

さて、

今、立毛作るには、種を蒔いても、修理せねば、外の草がしこって(14)(茂って)、訳もわからないようになり、また、肥をしなければ、成人もない。成人なければ、花も咲かない。実もなりそうなことはない。

ここの部分は、農作業に例えて、修理・肥の必要性を述べられているだけであるが、次である。

 今、話を聞いて成程と、心を留めるのは信心の始まり。立毛なら、種を蒔くようなものや。「だんだんと、話」という。聞いた上にも聞いて、おいおいと、理を治めるのは、修理のようなもの。理を聞きわけて、道を尽くすは、それ、肥という。肥を置くようなもの。

信心の始まりについて、

今、話を聞いて成程と、心を留めるのは信心の始まり

と「信仰の始まりの定義」を示されている。

つまり、神様の話を聞いても、なるほどと心に留まる事が無かった場合、それは信心が始まったとは言えないと言えよう。

そして、それを農作業に例えた時に「立毛なら、種を蒔くようなものや。」と言われているのである。

この時に、「なるほどと思ったのは誰か?」と考えた時に、おたすけをする人ではなく、神様の話を聞いたすべての人であると思えたのである。

つまり、この主語は、話を聞いてなるほどと思った、信心を始めた人すべてという事になり、その次に、

「だんだんと、話」という。聞いた上にも聞いて、おいおいと、理を治めるのは、修理のようなもの。理を聞きわけて、道を尽くすは、それ、肥という。肥を置くようなもの。

とあり、「話を聞いた上にも聞いて、段々と、その話の理を心に治める事を修理のようなもの」と言われるのである。

さらに、「話の理を治め、その理を聞き分けて、道をつくす事が、肥となり、それは肥を畑にまくようなもの」と言われるのである。

つまり、なるほどと感心して、信心を始めても、話を聞かなかったならば、修理は出来ていない事になり、いくらおたすけ人が助かって欲しいと思って、話を聞かそうと思っても、その人が聞かなければ、修理は出来ないという事になる。

つまり、この修理をするのは、神様の話を聞いた人その者であり、

その上で、話の理を心に治めるのも、その人本人なのである。

となれば、肥を蒔く事をするのも、本人である。

ここには「道をつくす」ととても簡単に書いてあるが、

道をつくすとは、教えを実行するという事であろう。

本人が教えを実行する事で、その行いが肥となって、自分の心を成人させる、運命を良くするための「肥蒔き」でもあるという事になる。

そして、

そこで尽くすだけの、効能は、天より与えて下さる。立毛なら、実がなったようなものや。

そして、そのように肥を作り、肥を蒔いたその結果は、天の神様が与えて下さり、それは農作物に例えれば、実がなったようなものである。

と言われるのである。

実とは、実際には、それぞれの望み通りになって行くという事だろう。

この点をしっかりと考えなければならないと思ったのである。

「神様の話を自ら求める事」「聞いた上にも何度でも聞く事」そして「聞いた話を実行する事」これが何よりも大切な事だと思ったのである。

そして最後に

 そこであるからして、たとえ、二十年、三十年前に、信心をしかけたというても、その間、聞かぬ上にも話を聞かず、また、道を尽くさんと言うばかりではない。話を聞かんから理がわからずに、天の理に適うことはなく、よこしまな道に、踏み被りているようであれば、二十年、三十年やない、たとえ、百年、二百年経とうとも、花の咲きそうな事もなければ、実のなりそうなこともない。年限経つほど、枯れるばかり、くさるばかりであろう。

と、なるほどと得心をして信仰を始めたとしても、年数ばかりではならないという事を言われているのである。

これを丹精という言葉と対に使うとした時、

おたすけする人に、神様のお話を取り次げるだけのものが無ければ、修理肥のための話をする事が出来ずに、丹精以前の話になってしまうと思ったのである。

やはり何よりも、神様の話を求め、そして実行して、神様に話しを取り次げと言われる人になる事。

これが何より大切な事だと思ったのである。

 

今日も、神様の話を元に一日を通りたいと思います。

おぢばに向かう近鉄電車の中で記しました。

何かの参考になれば幸いです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八つのほこりの理。。。『正文遺韻抄』より

2021年11月09日 16時45分46秒 | 正文遺韻抄

ほこりの説き分けの前に。。   ほこりの説き分け。。。

先日、「かしもの・かりもの」について投稿した。

私が仕切りに、ワクチン接種に反対をして、トランプ大統領を支持したり、天理教以外の宗教の動画を共有したり、スピリチュアルや宇宙人やUFOなど、今の世の中と違う事を進めている事がとても気になる方があるだろう。

この地球に生かされている事。そしてそれが親神様によってなされている事は、天理教の人であれば信じているだろう。

しかし、天理教を信心していると言いつつも、そのように得心していない人もあるだろう。これは他の宗教や組織でも、その団体に所属していても、深く理解していない人もあるので、別段当然のことである。

数日前まで「元の理」について書いて、次に思う事を書くつもりだったのが、突然「かしものかりもの」を載せる気になった。そして、ユーチューブでは次々とUFOの話が飛び込んできて、フェイスブック共有した。なぜだろうと思いつつ、心浮かぶままに作業を進めた。

そして今朝、フェイスブックにある方の思いが書かれていて、「今現在の混とんとした世の中を鑑みて、法律を作っても。。。」という内容だった。とっさに「律ありても心定めが第一」と書いてしまった。

そこでふと思った。

やっぱり、親神様・教祖のお話が大事だと。。

そして、この混とんとした中に、親神様の真の思いが悟れる人が一人でもあればありがたいと、改めて思った。

そして「かしものの説き分け」の次は「八つのほこり」と思えたので、「八つのほこり」を読みやすくしたものを掲載する。

これも先の「かしものの説き分け」と同じくして作ったものである。

・・・・・・・・

『正文遺韻抄』(P170より:現代文に書換)

(2021.6.16 画像追加)

 欲しいというほこりは
 分限に過ぎたるものを欲しいと思い、
 与えもないのに欲しいと思い、
 人のものを見ては欲しいと思い、
 すべて、我が身分を思わず、たんのうをせずして、欲しい欲しいという心がほこりでございます。
 例えば、分限に過ぎたものというのは、おおよそ皆それぞれの、身分相応と言う事があります。百姓は百姓らしく、月給取りは月給相応の身なり、くらし方をせにゃならん。学生は学生らしくせにゃならん。同じ学生と言えども、それぞれの財産と境遇とによってそれ相応の程度にせにゃならん。しかし、何ほど財産があると言えども、学生はその学生たるの分限を守らなねば、ほこりであります。

 例えば、良い服を欲しいと思い、又はよい器具を欲しいと思って求めたり、学生には不必要な物を求めるのは、たとえ与えがあるとしても、程度の過ぎたもので、ほこりでございます。なぜならば、ほかの同じ学生にほこりをつけさせます。すなわちそれは、我さえ良くば良い、という事になりましょう。これは大いなるほこりの根源であります。
 また、与えもないのに欲しいと思い、人のものを見て欲しいと思う事は、例えば友達が時計を持っていると、自分も欲しいと思います。また、人がものを食べているのを見ると、自分も欲しいと思います。これはもっともな事で、だれでも同じ人情でございます。けれども、めいめいに与えがあるとか、無いとかいうことは、天のさい配であって、めいめいのいんねんからで、決して人をうらやむのではない。心を治め、たんのうをして、欲しいと思う心をさらりと捨ててしまわにゃならん。
 何事についても同じ事で、欲しいと思う心がわいても、自分の身を振り返り、ふところを探り見て、求めるだけの理が無い時には、さらりとその心を捨ててしまえば、ほこりの理は残らないでしょう。しかし、この欲しいと思う心の理がこもって、捨ててしまう事ができなければ、悪い行いにもなって来るのであります。また、行いに現れなくても心の不平不足となり、不足の理が積もり重なれば、身の不足となります。ゆえにほこりであります。

 もしも、身分不相応なものや、与えの無いものに、欲しいと思うところから、次々と求めますと、人には損をかける。内々には波風が立つ。様々なほこりが生じましょう。また、それがだんだん長じて来ますと、人に損をかけるのも何とも思わず、借りたものはもらった物のように思い込み。内々のなげき、口説きも、全く心にかけないならば、人をペテンにかけ、生みの親をペテンにかけてまでも、我が欲しいの妄念(もうねん)を遂げるようになり、果ては、盗みもする、詐欺もするようになるのであります。
 そうなればもはや、法律の罪人でございますが、そうなる元といえば、罪とも咎(とが)ともいえぬ、ただささいな欲しいという凡人の心であります。
 よって身分を思わず、懐を考えず、むやみに欲しいという思い、念を起こすことが欲しいのほこりでございます。   

ページトップへ

 惜しいというほこりは
 治めねばならぬものを惜しいと思い、
 かやさねばならぬものを惜しいと思い、
 人に貸す事を惜しいと思い、
 ぎりをするものを惜しいと思い、
 人に分配する事を惜しいと思い、
 難渋に施すものを惜しいと思い、
 人のために暇を費やすのを惜しいと思い、
 すべて出すべきものを惜しいと思うはもちろん、人の助かる事、人のためになる事に費やす物事を惜しいと思う心がほこりでございます。

 又、身惜しみと言う、横着な心も惜しいのほこりと聞かせて頂きます。この惜しいという心がありますから、人を助けるということもできません。返すものはだんだん延びる、返礼は薄くなる、納めねばならぬ金銭も怠る、義理を欠く、人が物を貸してくれと言えば、あるものも無いと言ったり、空いているものもふさいでいると言ったりして、うそをつくようになる。こうなれば、だんだん恩を重ねるばかりで、人には悪く言われ、けちんぼなどとそしられて、人のほこりのためにもなります。
 又、出すものは出し、やるものはやりながらも、この惜しいという心のために、理を失ってしまう事がしばしばあります。例えば、人に物をやっても、もっと少しにすればよかったと思ったり、神様へお供えしてもああ惜しい、お供えしなければよかったと思ったり、物を買いましてもせんど値切って、向こうが負けると言うと、もっと値切ってやればよかったと思ったり、惜しいけれども義理で仕方がないと思って出したりする事がしばしばありましょう。

 こういう心遣いでは、せっかく出しながら、心で取り返してしまう理で、何にもなりません。そこで神様は、そういう心を出すものは、人は受け取っても、天が受けとらんと聞かせられます。丁度、種をまいてすぐ掘り返しているようなもので、労して功なしでございます。そしてまた、事によっては、大層惜しいと思いますが、惜しいと思っても取り返しがつきません。そして惜しい惜しいの心が残念となり、心の悔やみとなって、ついに気が狂ったり、病が出たりする事も、しばしばあることでございます。
 これは、惜しいという凡人の心のために、我がと我が身を殺すものと言わなければなりません。また、身惜しみ、骨惜しみという事も同じことで、例えば、どのような勤めをしているとしても、心で満足せず、つらい、うたてい(方言?)と思って嫌々(いやいや)した分には、天のお受け取りはございません。すなわち、労して功なしで、やはり恩を被るような理になります。そういう心遣いである者は、人のいる前では働くような振りをして、人のいない所ではなまくらをするに違いありません。そんなものが、人のためになる事が出来そうな事はありません。いささかな骨折りで人の喜ぶことや、または、物が粗末になる事があっても、だれかがするだろうと思って放っておく。ちょっと一足そこへ出て、捨てて来れば片付く事でも、不精にして、放っておいて、だれかしてくれるだろうと思っている。互いにそういう心では横着の勉強をしているようなものです。

 人間というものは、心も体も動かさずにはおられないものです。働いて楽しむように出来ています。それなのに、心が不精になり、身が横着になりますと、神様のご守護も不精になり、横着になります。一時によい働きをしようと言ったとしても出来そうなはずはございません。一生「使いにくい人や、頼みにくい人や」と言われて、のらりくらりして果ててしまって、この次の世に持ち越す理は、恩をきた理ばかりでございます。横着の心というものは出易いものですから、よくよく注意をしなければなりません。

 可愛いというほこりは
 可愛いという愛情のないものは無い。しかし、その愛情に引かされたり、おぼれたりする愛着心と、今一つだれ彼の隔てをして、その者に限り別段に可愛いという偏愛心とがほこりでございます。
 例えば、我が子の愛情におぼれて、身の仕込みも十分せず、心のしつけも厳しくせず、気まま勝手に育てて、成人した後に後悔するような事もしばしばあることでございましょう。また、我が子のあやまちを人の子に塗り付けたり、人の子の手柄を我が子に横取りしたりするような、目のくらんだ親も無いとはいえません。また、我が子の愛情に引かされて、自分のつとめを怠ったり、身分不相応なものを求め与えて、罪を作ったり、はなはだしい事には、我が子可愛いために、人の物に手をかけたり、悪い了見をおこしたりする者もしばしばありましょう。

 また、この愛情は、子供の上ばかりではありません。女の愛におぼれて、大事なことも打ち捨てて、家をつぶし、身を反故にするものも、しばしばございましょう。
 大きく申せば国家のために忠義をつくす人でも、一夜の間にも、女の愛にほだされて、不忠不義の人となったためしも少なくはないでしょう。これらは、ただ我が身を反故にするのみではありません。家をつぶせば、家内の者を困難の淵に沈めるのであります。国家のためにあやまれば、国の人びとに災いを及ぼすのであります。どれだけ大きい罪とも知れません。
 また、この可愛いという凡人の心のために、前申しましたような行いは致さなくとも、可愛い可愛いの心から我が心を苦しめ、先あんじや、嘆き、口説きを重ねて、自ら我が心や身上を病む親も沢山ございます。こういう凡人の心が、お話しの理によって自らのいんねん、事情を聞き分けて、神様にもたれるという安心を定めて、発散しなければなりません。
 また偏愛というのは、例えば大勢の子供を預かっても、皆同じように心をかけずに、その中の一人二人を別段に愛すると言うような事や、または、我が子のある中へ人の子を預かって育てたり、まま子を育てる事があった時に、我が子のみを可愛がり、我が子にはよいものを与えて楽をさせ、預かり子やまま子には悪いものを与えて、辛い事をさせるというような、へだてて可愛がるのがほこりでございます。

 そういうふうに致しますと、皆心がひがみ、心がいがんで、絶えず争い事が生じて、互いにむつまじく通ることは出来ません。そこで多くの人間を悪く仕込むことになってしまいます。それはどれだけの罪とも知れないでしょう。第一に、こういう隔ての心は、天の理にかないませんので、偏った愛情は心にもたず、一列同様の愛情をもって、愛着心を生じないよう通らせてもらわなければなりません。

 憎いというほこりは、
 我の気に入らん、またはむしがすかんと言って、罪なき者を憎いと思い、
 粗相をしたり、過ちがあったからと言って憎いと思い、我に無礼だとか、失礼だとか言って憎いと思い、すべて、おのれの気ままな心、邪険の心から人を憎いと思うがほこりであります。
 例えば、姑が嫁を憎いと思うことは、まま親がまま子をいじめるようなものでございまして、これは邪険と申せましょう。この邪険の心、勝手、気ままの心が憎いというほこりを助けて、われの憎いと思う者へは荒くあたり、きつくあたり、無理を言い、与えるべきものも与えず、他の者は喜ばせながら、その者には泣かせるようなことをする。
 あるいは、良いことがあっても、それはおくびにも出さず、少しでも悪いことがあれば、針ほどの事でも棒ほどにして、その者の事を悪く言います。あるいは、大勢の中で恥をかかすような事も致します。他人の目から見ても、むごい人や、非道な人やと言われるようになる。

 こういう邪険なわがままの人に限って、一寸した事に憎いという心をわかす代わりに、また一寸した事に可愛いという隔ても致すのでございます。一列兄弟、皆可愛いという心を持って、例え過ちがあろうとも、自分に失敬な事をされようとも、悪いところは改めさせるようにして、人を憎いと思う心は沸かさないようにしなければなりません。

 恨みというほこりは、
 おのれの思惑を邪魔されたと言って恨み、
 人を不親切だと言って恨み、
 人の親切もかえってあだにとって恨み、
 人の粗相も意地でしたようにとって恨み、
 すべておのれの悪い事を顧みず、人を恨むはもちろん、いんねんの理からなるという理を悟らずに、ただ人を悪く思って恨むのがほこりとなります。
 例えば、自分が出世出来そうになったところを、他の人が登用されたために出世出来ないようになると、あの奴が邪魔しやがったと思って恨む。そうではありません。自分よりもその人のほうが事が出来るからです。

 また、たとえ自分の方が事も出来、登用されるべき順序にあったとしても、いんねんという理を心に治めたならば、たんのうして、ますます慎み、行いを改めなければならないはずであります。ところが、あいつがいたために、あいつが邪魔したためにと誤解して、その者を恨む、これは大きな間違いでございます。
 また、自分が心をかけた女を、人が取ったとか、または、女が他の男に心を寄せたとか言って、その女も男も共に恨み、自分が心得違いをしておったのだと、改心するところへ気が付かず、人を恨んで、その結果がケンカ、口論となり、はなはだしいことには、殴りつけたり、刃物で刺したりして、ついには殺害するに至る。恨みの刃を振りかざす例は、古今東西絶える事のないありさまで、誠になげかわしい至りでございます。
 また、小さい事で申したなら、「あの人がこう言ってくれればよいのに」、「言いようが悪いために、私は人に悪く思われる、不親切な人だ、憎らしい人だ」と心を沸かす。
 また、人が自分の過ちを親切に忠告してくれても、悪く取って、「あいつがいまいましい事を言いやがる。今度奴の穴を探して仕返ししてやらなければならん。」などと思って、心中大いに恨んでいる。あるいは、人が粗相で自分の器具などを傷つけても、「あいつが粗相をするなんて、これは意地からしたに違いない、ひどい奴だ」と胸に持つ。
 こういうような取り違いをして、日々ささいな恨み心を起こす事が数々あるのでございます。これは、心ばかりのことで、目にも見えませんが、これがほこりと聞かせられますので、積もり積もって身上に迫るようになります。

 腹立ちというほこりは、
 人が自分の気に入らぬ事を言ったと言って腹立ち、間違った事をしたと言って腹立ち、
 粗相をしたと言って腹立ち、
 自分の気が面白くないために、ささいな事にもむやみに腹立ち、
 すべて、広く大きい心を持たずに、堪忍(かんにん)辛抱をせずに気短な心から腹を立てるのがほこりでございます。
 例えて申しますならば、親が着物を用意してくれましても、自分は気に入らないと言って、むやみに腹を立て、むきになって、じだんだ踏んで怒るような子供もございましょう。
 また、従業員や、家内や子供が、自分の気に入るようにしないと言って腹を立て、怒り散らして、「どうしてよいやら」と従業員や家内、子供がうろうろしなければならんような主人もございましょう。
 また、目下の者が粗相でもすると、非常に立腹して、いたたまれないように怒り散らす人もありましょう。粗相は時の表裏(失敗と思っていたことが良いことになることもある)で、神様のなさる事と思えば、腹は立ちません。もし、自分が粗相をしたならどうでしょうか。黙って放っておくに違いないでしょう。

 また、自分がなんとなく気が面白くないという時には、むやみに怒り散らしたり、ものに当たったり、道具を壊したりするような事もあります。あるいは、子供が言うことを聞かないと言って頭をたたいたり、小便をした、いたずらをしたと言って、ひどいめに合わせたり、子供は親の心通りのご守護という事を知らずに、むやみに腹を立ててしかる親もあります。
 これはすべて腹立ちのほこりであります。

 というほこりは、
 人並よりは余計に我が身に付けたい、
 理にかなわなくても、人が許さなくても、取れるだけ取りたい、
 ひとつかみに無理なもうけ、不義な利益を得たい。あるが上にもなんぼでも(どれだけでも)我が物としておきたいというような心。
 すべて、一般に欲の深い人やといわれるような心と、豪気強欲というような欲がほこりでございます。
 この欲の心がありますと、人並みに物をもらっても、まだ不足に思い、どれだけあっても結構だと思えません。そこで、不足には不足の理が回ると聞かせられて、常に思うようになりません。思うようになりませんから、なお欲の心を強めるのであります。そして、欲の深い奴だと言われるようになるのでます。

 そういう汚い心でありますから、人に分けてあげる物も自分は余計に取る。一割の利益が当たり前の商売でも、二割、三割の利益を得る。道に落ちた物は拾って自分の物にするばかりか、升目をかすめたり(量をごまかしたり)、田地(田畑)の境目を勝手に変えたり、勝負をしたり、相場をしたり、人が国のためとか、世のためとか言って、苦しんでいる中でも、自分はその機に投じて、莫大な利益をせしめようとしたり、貧民を苦しめて、絞り取って自分の懐を肥やしたり、そればかりか、色にふけり、酒におぼれて、色欲、食欲の強欲をとげるようになる。これが、豪気強欲でございます。

 高慢というほこりは、
 知らぬことも知った顔で通りたい、
 人よりも偉い顔して通りたい、
 自分の言い条は理が非でも通したい。
 人の言い条はなるべく打ち消したい。逆らいたい。人のする事には非を打ちたい。
 と言うような心、
 すべて一般からあの人は偉そうにする人やとか、あの人は我が強い人やとか、言われるような高ぶる心や、強情な心が高慢のほこりでございます。

 この高慢の心がありますために、知らぬことを知っているように言いくるめ、粗相した事も、あやまるのが辛いために隠したり、人がバカにしたとか、頼りないと言ったと言って、腹立てたり、悔しいと思ったりして、さまざまの心を作ります事は、女の方には日々にある事でございます。そうした心の苦しみは発散できなければ身上の苦しみになるのでございます。
 また、この高慢心がありますから、器量がよいものは器量自慢という心が、知らず知らず胸に出来て、人を目下に見下すようになります。女性、子供の学生などを見ましても、同じ同等の生徒であるのに、器量のよいものは何事にも先に立ち、器量の悪いものはまるでお供のように見える。その言葉の使い方でも、器量がよいものが言う言葉は、女中、身分の低い者に使うような言葉であり、誠に見苦しい事であります。これ、知らず知らずに器量がよいと言って、ほこりを立てたりするのであります。そうして、知らず知らずに心を奪われるのでありますから、よくよく注意をしなければほこりになります。
 その他、何事も同様で、学生中でも少し出来がよいと、知らず知らず人に立てられるのにのってしまうのであります。
 また、腕力が強ければ、腕力を持って人に自慢をする。財産のある者は、よいように見せて、よい物を持って、偉そうにします。それが、知らず知らず人を見下すようになって、知らず知らずにほこりを積むことも沢山ございましょう。また、自分の言い出したことは、間違った事でも何でも言い通したい。人の言うことを「なるほど」と言って自分の言い分を曲げる事が、大嫌いな性質の者もございます。

 また、人が言い出した事は、良くても悪くても、一寸は逆らってみたいという性格の者もいます。また、人の穴を探して、非を打つことの好きな性格の者もございます。
 また、目下の者と見ると、何を言うにもひどい言葉を使って、情をかけずに「自分のお陰だ」と恩に着せて、踏み付けるような性質もございます。こういう人に限って、上の人に向かうと必ず追従(ついしょう)もします。この性分というものは、なかなか直りにくいものでありますが、お話を聞いて、一つ一つ直すように心掛けなければ、結構に通る事は出来ません。
 『ウソに追従これ嫌い、欲に、高慢大嫌い』と聞かせられまして、ウソ追従を言わない者はありません。また、欲と高慢のない人はございません。皆だれでも多いか少ないか心にありますから、行いに表れますので、ウソは言わんように、お追従はしないように、欲をかかないように、高慢を出さないように、日々注意することが肝心でございます。
 人間の凡人の心では、人に悪く言われると気持ちが悪い。よく言われると気持ちがよい。また少しでも人の上に立つとか、人に立てられるとかすれば嬉しいものであります。また、人の下について通らなければならないとか、人にけなされるというと、いまいましく思うものでありまして、これはどうでも離れる事の出来ない、人情でございますので、自分もそうなら、人もそうなのです。ですから、人の事をけなせば、人も我がの事をけなし、人の頭を押さえたならば、人は反抗して我がの頭も押さえようとします。そこで互いに踏み付け合いをする事になります。そうなれば、内々もむつまじく通れないようになるのです。

 だから、神様が互い立て合いと仰せられるのです。慢心(おごり高ぶる心)を出しては、互いに立て合う事が出来るでしょうか。人が失敗や、つまらないことを言ったり、したりしたならば、けなさずに教えるよう親切をかけ、悪いことを悪いとは言わず、違うことを違うとは言わず、「こうしたらどうでしょう」と言うように優しくして人を立てて、人の足らないところを補ってやるようにするのが、誠であります。
 そこで神様が、「あの人は足らぬ人や、あほうな人やと言うならば、足りるよう、賢いようにしてやってくれ」と仰せられます。
 人間は神様からの借り物ということを、聞き分けられたなら、足りぬ人やあほうな人を、笑ったりそしったりは出来ないでしょう。なぜならば、その足りぬとか、あほうだとか分かるのは、自分が神様のご守護を厚く頂いていればこそ分かるので、自分の力ではないのです。自分の力のように思うから、人が足らない事やあほうな事がおかしく見えるのであります。
 そこで、「足らないものなら、足してやれ」と仰せられるのです。力を添えてあげなければならないのです。「あほうな者は賢くしてやれ」と仰せられるのです。同じように心を添えてやるより、他に道はございません。人間の力であほうを賢い者に出来ましょうか。決して出来る事ではないでしょう。

 この理を聞き分けたなら、人を踏み付ける事も、ないがしろにする事も出来ないでしょう。この高慢の心は、積もり積もって、親をも踏み付けにする。主人をも踏み付けにする。そしてついには、理をも踏み付けにして、神様をないもの同様にするようになるのです。
 そこで、ほこりという八つの中の、一番最後のトメに置いてお戒め下されたのでありまして、高慢は一番出やすくて、一番ほこりが大きいのでありますから、よくよく日々に注意しなければなりません。

(以上)

・・・・・・

どうか親神様・教祖のお心が、世界中に届きますように!!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内も世界もへだてなきよう。。。。『正文遺韻抄』

2021年07月21日 06時50分02秒 | 正文遺韻抄

資料として、書換えておく。
「内も世界もへだてなきよう」  『正文遺韻抄』231頁

 この道は、信心している者も、また、していない者も、みな同じように思って、みな隔てないようにという。
それ、どんな者でも、仇に思わないように。
この心を台として、信心しない者には、理を聞かせて、信心させるように運ばなければ、「内も世界も隔てなきよう」とは言えないだろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

医者も薬も神の教え。。。正文遺韻抄

2021年07月21日 06時26分59秒 | 正文遺韻抄

資料として、書換えておく。
「医者も薬も神の教え」  『正文遺韻抄』232頁

 医者、薬、拝み、祈祷も、易、判断も、皆、これまで人間の修理のために、神が教えておいたという。
けれども、これは一時的な理で、神の教えておかれた守護で、その場その場は助かったであろう。
しかしこれでは、心を直すことは出来ないため、また、元に戻るか、そのまま治ったとしても、またいつか理が現れて、身上に迫る。

 例えるならば、飯の上のハエを、追い払うのも同じことである。
一時はいなくなるけれども、追わなければ、また寄ってくる。
そこで、この飯を、他のところへ動かしてしまえば、ハエを追わなくても、ハエは来ないようなものである。
この度は、神が表へ現れて、何かいさいを説いて聞かすという。

 それ、聞かして頂いた話の理によって、心を今までと切り替えて、今までの心は、ハエが付く飯のようなものなので、これを他へどかしてしまって、切り替えた良い心を、また、元の心に変えないようにすれば、それ、医者や薬、拝み祈祷、易判断、全てこれはいらない。

 

以上。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の数について。。。『正文遺韻抄』

2021年07月02日 20時45分52秒 | 正文遺韻抄

資料として、書換えておく。

「人間の数について」  『正文遺韻抄』153頁

 ある時、梅谷様より、仲田様、山本様などに、『人間は、9億9万9千9百9十9人の人数と、聞かせられるが、中に、牛馬に堕ちているものも、おるとの事なれば、人間の数は、現在増えておりますか、また減っておりますか』とたずねしところ、『そんなことは知らぬから、これから神様へ伺わん』と申して、教祖の御前に伺い、仲田様より、右の次第お尋ね申し上げしに、しばらくお伺いの態にて『それは増えてあるとおっしゃる』と仰せられて、それより、その次第をお聞かせ下さるには、
 『元は、9億9万9千9百9十9人の人数にて、中に、牛馬に堕ちている者もあるなれど、この世初めの時より後に、生き物が出世して、人間とのぼりている者が沢山ある。それは、鳥でも獣のでも、人間を見て、ああうらやましいものや、人間になりたいと思う一念より、生まれ変わり出変わりして、だんだんこうのうを積で、そこで、天にその本心を表してやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、そういうわけで、人間に引きあげてもろうた者が、沢山あるで』と仰せられ、一同感服して、御前を下がりしという。

 

 

(2021.7.2作成)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「誠という事」。。「たんのう」。。「いんねん」。。正文遺韻抄より

2021年06月21日 14時27分18秒 | 正文遺韻抄

前回、「かりものの説き分け」「八つのほこりの理」について、『正文遺韻抄』を読みやすく書き換えたものを掲載した。
『信者の栞』には、「かしものかりもの」・「やっつのほこり」の次は、「誠真実」となる。

そこで、『正文遺韻抄』のお話の中から、「誠真実」に関する3点を書換えて掲載する。

・・・・・・・・・・・・・

 

誠ということ (『正文遺韻抄』p222現代文に書換)

 誠というは、口と心と手と、この三つが揃って、真の誠という。それ、いかほど口で、誠の話をするとしても、真の誠が治まれば、行いもそれに添って、それすること、なすこと、日々常に、いかなる事も、みな誠のようになるであろう。けれども、心に誠が治まらないと、それどうもならん。
 日々のすることなすことが、口で話した事と違うから、世界から「それ、あの人は口先ばかりうまい人や、言うことだけは、誠のようだけれども」などと言って、それ話の理を用いてくれないようになる。

 そこで、口と心と手と揃って、人々より「ああ成程の方やなあ。どうも感心な人やなぁ。頼もしい人やなぁ。」と言われるだろう。真の誠で、通ろうと思えば、そこで、一つたんのうという理を心に治めて、「我はどうでも、人さえよければ、わしはもう、これで結構や。たとえ、この上どのようになろうとも、人さえ助かってくれれば、それでよい。何でも、人に助かってもらわねばならん。」という心を定めねばならん。

 

たんのう (『正文遺韻抄』p223現代文に書換)

 世の中は、同じ人間と言っても、尊き人もあれば、卑しい人もある。豊かな人もあれば難儀(11)な人もある。また難儀といっても、難儀の中の難儀(12)もあれば、不自由の中の難儀もある。それ、上を見ても切りはない。また下を見ても切りはない。これみな、前生の因縁でなること。すれば、どういうことでも、みな、銘々に下を見て、日々これで結構とたんのうするが第一。


 そこで、「それ、いかなるもたんのう、たんのうが第一。みな銘々、たんのうして、また人にもたんのうさせるよう」という。それ、つく息、引く息もあれば、聞く、聞かん、見る、見んの理を聞きわけ。人には腹を立てささぬよう。人の喜ばぬ事、人の嫌がることは、少しもしないよう。また言わないよう。あの人は良い人や。あの人の言うことは角がない。あの人のすることは、みな丸い。あの人のようでなくてはならんと、人に思われ、人に喜ばれ、世界みな、満足してくれる。これを「人にたんのうさせた」というであろう。

 

因縁(いんねん) (『正文遺韻抄』p224現代文に書換)

 因縁というは、前生ばかりを因縁というやない。悪きばかりが因縁やない。この世でも、十五才よりこの方してきたことは、良きも、悪しきも、みな因縁となる。また、前生良きことしてあれば、因縁となりて、この世で現れるか、次の世で現れるか、必ず現われんということはない。悪しきことも、その通りなれども、良き因縁は、皆一れつ喜ぶことゆえすぐと現し、すぐと返して下さる。
 されど、悪しき因縁は、でけるだけ延ばしているという。

 それ、世界中はみな、神の子どもゆえ、人間の、我が子思うも同じ事。皆可愛いばかりで、隔てないゆえに、悪きことしても、またそのうちに良きことをして、前の悪き理を埋めるかしらんと、可愛さゆえに悪のむくいは、だんだん延びる。
 そこで、良きことをして、埋め合わせをすればよいが、それに気づかず、悪に増長して、だんだん悪しきの因縁が重なり、それより、現れてくると、大層やから、どうしても、人にやっかいをかけて恩をきんならん。恩をきても、ついに返す目はなくて、恩の上に恩をき、恩が重なりて、ついには、人間にもなれず、恩報じをするために、牛、馬にまで落ちんならん。
 今までは、気の毒ながら旬が来ないゆえ、そのままにして、何事も説いて聞かして、心改めさしたことはない。

 この度は、月日の刻限が来たるから、話一条で、心改めさして、悪因縁のものを、心の与えによりて、削りてもやり、また良き因縁にもしてやるという。それ一れつは、良き因縁はすでに返してもらい、悪い因縁のみ持っているに違いないゆえに、この因縁を果たすために、誠一つを台として、人を救けにゃなろうまい。

 また一つ、前生よりの因縁は、善悪共に七層倍の、返しをするという。いかなる知者や、学者や、老人やというても、逃れるに逃れられんというのは、因縁の理、その災い三つはあるという。
 それ、火難と、水難と我が身にくる病難は、いかほど偉い、ごうてき(13)たりと言うても、逃れることはできようまい。なれど、神の話を聞き込んで、聞いた話を、噛みわけて、噛みわけたなら感心をし、感心したなら、心を入れ替え、入れ替えたなら、いつになりても違わんよう。
 それ、身に守り、身に行うて、そこで、いかなる難も皆のがれる。それ、知者や、学者や、老人や、ごうてきの者でも、逃れられん道も、たった一つの心の誠という理で、自由自在。それ、逃れるであろう。

 

【註】 「誠ということ」へ

 
(11)難儀=1:難しいこと。容易ならぬこと。2:くるしみ。なやみ。3:わずらわしいこと。面倒。迷惑。4:貧窮。貧乏。(広辞苑より)

 
(12)難儀の中の難儀=原文は「なんぎの中のなんぎ」と書かれてあり、より一層の難儀と理解する。
 「たんのう」へ 
 
(13)ごうてき【強的・豪的】=1:すばらしいさま。すてき。ごうせい。2:程度の甚だしいさま。たいへん。
ごうてき【強敵・剛敵】=つよい敵。手ごわい敵。(広辞苑より)
  いんねんへ  

・・・・・

どうか、親神様の心が世界中に届きますように。。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身上かりものの説き分け。。「正文遺韻抄」より

2021年06月15日 13時33分29秒 | 正文遺韻抄

今ならば「依存症」と言われるだろう症状で、とても困っていた時、何度もおぢばへお詫びに通った。その時に、必要な時以外は外に出ないで、教えを一から学び直そうと思い、本を読み始めた。その時、本を読むだけではもったいない。いずれ役に立つだろうからと、ワープロで入力しながら本を読んでした。そしてこの『正文遺韻抄』の書き換えを思い立ち作成していた。

その後、コンピューターに移り、ホームページを作った時に、ネット上での参考資料になればと、手直しをして、註釈をつけたものである。

今回、「元の理」の表をブログに掲載する時に、HTML書式のものを使える事を知り、今回掲載することにした。

当時とは違って、今は簡単に写真も掲載する事が出来る。今回は画像も含めておく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「身上かりもののときわけ」   (文) (註) (注意)  

[2003.11.23 訂正、追記] 「2021.06.15 画像追加」

(「正文遺韻抄」p186 現代文に書換)

  このようは一れつはみな月日なり 人間はみな月日かしもの
 当神様のみ教えは、このお歌の通り、人間の身の内は、神からのかしものであり、銘々は月日様より、身体を借り受けて、自由自在に、心の思う通りに、使わせて頂くことが出来ます。
 身の内さえも借り物であるならば(1)、よろず一切はみな借り物。世上世界に、ある全ての物は、食物、着物、住む家をはじめとして、すべてみな神様の物であります。これらは月日様の自由(思いのまま)にできまして、月日様が、支配してくださるのです。そして銘々人間の心だけに、よろず貸し与えて重宝させて下さるのであります。


 よって、銘々の物、人間の物と言ってはみても、人間の物である物は何もございません。一れつ一切はみな月日様のもの(月日様とも言える)(2)。月日様の世界であります。人間は身上を借り受けて、にぎわしく、暮らさしてもらうのであります。そこで、身上かしもの、かりもの。心一つが我がの理。これが、教えの台でございます。

 月日様が人間をこしらえて、この世をお始め下されて以来、今日まで、何千年、何万年もの間、知恵も仕込み、学問も仕込み。心直しのため、人や国々が睦まじくなる(にんきやわらぐ(3))ために、真実の道を教え。病気助かるために、医者薬の道、または祈祷まじないの法も教え。みな修理肥のために、神が人間に入り込み、または八柱の神様に人間の生を受けさせて、月日の心入り込んで、だんだんと、どのようなことも、教えて下さいました。(a)そして今日では、知恵が進み、学問がたけ、医者の道にすればどんな手術も施し、どのような治療も致すようになり。科学においては、いかなる機械も発明し、だんだんと便利になり。おいおいと進歩発展する(開明(4)になる)ばかりで、日にまし、月にすすみて、いよいよ結構になってまいります。
 百里、二百里(約400~800キロ)隔たっていても、一日に行き着く事が出来ますし、五百里、千里(約2000~4000キロ)の遠きところでも、一日の中に便りをすることが出来ます。それに連れて、十分(ばんばん(5))便利になって、実に結構なる今日であります。

 そして、今日まで結構になりました、この二、三千年の間というのは、誰がどういうことを始めた。何という人がこういう物を発明した。誰はどうして世の人を助けた。彼はこうして世上の利便を図った。国家のためになったと言うように、ちゃんと書物に、その事歴が伝わってありましょう。
 また、人間は、その人を偉い者や、感心な者や、ありがたい人や、尊い方やと、心に深く感じて(感ぱい(6)して)、尊敬しております。
 しかし、その元である、月日様のご守護によって、神様のお入り込みによって、お働きによってなってきた、ということが分かりませんので、人間同士がお互いに、知恵を磨き合い、勉強をしあって、その結果に、発明もし、便利も図り、文明になってきたのだと思っているでしょう。実にそう思うのが人間心の当然でございます。
 けれども、神様のお話を聞かせて頂いて思案いたしますと、第一に『火と水とが一の神』と仰せられまして、これが月日様(火は日様、水は月様)であります。この火水の徳によって、人間も生き、また万事が生育し、よろずの機械も発明されて、また運転も出来るのでございます。何でも彼でも元は火水です。火と水とのお徳がなくては、かなわぬ事なのでございます。


 そうですから、『このようの一れつはみな月日』と、仰せられますので、いかに人間が賢くても、強くても、身の内から火と水とが退き、息まで退いたら、どうしようもございません。心一つとなっては、知恵も力も宝も持って使うこと(かすこと(7))は出来ません。
 だから、身の内に月日様が入り込んで、お働きがあるので、銘々が心だけの考えもさせてもらえる。又力も出さしてもらえる。どんなことも、人間として勤めるべきだけの勤めは、働かせて頂くことが出来るのでございます。

 そこで、人間は人間だけの勤めをさせて頂けば、神様は心にのって、自由のお働きを下されますから、銘々の勤めが肝心でございます。たとえば、百姓が立毛(作物)を作るのと同じ事で、種を蒔く、修理をする、肥を置く(肥料をやる)などのことは、百姓そのものの勤めでございますから、怠ってはなりませんが、芽を吹っ切る、芽を伸ばす、段々のばして花を咲かす、実を結ばせるというのは、これは誰の力でございましょう。いくら百姓自身が、「おれは上手に作る。おれはどうする」と申したところが、出来るものではございません。
 これが神の自由(じゅうよう)、月日様のご守護でございまして、いわば、神様のお役でございます。人間は、種を蒔く、修理をする、肥を置くという事を、みなそのちょうど良い時期に従って、怠らずにさしてもらうから、その心に添って、神様のお働きが頂けます。そして、花も咲けば、実もできるということになります。


 何事もその通りで、人間の勤めと神様のお働きと、共々に行かねば、結構にはなりません。すなわち、神様が人間に、それぞれのするべき勤めだけを、与えて下さっているのですから、その勤めをしなければ、神様のご守護は頂けないのでございます。
 さて、人間という者は、その理を知りませんから、みな銘々に、自分自身の力で、事が出来るようにばかり思っていて、親神様のご恩があることが、さっぱり思いつかない人が多くあるのでございます。
 そこで、前に申しました通り、人間は、誰それ、彼それ、どういうこと、こういうこと、ああ偉い者や、尊い人やと、申しますけれども、真実のおやさま(親である神様)のご守護、お働きをありがたく、尊く思う者が無いのでございます。
 このたび、おやさま(親神様)より御じゅうよう、御働き(神様の自由と働き)の理を聞かせて下さいまして、前申します通り、「知恵も仕込み、学問も仕込み、よろずの事、段々と教えてきて、十の物なら九つまで教えたで、このたびは、その残り一つを教えるで」と、聞かせられます。

 そこで、これまでに九つまで教えて頂いてあるから、世上においては、何も不自由不足はない。便利で、重宝で、結構な世界であります。しかし、たった一つ、銘々に思うことが、思うようにならない。しようと思うことが思うようにならずに、しようまい、なるまいと、思うこともなってくる。全く、銘々の思うようにばかりにはいかんというのが、これが、一つの不足であります。
 「その不足の無いように、思い通り、思惑通り叶えてやったら、それで十分やろ。この度は、ここの一つを教える道であるで。十の数なら、一番しまいの十目の教え。すなわちとめの教えや。だめの教えやで。この道は立て通さにゃならん。末代続く、切りなしの道やで。」と聞かせられます。
 そこで、思い通り、思惑通り、叶うようになるというは、一寸だけ聞いては、「そんな事ができるものか、そんなことになれそうな事があろうか」と言うようなものであります。けれども、だんだんこの道に入って、かしもの、かりものの理を聞き分け、聞き分けた理を守って行けば、だんだん思うように、そして思惑通りに叶います。とりもなおさず、思うとおりの御働き、ご守護が頂けるのでございます。
 そこで、よく話を聞いた上にも聞いて、理を聞き分け、理を守るが第一でございます。これがこの道の信心でございます。

 さて、「かしものの理」、「八つのほこり」、「いんねん」、みな理を聞き分けねばなりませんが、前申しますとおり、「身上かしもの、かりもの、心一つが我がの理。」これが教えの台でございます。ゆえに、この理を聞き分け、「本になるほど、かりものに違いない」と、理を感じることが肝要でございます。この理を感じねば何にも分からないのであります。
 そこで『かしもの、かりものの理が分かれば、なによのこともあざやか』と仰せられまして、本当にかりものに違いないと、心に感じましたら、神の話の理を守ることが出来ます。そこで、どのような事も鮮やかに心に治まりまして、段々と行いが鮮やかになりますから、神様のご守護が、鮮やかとなるのでございます。
 神様のご守護が、鮮やかとなれば、身上に不足がありそうな事は、ございませんし、又不時災難や、病難といって、難儀をしたり、わずらうというのは、神様のご守護が欠けるからでございます。
 それならば、神様がお忘れになったか、お落としなされたかといえば、決してそうではございません。神様が忘れそうな事も、落としそうな事もありません。すべて、銘々の心一つに、十分(ばんばん)貸し与えて頂くのであります。しかし、借り主たる心次第で、十分の上に十分のご守護も頂けるし、また十分のご守護が九分ともなり、八分ともなるのでございます。だからよく理を聞き分けねばなりません。

 月日様は、なにも『人間はどうでもかまわん。心だけの守護や。勝手にせい』と思し召すような、無慈悲のお心の月日様ではございません。皆人間を、可愛い可愛いと思し召して、「誰一人にくいという者はない」と仰せられます。
『にんげんが、わがこのいけんおもてみよ、はらのたつのもかわいゆへから』と、おふでさきにもございまして、可愛いいゆえから。意見とも、立腹ともなりまして、身上に現れ、事情に現れて、銘々に苦しまなければならないのでございます。よく思案してみて下さいませ。銘々が子を育てる時の、親子の中の情愛から、よく思案してみて下さいませ。

 親というものは、「自分が食べずとも、子にはひもじい(ひだるい(8))目にあわせたくない。自分が着なくとも、子にだけは寒い目をさせたくない。なんとか、満足に育て上げ、一人前の人間にしたいものや。なるだけの事は仕込みもして、人に劣らぬようにしてやりたい」と思うて、自分が食べるものも、子のために食べようと思わず、自分の身の辛いことも、子のために辛いと思わず、一心に子の事を思い、子の事を楽しんで、どうか老いた先は、この子のために心安らか(安心)におれるよう。この子のために健康で楽々(安楽(9))に過ごせるようと思う。それが日々の願いでございましょう。

 又、みにくい子や、かたわ(10)の子が出来ましても、親の心として、決して捨てる事も出来ません。ほっとく事も出来ません。普通のものよりも、一層可哀想な、という心が深くなりまして、それ相応の道を教えるでございましょう。めくら(11)ならば、糸の道でも教えるとか、それもならん家では、あんま(12)を仕込むとか致します。また醜いものなら、学問とか、裁縫とか、その道の師匠になれるように、しっかりと教えます。皆その子の行く末を案じて、ならん所から一つの工面もし、一つの倹約(始末(13))もして、その子のために元をかけて、仕込むでしょう。
 又、心がけの悪いものであって、親には不幸をし、兄弟を困らし、親類へは迷惑をかけ、世間に対して、実に恥ずかしい、というような子といえども、親の心としては、決して心底からにくい事はありません。どうか、あの心を改めさせたい。どうかして直したい。どうにかして改めてくれれば良いがと、日々心を痛め、案じてばかりで暮らします。

 そして、なんにも申し分のなき子であれば、親は安心していられますが、悪い心がけの子ほど、親は心を痛め、末の事まで心配してやるようなもので、なかなか一人として、憎い子はありません。大勢の子がありましても、どうでも良いという子は一人も無いのが、親の胸の内でございます。あの子はどうして、この子はこうしてと、一々心に掛けて、子のためをのみ思って暮らすのが、親の情でございます。

 ならば、月日様の思し召しも、その通りでございまして、世界に多くの人間があるけれども、誰一人憎いという者はございません。誰一人どうなってもかまわん、という者はございません。みな、一人一人の身の内へ入り込んでご守護を下さり、また、心相応に、物を与えて下さいまして、さらには、心違いのある時には、身の内の守護を欠いて、心違いを知らして下さるのです。
 どうか、真っ直ぐな心になってくれたら先に危ないことも無いのに。どうか誠の心を持って通ってくれたなら、人の術中に落ちる事(踏みかぶる(14)事)も無いのに。こういう心がけでは、最後(末始終(15))は、人に憎まれ、人に嫌われて、通るに、通られんようになるであろう。「可哀想な事や」と思し召して下さるから、身の内よりの意見となるのです。

 また、悪気(あくき)ごうよくをつくしながらも、世間体は良い顔をし、人のためになるような顔をして、上辺は十分繕って通れば、人の憎しみも受けず、人に嫌われもしない道理やから、神様の意見もないであろう。というようなものですけれども、神様は一列の子供みな、同様に可愛いと思し召すところの親様(親神様)で、どの者、この者という隔てはございませんから、その者のために、多くの人が、知らず知らず、苦しんで通るとすれば、その者は、多くの人の害になる者であるから、多くの人と一人とは代えられません。どうしても、その一人を悩めて多くの人を助け、一人に意見を加えて、多くの人に、知らず知らずのうちに、徳が付くようにしなければ成りません。

 そこで、どれほど良い顔をしておりましても、心の底に悪気を持って、ごうよくの行いをしておりましては、人は知りませんといえども、ついには月日おやさま(親神様)の、立腹となって、その身が、倒れなければならぬ日が出てまいります。
 人間が多くの子供を育て、どの子もみな可愛い、一人も憎い者は無いといえども、一人の子のために、兄弟中が、困らされるような事であったなら、その一人に、意見をせなければならないでしょう。意見に意見を加え、可愛いゆえに立腹して、脅かしてみても、それでも改心できないとすれば、家におかれないようにもなりましょう。それは、可愛い一人の子やけれども、どの子も可愛い親心だから、みなと一人とは代えられん。可愛いと思いながらも、捨てなければならない。それも同じ事でございます。

 よく、思案してみて下さい。捨てたからといって、勘当したからといって、やっぱり案じるのが、親の心です。『貴様のようなものは、どうにでもなってしまえ。死んでしもうた方がよいわ』と、口には言っても、心では可哀想でなりません。『なんでああいう心やろう、どういう事で、改心してくれないのかしら。情けない事や』と、心の内には、悲しい涙が一杯でございます。無念の涙が、一杯でございます。忘れるにも忘れられん。『どうぞ良い心と、心を入れ替えて、無事で暮らしてくれるよう』というのが、親の心の内の願いでしょう。
 親の心の切なさは、どのくらいとも知れません。その切ない心を思い切って、多くの子供には代えられませんから、勘当をしなければならないという、その心配、苦労をかける子の不幸は、どれほどとも知れないでしょう。
 『子を思う道には誰も迷えども、親に仕える人ぞ少なき』と故人が嘆かれましたとおり、どうも、親の心を察する子は、少ないものでございます。『子を産んで、親の恩を知る』と申しまして、銘々の子を育てて、初めて親が自分を思ってくれた、心の大恩が分かるものでございまして、どうも子を育てなければ、真の親の心を察する事までは届きませんので、ついつい不幸になりやすいのでございます。

 川柳に『孝行をしたい時分に親は無し』というものがありますが、その通りで、自分が子を育てて、親の心を思いやり、孝行したいと思い出すときには、すでにもう親はこの世にございません。大抵はみな、そんな事でございますから、どうにもなりません。
 そこで、前々より申します通り、神様にもやはり、意見、立腹があります。けれども、皆可愛いと思し召す、親心からなることでございまして、人間が子を思う真実よりも、なお一層、神様が人間を思って下さる真実の方が、深いのでございます。おふでさきにも
『にんげんがわが子おもうもおなじこと、こわきあぶなき道をあんじる』
と、お付けになりました通りで、『そこへ行っては、あぶないがなぁ。そんな方へ行っては、怪我をするのになぁ。そういう道を通っては、怖い恐ろしい所へ行くのになぁ』と、人間が、幼児(三ツ子)のお守りをするように、おやさま(親神様)は、ご心配をして下さるのでございます。
 されば、銘々に、子を思う真実の心から、親神様が、人間を思って下さるところのお心を、ご察し申し上げて、孝行する事をしなければなりません。

(以上)

《註》

(1)身の内さえも借り物であるならば=原文では「身のうちさへも、かりものなれば、よろづ一さい、みな借りもの。」とある。この「身のうちさえも、かりもの…」を単に「身のうちがかりもの…」と書き換えることもできるが、そう書き換えるならば原文は「よろづ一さい、みな借りもの」と同じく「身のうち、かりものなれば」となっていてもよいのだが、そうではなく、「身のうちさへも…」とある「さへも」が気になる。
 そこで、「さへも」を辞書で調べると、さえ=〈助詞〉(副助詞)体言・副詞などを受ける。格助詞の上下いずれにも付く。…1:現在有る作用・状態の程度が加わったり、範囲が広まったりする意をあらわす。その上に…まで。までも。2:程度の軽いものをあげて、それ以上のものを推測させる。まで。でも。でさえ。3:仮定の条件を表す句の中に用い、そのことだけで条件が満たされ他は不問にする意を表す。(「広辞苑」岩波書店より)とある。
 また、「かりものなれば、よろづ一さい」として狭い範囲の「身のうち」から広い範囲の「よろづ一さい」と話を進めていることから。2:程度の軽いものをあげて、それ以上のものを推測させる。があてはまるように思える。
 つまり、この「さえも」は「よろづ一さい、みな借りもの」を強調するために、わざわざ付けられているように思え、言い替えると、「身の内だけが借りものと思うかも知れないが、身の内だけではなく、よろず全てが借りものである」と思える。

 特注;今回これを調べるために、同じ言葉がないかと「天理教教典」(昭和59年改訂前のもの)を見ると、「第7章かしもの・かりもの」にはp65L7「ここをよく思案すれば、身上は親神のかしものである、という理が、自と胸に治まる。…中略…銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召に随うて、使わせて頂くのが肝腎である。…中略…人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我がの理。と教えられる。」と書かれ、その後はほこりの話になり、「よろず一切みな借りもの」に関する記載は無い。

(2)一れつ一切はみな月日様のもの(月日様とも言える)=原文には「よつて、めい/\のもの、にんげんのものといつては、なんにもある事やございません。いちれつ一切、みな月日さま。月日さまのせかい。」とある。「月日様のもの」と書いたのは、前に「にんげんのものといつては、なんにもある事やございません。」と「人間のもの」という言葉があるために、関連づけて「月日様のもの」と書いたが、「みな月日さま。」と言う表現が気になり、「(月日様とも言える)」と記した。
 それは、後述の「神が人間に入り込み、または八柱の神様に人間の生を受けさせて、月日の心入り込んで、だんだんと、どのようなことも、教えて下さいました。(a)」また、同本「おはなし」の「助けるということ」の項目で「人は神と言うであろう。神と言うても、柏手を打つ神でもなければ、また拝む神でもない。「人はみな、神の子」と言うであろう。(書換)」「ひとはかみといふであらう。かみといふても、かしはでをうつ、かみでもなければ、また、をがむかみでもない。ひとはみな、神の子といふであらう。(原文)」とあり、また、同本「おはなし」の「一人助るは、神のやかたを作るもおなじこと」の項目で「「神の子、一人、不足な者、満足にしてくれたなら、神のやかたを作りたも同じ事。」神は、それほどに受けとるという。(書換)」「かみの子、いちにん、ふそくなもの、まんぞくにしてくれたなら、かみのやかたを、つくりたもおなじこと。神は、それほどに、うけとるといふ。(原文)」という文があり、全てが神様、月日様という考え方もできると思ったからである。

(3) にんきやわらぐ=意味が良く分からない。にんきを人気と考え、やわらぐを和らぐと考えると、
人気【人気】=1;人の意気。2;世間一般の気うけ。評判。3;その地方の気風。じんき。;「広辞苑」岩波書店より
やわらぐ【和らぐ】1;やわらかになる。柔軟になる。2;(風景・気候・感情・気質などが)おだやかになる。柔和になる。3;親しむようになる。睦まじくなる。;「広辞苑」岩波書店より
から、人同士が睦まじくなる。地域や国が睦まじくなると言う意味になるのではないか。

(4) 開明(かいめい)=人知開け、文化の進歩すること。文明開化。また、知識に明るく聡明なさま。;「広辞苑」岩波書店より

(5) ばんばん【万々】=(名詞)1:非常に多数なこと。2:はるかにまさっているさま。(福祉)1:十分に。よく。まったく。;「広辞苑」岩波書店より

(6) 感ぱい【感佩】=かたじけなく心に感ずること。深く感じて忘れないこと。;「広辞苑」岩波書店より

(7) かすこと=人間自分の物であれば、人に貸し与える事ができる。しかし、身体が無ければそれはできない。という意味で使われているのではないか。

(8) ひだるい【饑い】=ひもじい。空腹である。;「広辞苑」岩波書店より

(9) 安楽(あんらく)=心身に苦痛が無く楽々としていること。;「広辞苑」岩波書店より

(10) かたわ【片端】=目や耳など身体に完全でない所があること。またその人。不具。;「広辞苑」岩波書店より

(11) めくら【盲】=視力を失っていること。また、その人。;「広辞苑」岩波書店より

(12) あんま【按摩】=身体をもんで筋肉を調整し、血液の循環をよくする方法。もみりょうじ。また、それを業とする人。;「広辞苑」岩波書店より

(13) 始末(しまつ)=1:はじめとおわり。始終。首尾。2:事の次第。事情。特に、よくない結果。3:きまりをつけること。整理をすること。しめくくり。処理。4:浪費せず、つつましいこと。倹約。胸算用。;「広辞苑」岩波書店より

(14) 踏みかぶる【踏み被る】=1:水たまりや穴などに踏み込む。2:踏みつけて、そのはねかえりを身にうける。3:自分のしたことから不利益を蒙る。人の術中におちいる。;「広辞苑」岩波書店より

(15) 末始終(すえしじゅう)=1:すえのすえまでつづくこと。ゆくすえながいさま。2:最後。;「広辞苑」岩波書店より

注意:

(1)今回の現代文に書換については、当時の資料を読むに当たり、知らなければ読めない事が多くあり、それにつまずくがゆえに読むのが嫌にならないようにと思い、あえて現在「差別用語」とされている言葉もあえてそのままに使用し、後に辞典から意味を掲載した。
私の知らない差別用語もあるかも知れないが、これらの言葉はその人たちを差別する目的で使用されているのではなく、そうした状態にある事を当時は、そう言い表していたと理解している。その点をご理解頂きたい。

(2)おやさまという表記について
原文には「神さま」「神」「月日さま」「月日様」「神様」「月日」「おや神さま」「おやさま」「親様」「月日おやさま」と言う表現が出てくる。
 現在「おやさま」というと教祖を言い表しているが、ここで使われている「おやさま」「親様」はすべて親神様を表し、文中で言いたいこと、に合わせて「神」「月日」「おやさま」「おや神さま」「月日おやさま」と使い分けているように思われる。
 おふでさきの神・月日・親の表記の移り変わりに関係があるか?と感じた。
 現代文に書き換えるに当たり、「おやさま」「親様」の後には(親神様)を表記した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人間の数について」

2021年06月14日 14時39分41秒 | 正文遺韻抄

「人間の数について」『正文遺韻抄』153頁、(読みやすく書き換えてあります。)

 ある時、梅谷様より、仲田様、山本様などに、『人間は、9億9万9千9百9十9人の人数と、聞かせられるが、中に、牛馬に堕ちているものも、おるとの事なれば、人間の数は、現在増えておりますか、また減っておりますか』とたずねしところ、『そんなことは知らぬから、これから神様へ伺わん』と申して、教祖の御前に伺い、仲田様より、右の次第お尋ね申し上げしに、しばらくお伺いの態にて『それは増えてあるとおっしゃる』と仰せられて、それより、その次第をお聞かせ下さるには、
 『元は、9億9万9千9百9十9人の人数にて、中に、牛馬に堕ちている者もあるなれど、この世初めの時より後に、生き物が出世して、人間とのぼりている者が沢山ある。それは、鳥でも獣のでも、人間を見て、ああうらやましいものや、人間になりたいと思う一念より、生まれ変わり出変わりして、だんだんこうのうを積で、そこで、天にその本心を表してやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、そういうわけで、人間に引きあげてもろうた者が、沢山あるで』と仰せられ、一同感服して、御前を下がりしという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする